(9)女子高生二人、天下分け目の一大決戦
「そんな、馬鹿な」
非常識極まりない燐ちゃんの指し手に、天金さんは呆然と呻く。
矢倉に似せたそれは、もはや囲いと呼べる代物ではなかった。
それ自体が生き物のように動く、軍隊だ。
大軍団が、無防備な天金さんの右辺へと一斉に突撃して来る。
端に戦力を集中させてしまった代償だ、止められない。
各駒の移動速度には差がある。
普通なら、こんな足並み揃えて進撃して来ることはできない。
それを可能にするのが、敵駒との衝突だ。
敵駒の相手は足の速い駒に任せ、遅い駒はその間に先へと進む。
とはいえ。実際にそれを行うのは、不可能に近い。
敵駒が、自分の思った通りに動くとは限らないからだ。
つまり。
燐ちゃんは、天金さんがどんな風に攻撃を仕掛けて来るのか、予め全て把握していたんだ。何故そんなことができたのか、私にはわからないけど。
この後の展開は、何となく予想できた。
敵陣に城を築く。
そうなったらもう終わり、将棋としては試合終了だ。
「紗代子、投了したらどう?」
「だ、誰が……!」
「だって、このまま続けても無意味だよ。貴女に逆転の芽は無い。私には、わかるもの」
無慈悲に、燐ちゃんは投了を勧告する。
天金さんはそんな彼女を睨み付け、歯を食いしばり。
それから。扇子を広げ、書かれている文字を見つめた。
『てんかとういつ!』
そこに込められた想いは、どれ程のものだったか。
「私は、竜王になるんだ」
「──は?」
「魅せてやるよ、鬼籠野燐。本当の、私の将棋を!」
飛車が舞い上がる。
端攻めで生じた隙間を利用して、がら空きになった敵陣へと。
一手で龍と成り、後方から襲い掛かる。
もっとも、龍が幾ら強力な駒であっても、単騎では陣形を突破できない。
そこで、角が飛翔した。
角は馬と成り、天空を駆ける。
「無駄なことを。今更成った所で、何ができると言うんですか? 最早入玉は確定、止められませんよ」
「知ってる。確かにあんたの陣形は固い。けど! あんたの飛車を、仕留めることくらいはできるんじゃないか?」
「……え?」
燐ちゃんの顔色が変わった。
まさか、天金さんの狙いは。
将棋には、どちらかの玉が取られること以外に、決着を付ける方法がある。
それは、お互いに入玉し、詰ませる見込みが無くなった場合に適用される。
「まさか、貴女の狙いは」
「『持将棋(じしょうぎ)』だよ。知ってるだろ?」
天金さんは不敵に笑う。
燐ちゃんは、呆気に取られていた。
「持将棋となった場合、盤上と持ち駒合わせ、玉を除いた全ての自駒を点数化して合算します。飛車角は5点、その他の駒は1点です。その合計が互いに24点以上の場合は引き分け。そして」
片方が24点を下回った場合、負けになります。
安藤さんが丁寧に解説してくれた。
なるほど。よくわかりました。
天金さんの狙いは大体わかった。
入玉し、かつ燐ちゃんの飛車を手持ちにする。
それにより、持将棋となった場合に、24点未満にさせて敗北させようという狙いだ。
なるほど、確かに。
チャンスは零では無い。
「でも、そんなの不可能よ。貴女の玉はまだ自陣に居るじゃない。今更入玉なんて」
「フッ……あんたに私を止められるかな? そのがら空きの自陣で」
睨み合う両者。
燐ちゃんと言い天金さんと言い、若い子の発想力には驚かされる。
普通に指すことしか頭に無かった私には、到底思い付かない閃きだ。
この子達が、新しい時代の将棋を創造していくんだな。
ふと、そんなことを思う。
燐ちゃんの陣地には現在、金駒が居ない。
大駒と桂馬、香車のみで天金さんの入玉を止めなければならない。
しかも、天金さんの龍と馬に邪魔されながらだ。
持将棋になった場合を想定すると、飛車か角、どちらかが取られる訳にもいかない。
そう考えると、入玉を止めるのも至難の業のように思えて来る。
持将棋では、大駒の価値が小駒五個分に相当する。
金銀を用いて、飛車角を積極的に狙っていく天金さん。
やむを得ずかわす燐ちゃん。
大駒の利きが消えた隙間に、玉を忍び込ませていく天金さん。
させじと、燐ちゃんは桂馬を跳ねた。王手金取り。
構わず、一歩先へと玉を進ませる天金さん。
止まらない。
「天下を取るのはこの私、天金紗代子だ。鬼籠野燐、あんたはその礎となりな!」
余裕が出てきたのか、扇子を仰ぐ天金さん。
対する燐ちゃんは、じっと盤面を見つめた後、
「仕方ないな」
と呟いた。
髪を束ね、制服の袖をまくる。
それから、深呼吸をした。
炎。
紅い炎が、彼女を包み込んだ。
見えたのは刹那の瞬間。
目を擦ると、何も燃えてなどいなかった。恐らくは錯覚。
だけど。妙な胸騒ぎを感じた。
「鬼火」
頭の中に浮かんだ単語を口にする。
炎は見えないが、燐ちゃんの様子が今までと違う。
瞳がぎらぎらと紅く輝き、その顔には笑みが浮かんでいる。
もしかして、楽しんでいる?
天金さんも異変に気付いたのか、訝しげに燐ちゃんを見つめている。
入玉までもう少し。
それが達成できれば勝利は目前、だというのに。
指し手が止まる。
「何だ? あんたは一体、何者だ?」
尋ねるその声は、焦りの色を含んでいた。
「私か? 私は鬼だよ天金紗代子。お前を喰らいにやって来た」
口調まで変わっている。
鬼とか言い出すし。
あー、私も学生時代は色々妄想して変なこと口走ってたっけなあ。
周りの人に、自分に興味を持って欲しかったんだよね。わかる、わかるよ。
何年も会ってないけど、皆元気でやってるかなあ。
微笑ましい気持ちで、二人の対局を見守る。
いいね、青春。
「随分と可愛らしい鬼が居たもんだなあ。喰らえるものなら、喰らってみなよ!」
動揺しながらも臆すること無く、天金さんは玉を進める。
そこに、燐ちゃんは飛車をぶつけて来た。
「なっ」
驚く天金さん。
飛車を取られたら終わりのはずなのに、取れと言わんばかりに差し出して来る。
取ったらどうなるのか。
恐らく、ただで済むはずがない。
天金さんは迷った挙げ句、飛車を取らずに逃げた。
そこに、更に飛車で王手を掛けて来る。
「くっ……この……!」
「鬼ごっこだよ、楽しいだろ? そら、どこまでも追いかけて行くぞ」
今度は角が飛んで来る。
飛車と角、二枚に追い詰められる。
そのどちらかを玉で取ってしまえば、入玉が確定し、点数で勝てるはずなのに。
取れない。
燐ちゃんの異様な雰囲気に、天金さんは気圧されているようだった。
取ればどうなる?
私にはわからないが、まさか──詰む、のか?
果てしなく続く鬼ごっこ。
遊んでいる。
燐ちゃんは、ケラケラと笑っていた。
目前まで迫っていた入玉が、遠退いていく。
本当に詰むのか、それともただのハッタリなのか。それすら判別できないまま、天金さんは後退を余儀無くされていた。
せっかく龍と馬を作っているのに、そのどちらも活かすことができないまま。
ひたすら、飛車と角に攻められ続ける。
疲れるだろうな、こんな将棋。
取ってしまえば楽になれる。
それで終わりだ。
その後どんな展開になろうが、一局としてはそれで終了。
勝っても、負けても。
「負けたく、ない」
扇子が閉じられる。
天金さんは顔を上げ、燐ちゃんを真正面から睨み付けた。
「鬼が何だ。私の行く手を阻む奴は、誰であろうと排除してやる!」
宣言と共に、玉で飛車を取る。
息が乱れていたが、無理矢理口の端を吊り上げ、笑みの形を作る。
一筋の汗が、頬を流れ落ちた。
「どうやら、覚悟は決まったようだね」
燐ちゃんは薄く笑った。
炎のように紅い瞳が、天金さんを捉える。
眼球の中で、その全身を焼き尽くす。
手にしたのは、金だった。
「あ……!」
天金さんはハッとする。
それは、先程の王手金取りの時に取られた金将だった。
頭金を打ち込まれる。
角が利いており、同玉とは取れない。
自陣に引っ込むが、角の利きを維持したまま、更に金が進出してくる。
左辺ではもたない。
右辺へと逃げる、が。
そこには、大軍団が待ち構えていた。
ここまで来れば、流石に私でもわかる。
問答無用で、詰みだ。
「負け、ました」
震える声で、天金さんは言葉を絞り出した。
余程悔しいのだろう。その目には涙が浮かんでいる。
無理も無い。入玉されてもなお諦めず、最後まで持将棋に希望を託していたのだ。
後一歩の所で阻まれなければ、勝っていたのだから。
「天金紗代子。お前の将棋、確かに喰らってやったぞ。中々に美味であった……ありがとうございました」
そう言って、燐ちゃんは頭を下げる。
顔を上げると、元の彼女に戻っていた。まるで憑き物が取れたかのようだ。
瞳からは炎が消え、疲れたように嘆息する。
「できれば、出したくなかったんだけどね」
鬼籠野の血には、鬼が宿っている。
普段は心の奥底に眠っているが、危機に瀕した際には表に現れることがあると、燐ちゃんは説明した。
その真偽については、この際置いておこう。
「紗代子、貴女は強かった。鬼を出さなければ、私は負けていたかもしれない。ごめんね、投了を勧めたりして」
「ふん。やっとわかったか」
天金さんは、涙を拭う。
「うん。体感して、理解できた」
「気づくの遅いよ。私の全身から醸し出される強者のオーラを感じ取って欲しかったなあ」
「ふふっ……一目見た時から、面白い人だとは思っていたよ?」
「なにー? お笑い芸人じゃないっつの。あんたの目は節穴だね」
楽しそうに笑い合う二人。
仲良きことは善きことだ。
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