第32話 ~嵐の前の曇天~
雲の多い日だった。梅雨が近づいているのだろう。
快晴が対怪機構を追われてから、早くも一ヶ月近くが過ぎていた。
かつての貧乏青年は今、
“組織の情報を他言しない”という契約書にサインをした見返りに得られたのが、この分不相応な住まいと、向こう三〇年間は働かずとも食ってゆけそうな額の貯金だった。
名目上は在籍中の活躍に対する報償金。その実は手切れ金であり、口止め料である。
普通なら手に出来ないような資産を一挙に得た快晴だったが、その心は晴れなかった。
最初の一週間は部屋に閉じこもり、己の涙を飲み、
つづく一週間は、むりやりにでも開き直ろうとして金を使いまくった。
一本五万円の酒も飲んでみた。グラム千円の肉も食べてみた。高級ブランドの革ジャケットも着てみた。読みたかった漫画も豪華版で揃えてみたし、最新のVRゲーム機にも手を出した。
そして、前々から欲しかったバイクも手に入れた。250ccと、振り込まれた額に比べれば控えめだったが、前から乗りたかった車種がそれだったのだ。
とにかく、金で出来ることはすべてやった。
それでも虚しさは消えなかった。
──「『すべては夢でした。私のことは忘れてください』」
流刑地行きの車に乗る際、京香に告げられたアーバロンからの
忘れられるわけがない。快晴にとっては、今の現実こそが悪い夢のようだ。
今でも、彼女と一緒にいる夢を視る。そして目覚めるたびに頭を抱え、思うのだ──なぜ
──「きみとは、またすぐに逢える気がします」
司令と一緒に見送ってくれた参謀は別れの握手を交わしながら、快晴にだけ聞こえるように囁いた。
なにか根拠があったのだろうか。それともいつぞやのような勘だろうか。
いずれにせよ、そんな小さな希望では支えにならないほど、快晴の心は折れきっていた。
形梨や司令にまた逢えたとしても、肝心のアーバロンは(快晴の知っているソラは)もう、どこにもいないのだ。
あの無表情な鋼鉄の奥底に感じられた優しい笑顔は、消えてしまった。
バイクを買ってからの半月、快晴は毎日のように愛車を乗り回していた。今まで欲しくて手に入らなかった
だが無理だった。
何度も思い出すのは、アーバロンと最初に逢った日のこと。盗んだ原付で彼女のもとへ突っ走ったときのことだ。
それでもなお、思い出すら振り切ろうとするかのように、快晴は来る日も来る日も、バイクを駆った。
その日も、快晴は目的のないツーリングに出かけようとしていた。
どこへ行こうとも考えていない。峠道、高速道路、沿岸、街中……どこを走っても、結局は与えられた住まいに戻ってくるしかない。
たった一人の部屋。待っている人もいない。友達もいない。
かといって、新しい職に就いて同僚や上司を得たり、どこかの趣味のコミュニティに入ろうという気には、到底なれなかった。
以前がそうだったように、どこへ行っても自分は一人ぼっちなんだろうという気がした。
唯一、自分が見つけたはずの居場所は…………
ビーッ──
地下駐車場に下りたところで、一台の原付がクラクションを鳴らし、目の前に止まった。
ヘルメットのシールドの奥に丸眼鏡の童顔が見えて、快晴は目を丸くした
「森さん!?」
「お久しぶりです。元気してました?」
シールドを上げて美麻は挨拶した。
白衣でも作業着でもない私服の技術主任は、いつにも増して幼く見えた。走るたびに警察に止められないか、無駄に心配になる。
と思ったら、免許証を透明なパスカードに入れて、首から提げているではないか。なるほどこれは便利だ──そして苦労が忍ばれる。
「ええ、まぁ。ていうか、オレに会って大丈夫なんですか」
心の傷を精一杯隠しながら快晴は答えた。
だが、美麻が会いに来てくれのは素直に嬉しかった。
「本当は駄目です」
えへん、とばかりに胸をはって美麻は言った。
「ほらやっぱり……」
呆れながらも、この人らしいな、と快晴は笑みをこぼした。一ヶ月ぶりの笑顔だった。
「でも、快晴さんの見送りも出来ませんでしたからね。これくらいはさせてもらって当然です」
快晴の送迎に立ち会ってくれたのは、京香と形梨の二人だけだった。いちばん縁が深いはずの美麻は、資料整理だか調整だかを理由にして来なかったのだ。
「もっとも、私もあのとき、一緒に見送られてたってのもありますけどねッ」
フーンと鼻で息を吐いてドヤ顔を作る。
「え、どういう……?」
「おっと、これ以上の話は、ここではやめておきましょう。産業スパイやブン屋さんや宇宙人がどこで聞いているか分かりません」
「はぁ……?」
三つ目は冗談だろうな、と思いつつ快晴は相づちを打つ。
「快晴さん。これから私に付き合ってくれませんか?」
「え、付き合う……ンですか?」
「はい。是非とも逢って欲しい人がいるんです」
ああ、そういう意味か……と快晴は安堵半分、落胆半分で項垂れた。
美麻は“私に付き合って”とは言ったが、“私と付き合って”とは言ってない。キーワードに過剰反応してしまうあたり、相変わらず進歩のない男だと自分でも思ってしまう。
*
「私、本部の方針に腹立って自主休暇取ってる最中なんですよ」
エンジンと風の音が叩き込まれるヘルメットのなか、美麻の声は耳にはめた小型インカムから聞こえていた。
美麻が先行する形で、二人は峠道を走っていた。原付のスピードに合わせなければならないぶん、快晴には少々もどかしいツーリングである。
ちなみに快晴の危惧したとおり、ここへ来るまでの街中で、美麻は三回、警察に止められて年齢を確かめられた。
「え、自主? 申請とか通してないんです?」
「はい。実は快晴さんが支部から追い出されるとき、私もあの車に乗ってたんです。というか
「はい?」
「ま、つまり密航です。運転手に根回しして、最低限の荷物と一緒にトランクルームのなかにチョチョイっと隠れてました」
驚きのあまりハンドルがブレそうになる。
思い立ったが吉日というか、いざというときの行動力がトンデモナイのは経験済みだが、まさかそこまでするとは。
「え、じゃぁ今ごろ基地は……」
「多少パニクってるかもですが、本部直属の技術者さん達がなんとかしてるんじゃないですか? 本部だって、私を干すつもりであの人達を送り込んできたみたいですし」
言外に「まぁ無理でしょうけど」と言ってるのが声音でわかる。大天才、仁博士の一番弟子としての自信だろう。
「でも、アーバロンの整備は大丈夫なんですか? ずっと森さんがワンオペでやってたじゃないですか」
「ご心配なく。がっちがちにメンテ決めてきたので、怪獣が来ても二体くらいまでなら問題なく稼働できるでしょう。まぁ、あの人達が余計なことをしてなければ、ですがね」
んん……と快晴は小さく唸った。
主任が自信たっぷりに言うのだから、よほどのことが無い限りは大丈夫なのだろう。
だが、心配せずにはいられない。
(その“よほどのこと”が起きたら、一番困るのはソラじゃないか……)
ソラ──快晴はまだアーバロンのことを心のなかでそう呼んでいた。
向こうはもう自分のことなどなんとも思っていない。自分にも、向こうを心配する資格などない。
アーバロンという鋼鉄の巨体のなかに生まれたソラという心。その心が消えた以上、あれはもうソラではない。
本当に諦めの悪い男だな、と快晴は自分を嘲った。
「そろそろ見えてきますよ」
美麻の言葉で、快晴は前方に眼を凝らす。
山の木々を押しのけるような、大きな洋館の屋根が見えた。
(え、あんなのアニメかホラー映画でしか観たことないぞ……)
巨大な
「じいや、私です。門を開けてちょうだい」
門柱の上についた監視カメラに美麻が言うと、重々しい音を立てて(しかし意外と素早く)鉄門が開いた。
整った広い庭と、何部屋あるのか想像もつかない館が快晴を迎えた。
「これが……」
「はい。これが私の家です」
アラームが基地内に鳴り響いた。
「地底に怪獣反応! 場所は
オペレーターの伝える状況が、いつかの出来事を思い起こさせる。
「出現地点予測!」
京香は即座にコンピューターによる分析を指示する。
この日本支部のスーパーコンピューターも学習を重ね、怪獣出現予測の精度は初戦時とは比べものにならないほど向上している。
「出ました! 百パーセントの確率で、三〇分後に──」
だがそれゆえに、計算機の解答がすなわち、怪獣からの宣戦布告となることもある。
「
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