第32話
病院で処方された薬を飲んで横になると、久しぶりの外出による疲れのおかげかすぐ睡魔がやってきた。
目が覚めると窓の向こうは既に暗闇だった。少なくとも三時間以上は眠れたらしい。
起き上がって麦茶を注ぎながら体温を測る。三十六度五分。あー、やっと普通になった。よかった、本当に良かった。
検温結果を見て安心したからか体が軽く感じる。やっと元に戻ったかもしれない。
元気になったと思った途端空腹を感じるとは如何なものか……。でも昨日までお粥やゼリーしか喉を通らなかったのが嘘のようだ。冷蔵庫を開けると来人が作り置いてくれたハンバーグや八宝菜がタッパーに入って綺麗に並んでる。大したものだと感嘆する。世話焼きだし、すぐにでも嫁に行けるわ、あの子。
一つ取り出しレンジで温め直す。ご飯をよそってダイニングテーブルに座り、手を合わせて口を付ける。味付けも濃すぎずしつこくない。料理上手いんだな。
後でちゃんとお礼しなきゃ、と思って片付けに入ろうとしたところで、部屋でスマホが鳴っていることに気づいた。
「はい」
『あ、起きてた?来人です』
「ああ、うん、起きてた」
『病院どうだった?』
「風邪と、若干の疲労だって。でももう熱も平熱まで下がったし大丈夫」
『よかった。食欲は?』
「戻ったよー、ああ、来人が作っておいてくれたハンバーグ食べた。美味しかった」
『ハンバーグが食べられるようになったらなら大丈夫か。残念、ダメなら今夜も行こうと思ったのに』
人が回復したのに残念て。
「お生憎でした。明日は念のためまた休んで、木曜から出社することになったよ。それはOK出た」
『……やっぱり矢崎さんと行ったんだ、病院』
いきなり来人の声のトーンが下がった。そうだ、二人だけでおかしな会話交わしたって言ってたな、矢崎さんが。
「来人、なんか怒ってる?」
『怒ってはいないよ。不愉快なだけ』
違うのか、それ。
『まあ、今の時点ではしょうがないって思っておくよ。じゃあ今日はもう見舞いは要らない?』
「週末からお世話になりました。もう十分です」
『なんだよ冷たいな。お礼とかしてくれないの?』
自分から言うなって。しようと思っていた気持ちが萎えるわ。
『こっちからちゃんと誘っていい?金曜日は騙して拉致るような真似しちゃったし、そのお詫びも兼ねて』
「……あまりかしこまらないで。そう言うの苦手」
『あはは、そんな感じ。……もし体調戻ってるなら今週末は?』
金曜日……、って、先週延期にした矢崎さんとの約束がある。体調を理由に断ろうと思っていたんだけど。
「まだちょっと夜出かける自信はないかな」
『そっか、そうだよね……。うん、焦ってごめん。もう少し経ってから誘うよ』
そもそもそれが要らないんだけどな。お礼するなら……。
『ちゃんと付き合ってね。物贈ってきたりして逃げるなよ』
やっぱりエスパーだ。何故わかる。
『じゃあ、お大事にね』
「ありがとう」
来人との通話が終わる。彼とのやり取りは、矢崎さんとは違う意味で緊張する。
矢崎さんとの会話はある意味『普段通り』だ。自分以外の人間と話すと、大抵付きまとってくる違和感。しかし一人一人違う人間なのだから当たり前だ。
来人は少し違う。私ではない別の人間なのに、何故かこちらの半歩先を予想してくる。『分かってるぞ』という無言のメッセージ。
家族にも友人にも、一人だけいた恋人にも理解されることが無かったから、他人が自分を理解する、という事象がよく分からない。想像出来ない。
共感。同意。
憧れを抱いたことが無いと言えば嘘になるそれらの感情を、しかしいざリアルに誰かから向けられると恐怖が先に立つ。
自分一人しかいないと思っていた世界に、突然誰かが入ってくる。
私と同じ速さで道を歩く。同じテンポで、同じ呼吸で。
同じ曲がり角を同じ方向に曲がってくる。何も言っていないにも関わらず。
嫌悪はない。微かに嬉しい気持ちもある。けれど。
ふいに、もう十年近く会っていない父の顔が浮かんだ。
思い出したくない声が耳の奥から響いてきそうな予感がして、慌てて私はテレビを付けた。普段はほとんど見ないが、今はあの騒音しか、私を蟻地獄から救ってくれる方法を思いつかなかった。
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