第75話
私がフリーズしたのはどうやら本当に一瞬だったらしい。次々と名刺交換する常務たちに倣って、私も先方と挨拶をする。
「おや、成瀬さん、とおっしゃるので?」
私の名刺を見た帝国管財代表取締役社長の首藤誠氏は、小さく驚いたように名刺と私を見比べ、そのまま父へ―成瀬一也へ―目線を向けた。
「偶然ですね、彼も成瀬さんですよ」
無邪気な首藤社長の言葉に促されるように父が歩み寄ってくる気配がする。私は笑顔を貼り付けたような顔のまま動けない。気が付けば父は横に立っていた。
「偶然ではないんです。下の娘です。いや、私も驚きました」
そっと背に手を当ててくれる。やっぱりお父さんは優しい。お母さんやお姉ちゃんとは違う。でも……。
心の中でぐるぐると考え込んでいた私は咄嗟に返事が出来なかったが、それより早く身内から驚きの声が上がった。
「えっ?! 成瀬、お前成瀬弁護士の娘だったのか?」
常務の声に、私は慌てて振り向いた。そうだった、お父さんは結構有名人だったんだ。私は首だけでコクコクと頷く。
「おや、佐々木君も初耳か」
「ええ。まあ部下の家族のことまではあまり話しませんし……。なんだ、お前をこのプロジェクトに入れたのは正解だったな」
父とは反対側に立つ常務にバンバンと背を叩かれる。そのおかげで息ができるようになったが、相変わらず父のほうを見ることは出来ない。
「まさか仕事で関わるとは、私も思いませんでしたが……」
恐縮するような父の声が懐かしい。いつでも周囲へ気を使う、その人柄は変わっていないようだ。
「いやいや、今回は特別プロジェクトなので、弊社の若手の精鋭を揃えました。中でも成瀬君はこの矢崎に次いで優秀ですよ」
親の前だからだろう、常務がかなり盛った評価をしてくれるのが寧ろ居心地悪い。明らかにそんなに優秀じゃないし。
「いやあ、驚きましたな。ま、さあ皆さんどうぞおかけください。あ、海田君も名刺交換終わったかな?」
首藤社長に確認され、私は慌てて統括部長の海田氏と名刺を交わす。全体的にうちのメンバーよりは平均年齢が高い。中でも一番の若輩の私は、この際だからお茶出しのためにこの部屋から出て行きたいくらいだ。
「さて、では始めましょうか」
優しいが低く力強い首藤社長の声で、打ち合わせは始まった。
◇◆◇
「では、どうぞよろしくお願いします」
話し合いが終わり、こちらの常務が改めて挨拶をする。私も矢崎さんも倣って頭を下げた。
「こちらこそ。今後は現場レベルでのやり取りが増えると思いますが、よろしくお願いします」
先方の海田統括部長がにこやかに返答する。見た目はいかついがとても物腰の柔らかい紳士だ。仕事上ではまた違う顔を見ることもあるかもしれないが、コミュニケーションは取りやすそうでほっとした。
では、と退室しようとしたところで、父に呼ばれた。
「千早」
え、何……?
「少しだけ、いいか」
「でも、今……」
一応業務中だし……。私は思わず上司二人を振り返る。出来れば父と話したくない私は、二人が反対してくれることを期待したのだが、やはり無理だった。
「待ってるからいいぞ。ゆっくり話してこい」
常務はそれだけ言うと、秘書に連れられて矢崎さんとふたりでとっとと階下へ降りて行ってしまった。裏切者。
私は観念して父へ向き直る。優しそうな、少し緊張したような父を改めて見る。十年近く会っていなかったうちに、大分白髪が増えたようだが、真っすぐな姿勢の良さは変わっていない。
「お前、ブライトに入社してたんだな」
「ああ、うん……」
お母さんには社名だけは言ってあったはずだけど。まああの人がわざわざ言うわけないか。
「ずっと連絡もなくて、心配してたんだ。……元気だったか?」
お父さんが言いそうなことだと思いながらその言葉を聞いていた。傍から見れば勝手に独立して実家に顔を出さない無責任娘と、それを気遣う優しい父という構図だろう。私が何故実家との連絡を絶っているかなんて、誰にも話していないのだから。
「大丈夫。仕事も楽しいし、同僚や上司にも恵まれてるし、ご飯もちゃんと食べてるよ」
そう言うと、父は少しだけ笑みを強めてウンウンと頷く。
「そうだな。お前は子供の時からしっかりしてたもんな……」
そうだろうか。子供の頃から一人で勝手に何でもやっていたのは、あれこれ口出されて否定されて馬鹿にされるのが嫌だったから、自然とそうなっただけだ。お父さんは結果しか見てないから、『しっかりした子供』だと思っていたんだろう。
仕事の場だからと保っていた緊張感も、父と二人になったことで緩み始めた。姉と遭遇した時ほどひどくはないが、少しずつ息をするのが苦しくなってきた。もう限界だ。
「じゃ、上司が待ってるから」
それだけ言ってエレベーターへ向かおうとしたら、お父さんがすっと手を上げて私の頭に置いた。
「何かあれば連絡しろ。家族なんだから」
何年振りかで父に頭を撫でられた。大きな手。私に近寄ろうとしない母の代わりに、子供の時はいつも父が手を繋いでくれたことを思い出す。そうだ、子供の時は私はお父さんが大好きだった。でも……。
たどった記憶の終着点はいつも同じものだ。
一瞬だけ暖かくなった胸を、その記憶が冷ます。私は一歩身を引いて、父に頭を下げると、一言も口を開かないまま今度こそエレベーターへ向かって歩き始めた。
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