5-17

 戦略的撤退は不可能なようなので、諦めて振り返る。

「話でもあるの?」

「安心してください。朝帰りを咎めるつもりはありませんから。そんな立場ではないと、弁えていますので」

 言葉と雰囲気がここまで噛み合っていないのも凄い。

 だがそんなつもりはないと言うのなら、こちらから話題にする必要もない。

「できれば帰って早く……いや、なんでもない。続きをどうぞ」

 危うく掘りそうになった墓穴を埋め戻し、変わらぬ笑みを浮かべている音羽ちゃんに話題のボールを渡す。

 一瞬楽しげに目がギラついたような気がするが、気のせいだと思うことにした。

「大した話ではありませんよ。他愛のない話です」

「……なにかな?」

「桜葉さんはあまり意識していないかもしれませんが、もうすぐ大型連休じゃないですか」

「あぁ、そうだね」

「ちなみにご予定は?」

 俺の予定に興味を抱く理由はなぞだが、危惧していた類の面倒な話ではなさそうなので、内心安堵する。

「今のところなにも」

「やっぱりそうですよね」

 音羽ちゃんとしても、予想通りの答えだろう。

 ただ、今年は事情が異なる。

 まだ予定すら立てていないが、考える余地は出てきた。

「……でもどうやら、それだけではなさそうですね」

「……なんで?」

「顔……いえ、雰囲気でしょうか。なんだか、今までとは違う気がするので」

 本当によく見ているというか、察しの良い子だな。

「最近ちょっと、思うところがあってね。今年は……これからは少し、前向きに生きてみようと思うんだ」

 そうだな。悠里や灯々希には話して、音羽ちゃんに報告しないのはダメだな。

 そう思い、簡単にではあるが音羽ちゃんにも説明する。

 今までの態度を改め、これからは他人とも関わりを持とうという決意を。

「なるほど。いいことだと思います」

 興味深そうに聞いていた音羽ちゃんは、理解ができたと頷く。

 そしてなぜか、悪戯を思いついた子供のように目を輝かせた。

「ちなみにそれって、今日の朝帰りと関係があるのですか?」

「……ないとは言い切れないけど、たぶん誤解があると思う」

 暗に朝帰りを認めてしまったが、どうせほぼ気づかれていたのだから、今更か。

「まぁ、そのことはいいです。それ以上に面白い話を聞かせていただけたので」

「女子高生が面白く感じる話は、なかったと思うけどなぁ」

「そんなことありませんよ。えぇ」

 あぁ、怖い。助けを求められるなら、助けて欲しい。

「今のところは、という意味がわかりました。連休の予定もこれから変わってくる、ということなのですね」

「たぶん。丁度いい機会だし、いろいろとまぁ、生活を見直そうかと思ってる」

 必要最低限の物しかない部屋に、少しは荷物を増やしていいかと思えるようになった。

 見直すべきところは、きっといくらでも見つかるはずだ。

「だから予定らしい予定はね、まだないんだ」

「そうですか。楽しみですね」

「う、うん」

 音羽ちゃん的に楽しい話はどこにもないと思うが、掘り下げたくないのでスルーを決め込む。

「じゃあ、そういうことで」

 今度こそ終わりにできるだろうと、軽く手を上げて立ち去ろうとする。

「…………おやおや」

 が、音羽ちゃんは俺の背後を見て、すぅっと目を細め、背骨を直接撫でるような怖い声を漏らした。

 視線の先にあるのは、すぐそこにあるアパート。

 激しく嫌な予感を覚えつつ、振り返らないわけにはいかないので、ゆっくりとアパートを見る。

「あ、孝也さん。お帰りなさいです」

 わかっていた。確かめるまでもなく、覚悟はしていた。

 空気とか状況とか、あらゆるものを読まずに小躍りしそうなステップで近づいてくるのは、アンジェに他ならない。

「いかがでしたか、デート」

 余計な単語が含まれすぎているせいで、頭を悩ませる余裕すらなくなる。

「あれ、そこにいるのは……音羽さんじゃないですか」

「おはようございます、アンジェさん」

「はい、おはようございます」

 さも当たり前のように挨拶を交わす二人に、俺は黙って空を見上げた。

 アンジェがこっそり音羽ちゃんとコンタクトを取っていたのは、今更驚かない。

 確かめはしなかったが、灯々希との前例があるので、予想はできていた。

 なにより今は、そんな問題すら些細と思える状況だということだ。

「すぐそこなんですから、お話するなら部屋にあがってもらえばいいじゃないですか。きちんとお掃除しておきましたから、バッチリでしゅよぉ?」

 余計なことしか言わないアンジェの頬を、左右からがっちり挟み込む。

「らにしゅるんれしゅかぁ?」

「落ち着け」

 努めて冷静に黙らせながら、すっと横に並んでくる音羽ちゃんに視線を向ける。

 タイミング的にも表情的にも、誤魔化しようがないくらい、見られてしまったのだと理解する。

 まず間違いなく、アンジェが俺の部屋から出てきたところを見ている。

 それだけならまだ誤魔化せる可能性があったかもしれない。

 たとえ宝くじに当選するくらいの可能性だったとしても、ゼロではなかった。

 が、アンジェの発言がすべての可能性を潰している。

「……あのね、これにはね、事情があってね?」

「…………」

 天から垂れ下がったクモの糸なんて、あるわけがない。

 無言の笑顔を向けてくる音羽ちゃんに、俺はさしたる抵抗もできずに屈した。

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