3-17
「んー、気持ちいい風」
最寄り駅に降り立った灯々希は、人目を気にすることなく身体を伸ばす。
と言っても、気にするほどの人通りはない。
「で、ここからどうするんだ? タクシーか?」
「ううん。歩いて十分くらいだから、このまま歩く」
「大丈夫なのか?」
「平気平気……っと」
言ってるそばから躓く灯々希を支える。
「転んで怪我でもしたら馬鹿みたいだぞ。タクシー、使ったらどうだ?」
「桜葉君が、送ってくれるんでしょ?」
「そうだけど……」
そんな風に酔った状態で信じるのは、不用心だろう。
タクシーを使ったほうが安全ということにも変わりはない。
まぁ、この様子だといつ吐くかわからないので、乗車拒否されそうだが。
「なんなら、おぶってくれても、いいですよー?」
「黙れ酔っ払い」
さぁ背中を出せと言わんばかりに広げられた腕を、強引に降ろさせる。
「どっちに行けばいいんだ?」
「うん、こっち」
正直、無理矢理タクシーに押し込んで帰ってしまいたいが、ここまで酔っている灯々希を放ってはおけない。
せめて、自宅までは送っていかないと、気になって眠れなくなりそうだった。
自分でもなにをやっているんだと思うが、仕方がない。
もっと早く、飲むのを止めていれば良かった。
「こんなに飲んだの、実は初めてなんだー」
「二日酔いで地獄を見て後悔するといい」
「そのときは、よろしくお願いしまーす」
「自分でなんとかしろ」
そこまでは付き合ってやれないと、きっぱり断る。
「薄情者だ。薄情者がいる」
「大人なら、自分で対処できるだろ」
「大人かー。そっかー。私、大人かぁ」
左右に揺れながら、灯々希は細めた視線を夜空に向ける。
「本当なら、まだ大学生だったんだけどなー。それでも、大人かな?」
「年齢は一緒なんだから、そうだろ」
「当たり前だよねー」
さすがは酔っ払い。会話が噛み合ってないな。
でも、そうか。
今日一日、何度かそう感じることがあったが、まったくの見当違いというわけではなさそうだ。
灯々希はもしかしたら、大学をやめてしまったことを、完全には割り切れていないのかもしれない。
両親のためにという気持ちも、本物なのだろう。
それでも、心の奥のどこかで、燻ぶるものがあるのかもしれないと、そう思った。
「ねぇ、桜葉君」
「今度はなんだ」
よろめいて肩をぶつけてきた灯々希を見る。
灯々希はすぐ離れることはなく、顔を俯かせたまま、俺の袖を掴んだ。
「……おい」
「桜葉君はさ、あの頃と、そんなに変わってないよね」
「成長してないって言いたいのか」
「悪い意味では、そうかな」
そう思われても、仕方がないと思う。
俺自身、ずっと同じ場所で、ただ倒れないようにしているだけなのは、わかっている。
「言ってたよね。いっそ、透明人間にでもなれたらって……」
「……あぁ」
「……今でも、思ってる?」
俺と灯々希の足音だけが、薄暗い通りに響いていた。
週末とは言え、もう夜も遅い。
俺たち以外に、人の影は見当たらなかった。
「…………」
灯々希の質問に、俺は言葉を見つけられない。
「…………」
灯々希も、あえてもう一度質問しようとはしなかった。
そしてそのまま、お互い一言も喋らず、頼りない明かりに照らされた夜道を歩く。
いつの間にか、灯々希は俺の袖を放し、ぶつからないように僅かな距離を取っていた。
「……ここ」
長く感じられた無言の時間は、実際には数分。
立ち止まった灯々希が指さしたのは、それなりにしっかりしたマンションだった。
オートロックがあるのは、彼女が一人暮らしをしているからだろう。
足取りもだいぶまともになっているようだし、ここまで来れば大丈夫なはずだ。
「今日は、まぁ……楽しかったよ」
「うん。私も、楽しかった」
「なら、良かった。気晴らしになったのなら、うん」
俺の役目は、十分果たせたということだ。
「じゃあな」
だからあとは帰るだけだ。
軽く手を上げ、踵を返す。
「――――」
スマホを取り出し、終電の時間を確認しようとした俺の裾を、なにかが掴む。
振り向けばそこには、当然灯々希がいる。
その手が掴んでいるのは、俺の上着だ。
「……寄って、いく?」
耳元で囁くようなその声は、微かに火照った灯々希の唇からこぼれたものだ。
ずっと目をそらしていた感情に、確かなカタチを与える、魔法の言葉。
奥底に秘めた熱が見え隠れする灯々希の瞳に、心臓を掴まれる。
都合のいい勘違いなんかじゃないと、わかる。わかって、しまう。
頷くだけでいい。
灯々希の手に導かれるまま、その先へ進めばいい。
三年前、夕暮れの教室に置いてきた感情は、二人のものだ。
互いに自覚しながら、それでも叶うことのなかった物語。
彼女を愛おしいと想う感情は、今でも覚えている。
恩人でもある三鐘灯々希という女性を、大切に想う。
だから俺は、彼女の手をそっと掴み、手放す。
「…………」
そしてなにも言わず、背中を向けて歩き出した。
足早に、まるで逃げるように。
大切だと感じる彼女の笑顔が、失われてしまわないように。
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