(2)深層へ
その時。
「……え?」
シャツの袖を、掴まれた気がした。
決して強い力ではない。優しく、引き留める程度の。そっと、諌(いさ)めるような力加減。
実際には、誰も掴んでなどいない。雫とあゆむは元より、香織も眠り続けたままだ。
それでも、ただの錯覚で片付けることはできなかった。確かな感触だった。
香織、なのか?
胸中で問いかけるも、返事は無い。だが、他に誰が居るだろうか。過ちを犯しかけていた俺を引き留めてくれる人なんて、香織をおいて他には居ない。
たとえ意識が無くても。魂を傷付けられていても、なお。彼女は、俺を見守ってくれているんだ。
なら。情けない姿を見せる訳にはいかないよな。
首飾りから手を離す。驚きの表情を浮かべる狐の使いどもを尻目に、眠ったままの香織の髪を撫でた。
ありがとう。おかげで道を踏み外さずに済んだよ。
「……どういうつもりですか?」
「香織は、お前達には渡さない」
「死んでも構わないと?」
こちらを睨み付けて来るあゆむに、俺は頷きを返した。
「香織の意思を尊重したい。本当なら一緒に死んでやりたい所だが、あいにくと香織は俺の死を望んでいないようだ」
「馬鹿な……! 気でも狂ったんですか?」
「そうかもな」
何を言われても、もう心は揺るがない。俺には香織がついていてくれる。だから俺は、こんな奴らには屈しない。絶対に渡さない。
「だが、諦めた訳じゃない。もしかしたら、他にも香織を目覚めさせる方法があるかもしれない」
「目の前に、確実に目覚めさせる手段があるというのに、他を当たるというのですか?」
「ああ。薄汚い狐の手下どもに香織の身体を弄り回されるくらいなら、その方がずっと良い」
「くっ……なんと愚かな……!」
愚かと吐き捨て、あゆむは俺達に背を向けた。どうやら、説得が無駄だと悟ったらしい。
そうだ、俺は愚かだ。危うく、香織の気持ちを無視して狐に差し出す所だった。だが、すんでの所で過ちに気付くことができた。香織のおかげだ。
「睡狐様とて、死者を蘇らせることはできません。最後のチャンスでしたのに」
後悔しても知りませんよ?
残念そうにそう言って、竜ヶ崎雫もあゆむの後に続く。
もしかしたらと、ふと気づく。彼らなりに、香織のことを助けようとしてくれていたのか? やり方に問題があったとはいえ。心の奥底には人間らしい、純粋な想いが残っているのかもしれない。
「鬼籠野あゆむ」
ならばと、呼び掛けた。
不愉快そうに鼻を鳴らし、彼は足を止める。
「その名前で、呼ばないで下さい」
「失礼した。だが、これだけは伝えておきたい。お前の姉が、今対局中だ」
「知ってます。それが何か?」
「相手のショウは強い。加えて、燐は昼飯を食べていない。苦戦は避けられないだろう」
俺の代わりに、応援してやってくれないか?
呼び掛けた言葉に、少年はしばし沈黙した。こちらを振り返ること無く、彼は何かを考えているようだったが。
やがてあゆむは、大きく首を横に振った。
「姉さんが対局で負けようと、空腹で野垂れ死のうと。私には、関係ありません」
「そうか。それは残念だ」
「ですが……香織さんなら、差し入れの一つも持って行くかもしれませんね。自分の方が死にかけなのに。ホント、筋金入りのお人好しです」
──香織さんを、宜しくお願いします。
その言葉を残して、あゆむは出て行った。こちらに一礼し、彼の後に続く雫。
部屋には、再び俺と香織、二人だけになった。
周囲は再び静寂に包まれる。
さて、と。改めて香織の前に向き直る。すやすやと規則正しい寝息を立てて、苦しんでいる様子は無い。さりとて、覚醒する素振りも見せない。
しばらく、呼吸に合わせて彼女の胸が上下するのを観察する。
案外、耳元で大声を出せば目覚めたりしてな。想像し、独り苦笑した。それなら、どんなに良いか。
諦めたつもりは無いが、何かを思いついた訳でもない。俺が香織のためにできることなんて、たかが知れている。
そうだ。俺には、将棋しかない。人生でたった一つだけ夢中になれたモノ、それが将棋だった。
将棋で、香織が救えるか?
自分自身に問い掛けて──ハッとした。
香織が棋力を失ったのは将棋のせい。ならば逆に、取り戻すこともできるんじゃないか?
こんなこともあろうかと、折り畳み式の将棋盤を携帯していて良かった。香織の前に広げる。
思い返すは、初めて真剣勝負をしたあの日のこと。今でも鮮明に覚えている。
俺の本気を見て、彼女は竦(すく)んでしまっていたっけ。
あんまり怯えるもんだから、可哀想になって発破をかけたんだよな。
ええと、何て言ったんだっけか。
──ああ、そうそう。
「俺に勝てたら、キスしてやる」
呟き、思わず吹き出した。
なんてキザな台詞なんだ。あの時の俺は、どうかしていた。
でもそんな俺の一言が、香織の将棋を変えたんだよな。
駒を並べ始める。俺はメジャーな大橋流の並べ方だ。香織も確か、そうだったよな? 俺の真似をして覚えたんだっけ。
知ってたか? 元々は俺も、親父から教わったんだよ。
親父は助けられなかった。けど、香織は助ける。
あの時の将棋を再現し、より深く潜り込む。香織の待つ、深層意識へと。
待ってろよ、眠り姫。今、起こしに行く。
香織の分まで駒を並べ終えると、姿勢を正し、深く息を吸い込んだ。
溜めた息をゆっくりと吐き出していく内、だんだんと心が落ち着いて来るのを感じる。
よし、気持ちは整った。
「宜しくお願いします」
独り盤に向かって一礼し、着手する。
先手は香織。放つは、角道を開ける一手だ。
これに対し、俺も角道を開放する。基本的な方針は、彼女と同じ手を指すことだった。故に、自分からは仕掛けない。彼女に自由に攻めさせてみたかった。勝ち負けよりも大切なものが、そこには在るはずだった。
彼女は飛車先を突いて来る。そういえばあの頃は、飛車を振るという発想が無かったよな。居飛車を指す香織なんて、今では激レア物だ。
懐かしいな、とふと思って。飛車先の歩を突き返す。
彼女は驚いた顔をしていた。金を上げて守れば、こちらも金を上げる。あくまで俺は、彼女の鏡だ。さあ、存分に攻め込んで来るがいい。
飛車先の歩を突こうとした手が止まる。どうやら迷っているようだった。
攻め手に悩んでいるというよりは、指した後のことが想像できずに困っているように見えた。
歩から手を離し、囲いを構築する香織。仕方なく、俺も彼女に合わせた。程なくして、相矢倉が完成する。手順は適当だったが、細かい部分には目を瞑ろう。
守りは十分。さあ、そろそろ仕掛けて来る頃合いだろう?
再び飛車先の歩を手にする香織。青ざめた表情。怯えた眼をこちらに向けて来る。
彼女の無意識は歩の突き越しを望んでいる。だが、意識下では自分から攻め込むことに怖れを抱いてしまっている。
ならば、気付かせてやればいい。その一手は、価値ある第一歩だということを。
来い。俺が全部、受け止めてやる。
「俺に勝てたら──」
二回も言うのは気恥ずかしい。省略する。
とにかく、その台詞を口にした途端、香織の顔から怯えや迷いが消え去った。瞳が透き通る空色になる。
今思えば、この時初めて彼女は明鏡止水の境地へと至ったのだ。その後の指し回しは、実に見事だった。
飛車先の歩の突き越しからの、怒涛の攻めが来る。
香織の代わりに指すことで、その読みの深さに驚かされた。俺が一手指す間に、彼女は数手先の展開まで読み抜き、事前に対処していた。意表を突く手を指したつもりでも、全て的確に読まれ、冷静に咎められた。
これは……勝てない訳だ。彼女は、俺自身よりはるかに、俺のことを理解している。
そうだ。『当時の』俺では、勝てない。
思考をアップデートする。
だったら。『現在の』俺なら、どうだ?
俺達二人にとって特別な意味を持つあの一局を、更に掘り下げる。彼女の読みに、懸命に食らいつく。相矢倉の将棋なら、俺にも勝機はある。
今こそ見せてやる。香澄翔との一戦を経て会得した、園瀬流第弐式。俺の、園瀬修司の矢倉を。
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