第54話 ピーチカクテルサワー
音声の遮断が解かれ、パステルの耳にガヤの声が流れ込む。パステルは顔を上げて辺りを見渡すが、観客達はストレッチャーに乗せられる男に注目しており、パステルの発言に関心を示さなかった。
もう終わった。
パステルの体から力が失われ座り込む。会場入りした時はそれなりにイベントを楽しめていた。今は一秒でも早く家に帰りたい。これからどうしようとか、どうなるのとか、考える力は残されていない。帰りたい。早く家に帰りたい。それしか浮かんでこない。
倒れた男が退場して数分後「男性の容体を確認しておりますので、今しばらくお待ちください」と会場に放送が流れる。その女性の透き通った声は慌てていた。SWHにとっても緊急事態なのだろう。何処かで聞いたことのある声だったが、今のパステルにとってはどうでもいい。笑い交じりのガヤが混沌を更に深くする中、ステージ上に、SWH社長のストックと執事長のバロンが現れた。ストックは神妙な面持ちだが、バロンは落ち着いた表情で冷静。そこはやはりアンドロイドなのか、何処か他人事のように感じられる。気まずい雰囲気に包まれながら、ストックは深々と頭を下げる。男の容体は命に別状がない事、そしてイベントの続行は不可能だという事を伝え、再度深々と頭を下げた。
観客達が怒っている様子は無く、疎らな拍手がステージ上の二人に送られる。観客達にとっては、いいものを見たというか、いい事を聞いたというか、参加した金額分は楽しめたみたいだった。最後にタンナーズが立ち上がり「今宵はわらわの奢りで宴じゃ!」と言い会場を盛り立てた。
第二回メンズ・オークションは、公式上失敗という結果で幕を閉じたのだった。
パステルはタンナーズの開いた宴に参加せず、ホテルのマイルームで帰りの準備をしていた。明日には東京に帰るのだ。第二回メンズ・オークションのネコネコ生放送をタイムシフトで確認しようとしたが、動画は全て削除されていた。あの内容では無理もない。パステルはベットに倒れ込んで布団にしがみつく。全ての世界が反転して見える。昨日の世界とは違う異世界に迷い込んだ気分になっていた。こんな精神状態ではネットの反応を深追いできない。ネットを全て遮断したパステルは、私服のまま眠りについた。
パステルはシェレメーチェ国際空港で東京の便を待つ。
そんな時、ソフィアからのメールが入る。スマホではなくナノマシンネットワークの方に。スマホの通知は聞き逃す場合があるが、ナノマシンネットワークは脳内に直接効果音が鳴る為、まず気が付かないということはない。普段ならすぐメールを見て返す所だが、今は見たくない気分だった。家に帰ってから見ようと、新着メールを放置した。
日本国際空港のロビーにパステルが入ると、マスコミの集団がパステルの方を見ていた。パステルは、自分の後ろにVIPな著名人でもいるのかなと振り返る。パステルの視界に、著名人らしき人物は誰もいなかった。マスコミの狙いは自分だ。気がついた頃には時既に遅し。
「パステルさん! レズビアンを装っていたっていうのは本当ですか!?」
「えっ、えっ?」
「LGBTの人達に失礼だとは思わなかったんですか!?」
パステルの場所は、瞬時にマスコミの餌ポイントと化した。
リポーターから次々と質問が浴びせられる。
もみくちゃにされ、出口に向かえない。
「ごめんなさい! 通して下さい!」
リポーターやカメラマンをかき分け、タクシー乗り場へと駆けて行く。
どうしてこんな事に。思考は自然と駆け巡る。メンズ・オークションでの発言は数人しか聞いていなかった。近くにいたソフィアやタンナーズが話を流したとは考えられない。ネコネコ生放送のタイムシフトは削除されていた。
「謝罪の言葉はないんですか!?」
マスコミが追いかけて来る。パステルはタクシー乗り場で待機していた一台に乗り込み、ドアを勢いよく閉めた。
「お客さーん、何処に向かいます?」
運転手は男のアンドロイドだった。
「出して! とりあえず出して!」
「へーい」
運転手の気の抜けた声と共にタクシーは出発。
馴れ馴れしい運転手だが、恐らくそういうキャラなのだろう。
パステルはスマホを開き、第二回メンズ・オークションの動画を漁る。タイムシフトは削除されていたが、別の動画が新たに公開されていた。
「お客さーん。シートベルト、シートベルト」
シートベルトをしながら動画を確認すると、パステルの「レズビアンを装っていた」という発言が、しっかりと映像に記録されていた。
「うーわ最悪」「この子ファッションレズだったんだ……」「フルボッコの刑に処すべし」とコメントが荒れていた。完全に炎上している。ファッションレズのタグを見ていくと、複数の同じ動画に流れついた。もう既に非公開になっているか、削除されている動画群。ネコ生を配信していたパステルが、この状況を理解するのに時間はかからなかった。恐らく動画が公開されては削除されるというイタチゴッコがネット上で繰り広げられているのだ。
「あの、行先は?」
「文京区に向かって! 私の家があるから」
この状態でも強気に言えるのは、相手がアンドロイドだから。
もし本物の運転手なら、気まずい事この上ない。
運転手がアンドロイドで良かったと胸を撫で下ろす。
タクシーはパステルの自宅マンション前で止まる。タクシーのドアを開くパステルだったが、視線の先にたむろしている男性のアンドロイドカメラマン達が「いたぞ!」と声を出したので、瞬時にドアを閉めた。
「どうしたんで?」
「マスコミがいたのよ!」
「そりゃいるでしょうよ」
「何で教えてくれなかったの!?」
「聞かれなかったので」
パステルは「もう!」と怒りを爆発させたくなった。
アンドロイドで良かったと思ったらこれだ。
「出して!」
「次は何処へ?」
「いいから! 出して!」
パステルはシートベルトをして頭を抱える。
「東京ヒュージホテルに行きます?」
「そこならマスコミに捕まらない?」
「インペリアルフロアに入ればマスコミは遮断出来るかと、かなりお高いですが」
「わかった、そこに行って」
タクシーは裏口からヒュージホテルに入りVIP用駐車場に止まった。パステルは運転手にお高い運賃料金にチップを弾ませた。運転手のニヤケ顔は「あんがとさん」と言いつつも状況を楽しんでいるように感じさせた。
インぺリアルフロアの一室に逃げ込んだパステルは、放置していたソフィアのメールを確認した。「今回のイベントは色々とごめんなさい。暫くモスクワに滞在しない? 話したい事もあるし」との内容。レズビアンを装っていた発言を近くで聞いていたソフィアは、こうなる事を予測していたのだ。
メールを読んでモスクワに滞在していれば、マスコミに追われることはなかった。ファッションレズをメンズ・オークションで告白しなければ、炎上する事はなかった。あれだけLGBTで炎上しないように気をつけていたのに。
たらればを言いだしたらキリがない。メールをすぐ読まなかったことを謝罪する為、パステルはソフィアに電話をかけた。
「ごめんソフィア、メール読まないで日本に帰っちゃった……」
『別に大丈夫。それよりそっちは大丈夫? さっきテレビに映ってたから……』
「どうしよう、ソフィア……私もうダメだ……」
『今何処にいるの?』
「東京ヒュージホテル。自宅にはもうマスコミが張り付いてるから」
『仕事が落ち着けばそっちにいけるから、最低でも三日待って。死ぬとか絶対ダメだからね』
「わかった、ありがとう」
通話が切れた途端、震えが止まらなくなる。
もう終わりだと思っていたのに、これから果てしない地獄の苦しみが想像され、体を蝕んでいく。
パステルは設置されていたテレビを点ける。どのチャンネルを回しても第二回メンズ・オークションでの運営の失態や、パステルの発言を扱っていた。パステルの経歴がパネルで準備され、次々と晒されていく。それに合わせて発言するコメンテーターはパステルの言動に否定的な意見が多かった。発芽ミクロやハナロミとコラボした時はあんなに持ち上げていたのに。
事務所の話題が出た時に、パステルはマネージャーの事を思い出した。
今何をしているのか。
マネージャーのパノラに電話をかける。
『お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません』
そのような電子音のメッセージが流れた。
パステルは暫く固まって動けなくなった。
次の日、パステルにメールが届けられた。
所属事務所のサービスリップからだ。
内容は「解雇通知」。
大舞台で発言したカミングアウトが彼女の人生を大きく変えた。パステルは芸能界での全てのキャリア、そしてマネージャーを失ったのである。
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