7. テンプラマヨネーズ
教室の引き戸を開けると、入り口の側でなにやら話していた女子のグループが驚いたように振り返り、澄人と目が合う前に慌てて目を逸らした。
「おっす、澄人、聞いたかよ!? 二年の太田留実センパイ」
クラスメイトで幼馴染の浅川礼二郎が窓際から机を縫って近づいてくる。礼二郎の家は祖父も父親も警察官で、母親は書道教室の先生だ。職業柄かしつけには厳しい家庭で、小学生の頃は買い食いは厳禁、テレビは一日一時間など細かい決まり事が多くて、澄人も通っていた礼二郎の母の書道教室は礼儀作法に厳しいことで有名だった。
澄人は子供の頃から割合礼儀正しい方だったので、礼二郎と仲良くなったのは彼の母親に気に入られていた、というのもあるかもしれない。とはいえ、当の礼二郎といえば、ひょろりと背が高くてたれ目の顔に、いつもヘラヘラと笑いを浮かべた調子のいいタイプで、とてもそんな家庭の子供とは思えない楽天家である。
「今朝、泉寿寺の側を通ったらテレビのレポーターに呼び止められた。詳しくは知らないけど」
「安全装置の誤動作でエレベーターが体半分挟んだまま上昇したんだ。現場は血の海だったってさ」
机の間に挟まるように背後に立っていたのは、小早川武虎だ。小太りで手足が短く、日本人離れした浅黒い肌の持ち主だが、れっきとした日本人だ。父親は高級ブランド店の立ち並ぶ一等地を縄張りにする地上げ屋で、家は超のつく金持ちだ。小学校は澄人たちと同じ公立に通っていたが、中学は大学付属の私立に進学した。それなのに澄人たちと同じ公立高校に入学したのは、中学三年の時に父親が脱税で逮捕され、一年間の「懲役に行く」ことになったのが原因だ。
「つまりさ、そんなに出血したってことは体がちぎれたってことだよな。俺マジでその現場みたかったよ。人身事故の現場とかさ、一回見てみたいよな」
「よくそういう不謹慎なことが言えるな。この学校の生徒の事故なんだろ」
あきれる澄人に武虎が細い目を見開く。
「同じ学校だろうがどっかの国の外人だろうが、話したことない他人ってことに変わりないだろ。澄人だってこの間テンプラマヨネーズの生贄がおもしろかったって言ってたじゃねえか。それともなんだ、澄人は人種差別とかしてんのか。外国のテンプラマヨネーズは死んでもよくて日本人はだめなのかよ」
「テンプラ……もしかしてテンプロマヨールのことかい」
「知らねえよ。お前が話してたんだぜ」
「僕が話したのはテンプロマヨール——アステカの生贄文化のことだろ。おもしろいって言ったのはアステカ人の太陽信仰が昼と夜の循環を人の生死に重ねて、生贄の心臓を捧げることで昼夜をコントロールしてるんじゃないかっていう考察についてだよ。別に残虐な行為自体がおもしろいって言った訳じゃない。小早川の変態趣味と一緒にするなよ。大体、テンプロマヨールはアステカの神殿の名前で人じゃないし」
「どうでもいいだろ。テンプラとかアステカとか、オタクくせーな」
「オタクはおまえだろ!」
「なあ、昨日って満月だっけ?」
礼二郎が不意に問いかけてくる。
たぶん満月の呪いのことを言っているのだろう。満月の夜になると何かの呪いだかで人が事故死するという噂が校内に広まっていた。
「さあ。どうせ満月じゃなくても一週間もすれば満月の夜だったってことになるだろ。満月の呪いなんて馬鹿馬鹿しい噂、信じる奴の気が知れないよ」
「いや、あれは噂じゃなくてマジだぜ。だって俺、学校くる前ネットで調べたけど昨日は満月だった」
「うっそ、やっぱ満月の落武者の呪いはマジだったのかよ。戦国時代に源平合戦で敗れた平家の残党が、逃げた里の村人に裏切られて満月の夜に月の岬で殺されたって」
礼二郎が刀を振り降ろすまねをする。
「源平合戦の落ち武者が源氏の領土に逃げてくるわけないだろ。月の岬は江戸時代についた名称だし、地域も時代考察もめちゃくちゃじゃないか。そんな適当な噂誰から聞いたんだよ」
「猪瀬」
「ああ、だろうね」
噂好きかつ歴史に詳しくなさそうな猪瀬ならその手の噂を疑いもせずに流すだろう。
「俺が聞いたのは御崎神社の生け贄。江戸時代、満月の夜に女の子が御崎神社に埋められたらしいぜ」
「ばかばかしい、神社設立に人柱なんて聞いたことないよ。城の建設とか橋の建設の基礎に人柱を立てるって聞いたことはあるけど」
澄人が自分の席に座ろうとすると、隣の席の女子——たしか名前は溝口理子——が立ち上がり、その拍子に机からペンが一本転がり落ちた。澄人が何気なく拾い上げて差し出すと「ひっ」と息をのんで溝口が後ずさり、椅子をひっかけて倒した。教室に派手な音が響く。
「の、呪わないで」
「へ」
溝口の背後にいたの女子の集団が警戒した表情でこちらの様子を窺っている。
「……ペン落としたけど」
とりあえず拾ったペンを返そうとすると、溝口が毛虫でも突きつけられたように、いや! と澄人の手を払った。軽いプラスチックの音をたててペンが転がる。いつの間にかクラス中がこちらに注目していた。
「そうよ! 理子! やっぱり元凶はこいつなのよ!」
よく通る声で猪瀬が女子の集団の中から声を上げ、大股でこちらに近づいてくる。
「どういう意味だよ」
猪瀬はふん、と鼻を鳴らし、手のひらをこちらに突きつける。先ほど擦りむいた手首のあたりに包帯が巻かれている。澄人が教室に向かう時には姿が見えなかったと思ったら、保健室に行っていたらしい。薄皮が擦りむけていただけなのに、だ。
「前々からおかしいと思ってたけど、今朝確信したわ。あんたには悪魔がついてんのよ。だからあんたの側にいると呪われて不幸な目に遭うの。この手の怪我が証拠よ! 二年の太田先輩といい、最近この辺りで変な事故ばっかり起きてるのもあんたのせいに間違いないわ」
「変なこじつけするなよ。僕が事故現場にいたわけでもないのに」
マリアがくっきりした二重の目をこれまたくっきりした一文字眉に引き付けるようにして上目で睨む。
「今朝、太田先輩のマンションの方から歩いてきたわよね。通学路じゃないのに何やってたのよ」
澄人はつい言葉に詰まる。まさか通学途中に木材が倒れてきそうな気配を感じた、とは言えない。それはそれで呪いを裏付けてしまう。
「言えない理由なんでしょ」
「テレビで見たから気になっただけだよ。大体、事故が起きたのは夜なんだから僕には関係ないだろ」
「犯人って、事件現場に戻る習性があるってね」
マリアが目を細める。まるで推理小説の終盤だ。
「やば、マジで立花が犯人なわけ?」
「またマリアのネタだと思ってたけど」
様子を見守る周囲の女子がひそひそと言葉を交わしている。
「平家の落ち武者だ、悪魔だ、殺人だって、言ってることが支離滅裂じゃないか。本当、賢すぎて同情するよ、猪瀬」
苛つきを顔に出さないように笑おうとしたが、頬がぴくりと引きつった。
「ふん、ガリ勉の負け惜しみね! 受験に失敗したくせに!」
「ぐっ」
言い返す言葉が何も出てこない。澄人は第一志望の高校に入れなかった。月の台高校に入学したのは、この学校が定員割れして二次募集を行ったからだ。
肩を落とした澄人に、マリアは意を削がれたように口を尖らせる。
「とにかく、これ以上噂にされたくなかったらあたしと柚花にはもう近づかないでよね」
「安心しろ、猪瀬。上原はともかくお前には近づかないって約束する」
礼二郎が妙にまじめな顔で言った後、ははは、と自分の言葉に笑う。
「うるさい! あんたたちも立花に呪われて後悔しな!」
席に戻りかけていた猪瀬が歯をむく。
「なにカリカリしてんだ、あいつ」
「二日目だろ、マジで」
そう言って武虎がひひひと猿めいた笑いを漏らす。
「気にすんなよ、澄人。こんな事故でみんなヒステリー起こしてるんだ。あと何日かしたら元どおりだって」
礼二郎が澄人の背中を叩いて席に戻る。その後ろ姿に淡い光をまとった羽根が揺れている。
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