放精の儀式 その三

 一九一八年 一一月 帝居地下 神殿内部





 上級会員達が男巫女との乱痴気らんちき騒ぎにきょうじていた頃、高舞台が組まれていた大広間ホールでは数人の案内係が居残って雑用に励んでいた。

 彼らは観覧席組と楽屋組に分かれ作業している。


 観覧席では主に椅子の片付けや床の雑巾がけ。

 楽屋では篳篥ひちりきの演奏で使用する蘆舌ろぜつを湿らせる為の湯を交換したり、しょうを温めるのに使用される火鉢の火力を調整したりしていた。


 案内係達の仕事が終了間近になった大広間ホールに、不意に舞い戻った者達がいる。

 神官達と宮司、そしてあの化け物であった。


 彼らは案内係が作業を終えるのを見届けた後、迷いなく楽屋へと入場する。

 いかにも当然と云った風に神官達が演奏配置に就くと、今度は案内係達が退室して行った。


 案内係が完全に退室したのを見計らい、宮司がばち楽琵琶がくびわに戻す。

 調弦が済んだ合図だ。


 各奏者に目配せする。

 勿論もちろん、隣の楽筝がくそう就いてスタンバっている不可視の化け物にも……。


 演奏が開始され、観客の居ない大広間ホールに篳篥の音が響き渡る。


 もし宮森がこの場にいたのならば、霊眼を以て感じ取れたかも知れない。


 曲の旋律に隠された術式の残滓ざんしが、神殿奥の乱交座敷へと伸びる様を……。





 大広間ホールで演奏が続く中、楽屋横の通路に佇む人影がある。

 帝国陸軍の軍服を着込んだその者は、緑色の手袋を嵌めた両手を特徴的な形状に組み始めた。


 左手親指を他の四指で握り拳の形にする。

 次に、その握り拳を右手全体で下から包み込んだ。

 そして、その者は静かに呟く……。


「――オン・アニチ・マリシエイ・ソワカ――」


 その者が組んだ手の形は密印ムドラー

 唱えたのは真言マントラ

 それによって完成したのが【摩利支天まりしてん隠形法おんぎょうほう】。


 自身の姿を隠すのは勿論の事、霊力操作や術式の痕跡さえも隠蔽が可能な覚者密教かくしゃみっきょう由来の秘術である。


 楽屋横の通路に佇む人影が消えた。


 完璧に術式構築が成された隠形法が完成した今、相当な霊力差がなければその者の姿とこれから成すであろう秘術を捉える事は出来ない。

 たとえ、魔術の熟練者である神官達やあの宮司であったとしても……。


 もしその者の姿を視る事が出来たのなら、両手の親指を他の四指で握り込み左右の人差し指を絡めた形状の密印ムドラーが視えた筈だ。

 もしその者の声を聞く事が出来たのなら、次の真言マントラを唱えるのが判った筈だ。


「――オン・バサラ・ユゼイ・ソワカ――」


普賢菩薩ふげんぼさつ延命法えんめいほう】の完成――。





 宴が終わり、会員達は座敷に隣接していた浴場であかを流している。

 会員達の中には御気に入りの稚児を浴場にまで連れ込み行為に耽っていた者もいた様で、男巫女の装束やら使用済みのちり紙やらが散らばっていた。


 宮森はぼろぼろに犯された身体を洗い清める。


 彼は行為の途中、多野、草野、蔵主の三人から放たれる人間離れした邪気を緊々ひしひしと感じた。

 これが普通の人間だったなら、煩悩をくすぐられた挙句あげく色狂いにまで堕とされていたであろう。

 現に他の会員達がそうなっている。


 矢張り、あの三人にも巨大な闇が巣食っていると見て間違いない。


 宮森は手酷い洗礼を受けてしまったが、彼の霊力は心までの浸食を許さずりの所で持ち堪えた。

 あの三人を相手に、人間ヒトの心を保てたのは僥倖ぎょうこうであったと云うべきであろう。


 彼以外の会員の多くが、カネや権力と引き換えに易々と悪魔の誘惑に乗る事は想像にかたくない。

 九頭竜会だけではなく、この様な魔術結社は世界に数多く存在するのだ。


 世に云う魔術結社では口に出すのもはばかられる行為を会員達に強要し、人間的な倫理観を徹底的に破壊してしまう。

 人としての禁忌を侵させ、罪と一蓮托生いちれんたくしょうにしてしまうのだ。

 そうして倫理観を破壊された者達は良心のたがが外れてしまい、残虐非道な行為をいとも容易たやすく行える様になる。


 宴を終えた会員達の様子は、帰り支度を整えている者、脱衣所代わりの座敷で食事をる者、軽く一杯引っ掛けている者、煙草を吹かし乍ら余韻に浸っている者など様々だ。


 浴場から戻り着替え終わった宮森は、帰途きとに就くため案内係の許へと向かう。


 一刻も早くこの忌まわしい神殿から立ち去りたい。

 一時いっときだけでもこの悪夢を忘れ眠りたい。

 只、その一心であった……。


 だが悪夢は終わらない。

 人間ヒトの顔をした悪夢が彼を呼び止める。


「宮森君、君には重大な仕事を頼みたいと言った筈だ。

 一緒に来てくれ給え」


 多野悪夢からの御誘いだ。

 元より断る自由など宮森にはない。


「……分かりました」


 今の今まで自分を犯していた相手だ。

 愛嬌を振りける筈もない。


「ふん、へそを曲げておるのか?

 まあ、いずれ何とも思わなくなる。

 この際に言っておくが、君が宴の直前に飲み食いしていた煮物だの酒だのだが……あれは赤子の血肉じゃからな」


「な、なんですって!

 そんな事がっ、本当に……」


「優秀な君の事だ。

 大凡おおよその見当は付いていたのではないかね?

 それとも、皆が普通に食していたので違うと踏んだのかな?

 いずれにしろ、君は人肉食の禁忌を破ったのだ。

 もう元には戻れんよ。

 解ったのならばさっさと来るが良い……」


 今日、宮森が地下空間に来る途中で感じた『自分はもう、日の当たる世界へは帰れないのかも知れない……』との予感は、不覚にも現実となってしまった。


 多野は案内係の一人にも帯同を命じ、宮森も不承不承ふしょうぶしょう付き従う。


 脱衣所代わりの座敷を出て更に奥へと向かうごとに、廊下の様式が純和風から和洋折衷へ、和洋折衷から無機質な混凝土コンクリートへと移り変わって行った。


 案内係が一枚の扉の前で歩みを止める。

 ここに来た時に乗り込んだ物とは別の昇降機エレベーターだ。


 案内係が箱を呼び寄せる。

 一行が箱に入ると案内係が操作盤コンソールに鍵を差し込み梃子レバーを操作した。


 上昇した箱から出ると建築途上なのであろう、足場が組まれた場所に出る。

 足場は全て天井が視認出来ない程の高い混凝土コンクリート壁に沿っており、そびえる壁の巨大さを物語っていた。


 多野達が歩を進めると、両側に帝宮警察官が控えている頑丈な鉄扉に行き当たる。


 警官達は多野一行を認めると直立して敬礼。

 多野は片手を挙げてそれに応え、鉄扉の開錠を待った。


 今日、宮森が地下施設へ向かう途中で出会った警官達とは別人である。

 しかし彼らも又、表情だけは全く動かさない。


 宮森は表情を動かさない彼らを見やった。


⦅人肉食と乱交と洗脳の果てに人間性を失った一例……。

 自分もいずれ、組織の命令に唯々諾々いいだくだくと従うだけの機械に成り下がって行くのか……⦆


 扉の開錠が完了し、警官達が扉両脇に控える。

 案内係が入室を促し多野と宮森も入室した。


 室内は机がずらりと並べられ、その机上には多数の計器類や機械類が所狭しと設置してある。

 いかにも科学者達の研究実験室然とした装いであった。


 その中でも部屋奥の大きな硝子ガラス窓は特に目立つ。

 一〇メートル以上の幅があるかも知れない。


 宮森は神殿区画に入る時に見た、鉄扉内部の分厚い硝子ガラス層に思い至った。

 窓外には空間が広がっている様だが、宮森の居る場所からでは暗くて良く見えない。


 室内には研究員であろうか、十数人の人物が見受けられる。


 計器類の前で計測作業をしている者や機械類を操作する者。

 数人で集い何やら話し合っている者達。


 多野はその集いに参加していた。


「宮森君、殿下の御前であるぞ……」


⦅いる。

 蛸の眼をした、あの男が……⦆


 そこには既に瑠璃家宮が鎮座している。


 彼の邪気を感ずるには姿をのぞむ迄もない。

 同じ空間にいるだけで事足ことたりた。


 そして宮森は感じ取る。


 瑠璃家宮の温容さを湛えた顔容かんばせの影に、


 禍々しい悪のカリスマとしての貫禄かんろくが備わりつつある事を――。





                  放精の儀式 その三 了

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