第34話 僕は、君の酸素になれるかな
夜通し馬を走らせ続けて学院に戻ってきたチーニは、一階南端の窓から校内に忍び込んだ。静かな校内を進み、目当ての図書室に向かう。今年の四月に教室が入れ替えられ、図書室が校舎の南側に移ったおかげで、誰にも会うことなく、チーニは図書室にたどり着いた。
図書室の鍵をこじ開けたチーニは、カウンター奥にある地下の禁書庫に下りる。棚の至る所に小さく加工された光石が下げられているおかげで、室内はぼんやりと明るい。
狭い地下室にチーニの身長の二倍はありそうな巨大な本棚が並ぶ。本棚で身を寄せ合っているのは、王政に関わる全てを記した歴史書だ。時間を凝縮して閉じ込めたような、立っているだけで緊張するような、そんな空間。
チーニは深く呼吸しながら、書庫の一番奥に進む。人工的な意図を感じる世界の果てと、ルーナの体に埋め込まれた心臓について知るために。
(ラクリア家の当主を止めるにしても、他の場所に働きかけるにしても、情報がいる)
地下室の濃密な時間の流れに逆らって、チーニは一番奥の棚にたどり着いた。梯子を使って、一番上の棚から「第一巻」と書かれた歴史書を取り出す。梯子を下り、深く呼吸をして、チーニは本を開いた。
❖❖❖
歴史書に記されていたのは、一人の青年の物語だった。誕生し、生き、嫌われ、憎まれ、恋をして結ばれるまでの、長く、苦しい物語だった。
人ならざる力をもって生まれた青年は、その力のせいで、誰も彼もに憎まれて育つ。道を歩けば石を投げられ、視線を動かせば悲鳴が上がる。そんな、暗く、苦しいだけの生の中で、青年は一人の少女に出会う。
ラクリアという名の少女は、世界の中でただ一人、青年を愛した人間だった。少女は青年と共に歩き、青年と同じものを見て、青年の言葉で笑った。それは青年にとって温かい経験で、とても優しい時間だった。
やがて、人々の嫌悪と恐怖は、少女にも及ぶようになる。
少女が傷つけられる現実に耐え切れなくなった青年は、逃げ出すように二人だけの世界を作り出した。ゆりかごのような楽園を。決して、誰にも傷つけられることのない理想郷を。
青年は泥の人形から国民を作り、少女にティアラを贈った。誰もが、青年と少女を祝福した。けれど、幸せな時間は長く続かない。
老いていく少女と、時間が止まったままの青年。老婆になって死んでしまった少女と、決して死ねない青年。少女を失った青年は、泥から作った親友に自分の「不死の心臓」を託し、深い眠りにつく。
親友はラクリアの名を身に刻み、一族のすべてをかけて青年の心臓にかけられた「不死の呪い」を解くと約束する。
❖❖❖
「ゆりかごのような楽園、理想郷」
チーニは本に書かれた文字を指でなぞった。頭に浮かぶのは、決して外に出られない作りになっている世界の果てと、それを囲む緑の森だ。
自分を唯一愛してくれた少女が逃げないように囲い込みながら、その執着は見えないように覆い隠す。愛されることにも、愛することにも慣れていない青年の、精いっぱいの愛と、拒絶への恐怖。それらが作り出したのが、きっとこの世界だ。
チーニは深く息を吐き出して、本棚に体を預けると、ゆっくりと目を閉じた。
(この世界は、楽園じゃない。とても優しい形をした、監獄だ)
本棚に寄り掛かったまま意識を失っていたチーニは、鐘の音で目を覚ました。夜通し走り続けたことに加え、冷たい床で眠ってしまったせいで、頭がガンガンと痛む。
瞬きを繰り返しながら、立ち上がってどうにか本を棚に戻す。力の入らない足で、どうにか地下室の入口の梯子を上り、チーニは外の気配を探った。
先ほどの鐘は昼食の合図だったのか、図書室に人が居る気配はない。
(外出届を出すのも忘れてたし、そもそも地下書庫は立ち入り禁止だし……見つからないように、部屋まで行かなくちゃな)
疲労と睡魔でぼんやりする頭を無理やり動かして、チーニは部屋までの最短ルートを計算する。チーニは大きな欠伸をしながら地上に這い出して、書庫への扉を元の位置に戻す。
チーニは今にも倒れそうな体に鞭を打って、校内を走り抜け、どうにか誰にも見つからずに自室にたどり着いた。安堵の息を吐いて、部屋の扉を開く。ふらふらとした足取りで室内を進み、鍵をかけることすら忘れて、チーニはベットに倒れこんだ。
顔にぼんやりと靄のかかった女性が、チーニの頭を撫でている。その傍らには、柔らかく笑いながら何かを話している男性が居た。
(あぁ、これは、夢だ)
顔もおぼろげになってしまった両親の夢。母親がチーニの顔を覗き込んで、何かをしゃべる。父親がその言葉に笑い声をこぼす。意味のある言葉として入ってこない音を聞き流しながら、チーニは二人の顔を見つめる。
靄がかかっていても、楽しそうに笑っていることだけは分かって、チーニの頬も緩んだ。
(そうだ。二人に聞いてみたいことがあったんだ)
チーニは母の手に触れようと、短い腕を伸ばした。その手が届く直前、急に二人の声がはっきりとした輪郭をもって、チーニの鼓膜を揺らす。
「君は逃げるんだ、良いね? チーニを連れて、君だけでも生き延びて」
父の背後に視線を向ければ、番人がこちらに向かって走ってきている。チーニは母を見上げたが、母と視線が絡むことはない。
「あなたが居なくちゃ、生きていられないわ」
泣きそうな母の声に、チーニは瞬きを繰り返す。父は母を抱き寄せ、その耳元に何かをささやくと、チーニたちに背を向けて番人の居る方へと走り出した。チーニは母に手を伸ばして、その細い指先を掴む。
「かあさん」
母の顔がチーニに向いて、その視界の真ん中にチーニが映る。
「チーニ、一人で逃げなさい。貴方なら逃げられる」
「母さんはどうするの?」
「私は父さんを助けてから、すぐに追いつくわ」
母の視線は既にチーニを外れ、まっすぐに父を見つめている。チーニは母の指先を揺らした。けれど、その手が握り返されることはない。
悲鳴があがって、チーニは番人の方を見やる。番人の持つ大きな槍が、父の心臓を深く貫いていた。母はチーニの頬を優しく撫でて、まっすぐに目を合わせると柔らかく笑った。
「チーニ、愛しているわ。ずっとよ」
掴んでいた指先が離れ、チーニは廃墟の中に一人、取り残される。走り去っていく母の背に「待って! 母さん!」と強く叫んだが、彼女が止まることはない。
追いかけるために踏み出した足は、空を切り、瞬きの間にチーニは真っ暗な空間に立っていた。誰も居ない、どこにも行けない、ただの暗闇。
(愛しているなら、僕と逃げてよ。母さん)
心の中で呟いて、チーニは目を閉じた。
❖❖❖
柔らかな話声が聞こえて、チーニは薄く目を開く。
(あかるい……?)
ぼんやりとした頭に疑問符を浮かべる。目を開けているはずなのに、歪んだ視界の真ん中にディアの白い髪が見えた。
「あ、起きた」
「ほんとだ」
ディアとルーナが柔らかく笑いながら、チーニの顔を覗き込んでいる。不意に甘い匂いが鼻を掠めた。その匂いでチーニの頭に何かが浮かんだが、はっきりと輪郭を掴む前にディアの温かい指先がチーニの目元に触れる。ディアの手が目元を拭っていくと、視界がようやく鮮明になった。
「嫌な夢でも見た?」
チーニは良く見えるようになった目でその指先を追った。「泣いてたよ」と続くディアの言葉にチーニは欠伸を返す。いつの間にか体に掛けられていたディアの毛布にくるまって、チーニはもう一度欠伸をこぼした。
「おかえり、ディア」
「ただいま。チーニもおかえり」
上体を起こして、ぐーっと伸びをするとしつこく頭に居座っていた眠気が飛び去って、ようやく頭も鮮明になる。
「お疲れだねぇ。遠くに行ってたの?」
柔らかく笑ってルーナがチーニの頭を撫でた。チーニは視線をさげて、ルーナの指先を掴む。
「チーニ?」
頬に伸びてきたディアの指先も同じようにつかんで、その温度を確かめる。
「どうかした?」
ディアは首を傾げて、チーニの手を握り返した。ルーナは何も言わずに、もう一方の手でチーニの頭をなでる。
「なんでもないよ。何でもないけど、ちょっとだけ、こうしてて」
ディアは驚いたように目を見開いて、それから柔らかく笑った。
「うん、わかった」
強く握り返される指先が、温かくて、チーニは奥歯を噛んで涙に耐える。チーニの頭をなでながら、ルーナが柔らかく声を落とす。
「大丈夫になったら、トランプしよう。クッキー食べながら、ババ抜きしようよ」
「朝まで?」
「朝まで」
楽し気に笑ったルーナの声が僅かに震えていて、チーニは指先を強く握った。
そのあと、結局泣いてしまったチーニは「泣き虫だねぇ」と笑われて、鼻声で文句を言ってから三人でトランプで遊んだ。ババ抜き、大富豪、神経衰弱──いろんなゲームをしているうちに、夜が更けて、ディアは限界を迎えて眠ってしまった。今日は、床で眠る気にもなれず、ディアを真ん中にして狭いベットに三人で横になる。
「ルーナ」
暗い天井を見上げながら、名前を呼ぶ。
「なあに」
間延びした声が返ってくる。
「僕は、君の酸素になれるかな」
小さく息をのむ気配がした。
笑いを含んだ声が鼓膜を揺らす。
「大人になったらそうなるかもしれない」
「そっか」
「うん。そうだよ」
チーニは瞼を閉じた。真っ暗な闇が全身を包み込んでいる。でも、隣にディアの体温があるだけで、怖くはない。
「おやすみ」
ルーナが柔らかく声を吐き出す。
「おやすみ」
声を返して、チーニは眠りに落ちた。
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