第五話 俺が受け取ったもの
食べ物のにおいで目を覚ました。思えば、レキさんと初めて対面してから、俺はどのくらい気を失っていたんだろう。それで、どのくらい食べないでいたんだろう。
痛いと勘違いするほどに胃がぎゅうっと動いていた。起き上がれば、ハクットゥレさんが何かを持ってきてくれたところだった。器とスプーンを受け取って、覗き込んで、温かな湯気に当たる。
今日のスープには具が入っていた。前にも食べた、芋のようなもの。スプーンで崩すと、スープの中にほろほろと落ちてゆく。
それを掬い上げて口に入れると、スープの味がじんわりと口の中に広がった。飲み込めば、自分の体の中を温かなものが通ってゆくのがわかる。その熱が、体のあちこちに広がってゆくようだった。
俺はまた夢中でそれを食べた。レキさんが来たのは、ちょうど食べ終わって、ハクットゥレさんに器とスプーンを返したときだった。
空になった器を手にしたハクットゥレさんが部屋を出て行った。
それと入れ替わるように、レキさんの後ろからシルが顔を覗かせる。目が合うと、シルは嬉しそうな顔になって、部屋に飛び込んできた。
ベッドの上に手を置いて、身を乗り出して、シルが俺の顔を覗き込む。
「ユーヤ! エーケトマエーシュ」
その声に、俺は瞬きをしてシルを見返した。シルは全くいつも通りで嬉しそうに俺の顔を見ていたけど、俺が返事をしないからかその表情を不安そうに少し曇らせた。
俺は慌てて、頷いて笑ってみせた。声は、出せなかった。
その後に続くシルの言葉の意味は、何もわからなかった。ただ、その連なりの中に「ユーヤ」という音が現れたときだけ、俺の名前が呼ばれているのだとわかる。
シルが不安そうに俺を見ている。きっと、俺が何も応えないから。
やがて、シルは口を閉じてじっと俺を見た。何か言わないと、と思って口を開く。きっとそうなんだろう、という予感と共に、シルをじっと見て声を出す。
「シル、俺が話してること、わかる? 意味、伝わってる?」
俺の言葉を聞いて、シルは目を見開いた。信じられないように俺を見ている。
「シル……あの、俺にはシルの言葉が、意味がわからなくなって……」
シルの見開いた目に、涙が浮かんできて、膨らんで、耐えきれなくなったように頬を流れ落ちた。
「ユーヤ! ユーヤ!」
「名前はわかる。聞こえるよ、シル」
シルが俺の腕を掴んで、大きく首を振った。銀色の髪が広がって、部屋の灯りできらきらと輝く。
「ネイ! エハー! ユーヤ、エハー!」
泣き叫ぶその言葉は、どんな意味だろうか。もしかしたら、泣くときの言葉に意味なんかないのかもしれない。
「シル、落ち着いて、シル」
シルはまた首を振って、俺の腕にしがみつく。広がって乱れる髪を、俺は撫でた。
「シル、大丈夫だから」
他に言うべき言葉が見付からなくて、こんなときでも俺は「大丈夫」と言ってしまう。でも今は、それすら通じない。
俺が呼びかけて、シルが首を振る。それを繰り返して何回目か、シルが顔を上げて俺を見た。その顔を手のひらで拭う。
困ったように俺を見るシルに、俺は笑ってみせる。それから、聞き取りやすいように、はっきりした声でシルに伝えた。
「
何を言われたかわからないみたいに、シルはぽかんと口を開いた。その表情のまま、俺が言った言葉を震える声で繰り返す。
「タッシ」
シルをじっと見たまま、俺は頷いた。
大丈夫、と心の中で唱える。俺は新しい言葉を覚えながら旅をしてきた。片言だったし、間違って覚えている言葉だってあるのかもしれない。それでも、いろんな人と話すことができた。
俺が話せばなんとかなる。そう言ってくれたのはシルだ。
だから、大丈夫。
「
そう言って、シルの手を取ってベッドから降りて立ち上がる。シルと向かい合って、右手と左手、左手と右手、少し体温の低いシルの手をぎゅっと握る。
シルが不思議そうな顔で俺を見る。俺は笑って、声を出した。
「
俺のその言葉で、シルはようやく気付いたのかもしれない。俺の手をぎゅっと握って、身軽に跳ねた。合わせて俺も跳ねる。覚えていたところだけだけど、歌も歌った。
そうやって跳ねているうちに、シルが声を上げた。
「センルバツ」
それを合図に、二人で左回りに回り出す。くるくると。
ディラ・ルッタ ディラ・ラッタ ルラ・
これ以外の歌詞はほとんど覚えていない。鼻歌で誤魔化したけど、シルは笑って「イールバツ」と声を上げた。だから今度は反対回り。
それから「カナ」と言ったら左手は離して右手どうしを繋いで目一杯離れて、「エデ」と言ったら今度はぶつかるくらいに前に踏み出す。
こんなに近い距離で跳ね躍るのは難しくて、俺とシルはすぐに足をぶつけ合って、慌てて元の位置に戻ることになった。
それでもまだ
リーリル・リラ・ルラ
ルラ・リルッタ リラ・ルラッタ
歌詞の細かなところが違っている気がする。特に意味のない言葉の繰り返しだから、どの言葉が最初でどの言葉が最後だったか、それとも俺が勝手に歌詞を作り出してしまっているかもしれない。
それでも構わないと、俺は歌い続ける。二人でくるくる、くるくると、回っているうちにシルは声を上げて笑い始めた。
シルの長い髪は広がってぐちゃぐちゃだ。俺の伸びてしまった髪は、きっともっとぐちゃぐちゃになってしまっていると思う。踊りだって、きっとめちゃくちゃだ。それでも、俺とシルにはそれで大丈夫だった。
息を切らせてしまって、床に座り込む。シルはまだ元気そうだけど、俺が限界だった。これでも旅を始めた頃を思い出せば、だいぶ体力がついたと思うのだけど。シルはきっとちょっと規格外だろうから、シルと比べちゃいけないのかもしれない。
顔を上げたら、部屋の入り口で気持ちの悪いものでも見たような顔をしているレキさんと目が合った。その表情を見て、俺は笑ってしまう。
そんなに疲れてないだろうに、シルも俺の隣に座った。俺は呼吸を整えてから、シルの方を見る。
「シル、
俺の言葉に、シルは息を呑んだ。目を見開いて、でもさっきの伝わらなかった時とは表情が違う。今のこの表情は、きっと伝わったからだ。
「ユーヤ……イカシ」
小さな声で、シルがその言葉を言う。俺の言葉もシルの言葉もお互いにわからなくなってしまったけど、気持ちを伝える方法はまだたくさんある。
俺は頷いて、もう一度言った。
「
「ユーヤ!」
シルが俺の名前を呼んだかと思うと、俺に飛び付いてきた。その柔らかな感触に、これも気持ちを伝える方法だったんだと気付く。だから俺も、そっと、シルの背中に手を置いた。
シルはその気持ちを俺に渡してくれたし、俺はそれをちゃんと受け取ることができた。
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