第2話 森の鼓動
森に迷い込んでもうどれだけ経つんだろう。私は見付けた大木にぺたりと背中を預け、ふぅっと溜息を吐く。脹脛が筋肉痛で張っている感覚に、思わず尻餅を付いた。そして直後に後悔する。
最初は制服が汚れるのが嫌だから、と座らないようにしていたのだけれど、疲れ果てて座ってしまってからは別の理由に摩り替わった。一度座ると立ち上がるのが本当に億劫になる、ただ身体を立てるだけでも酷く気力と労力を消費してしまう。
木立を突き抜けてやって来た夕焼けが、私の眼を刺した。右にも左にも前にも後ろにも木々がある、そして太陽がある。何度も眠って何度も休んだ、そして歩き回った。腕時計の短針も、何度も周回を重ねた。そのはずなのに、何時までも歪んだ夕方は終わらない――私は大きく、溜息を吐いた。風で木の葉の揺れる音が耳を擽る。
父さんも母さんも、もう町には居ないだろう。私がこの森に迷い込んだ日――少なくとも二日前――が、私達一家の引越し当日だったのだから。学校に挨拶に行って、そのまま引越し先に向うはずだった。だけどもう一度家を見ておきたくて、いつもみたいに近道の森を抜けようと思ったら、抜けられなかった。ずっと抜けられていない。幼い頃から見知ったはずの森は知らない場所どころか異次元になってしまっている。四つの太陽に照らされながら、私は赤い空をぼんやりと見上げた。鏡の少ない万華鏡のようだった。相変わらず絶え間ない木の葉の音が響いている。
生まれ育った街を出なくてはならなくなったのは、父が左遷されたからだった。本社も不況の煽りで人員削減を余儀なくされて、父さんは運良くリストラを免れたものの、少し離れた子会社に飛ばされることになった。昔から馴染んだ街を離れるのは寂しかったけれど、我侭を言ってもどうにもならないことぐらい判っていたし、私は黙って荷造りを進めていた。だけど、本当は、やっぱり――引越しなんてしたくなかった。ずっとここに、友達と一緒にいたかった。
この森でも随分遊んだっけな、思いながら私は眼を閉じる。暑い夏の日は木陰で涼めたし、冬は枯れ枝を拾って焚き火もした。ドングリや松ぼっくりを拾ったり、お花見をしたり、紅葉狩りをしたり。昔はここで随分時間を過ごしたのだっけ。近所には同い年の子供が少なかったから、私はいつもこの森で遊んでいた。
すっかり忘れてたな、と、私は眼を開ける。相変わらず万華鏡の情景は変わらない。
こんなの、街から出たくない私の頭が見せている錯覚だと思ってた。でも疲労なんかで追い詰められても、何も変わらない。出口も見えない。閉じられた森は、完全に外界から遮断されていた。まるで密室、殺人事件の舞台――違う。死ぬとしたら、私に待ってるのは文字通りの自然死だ。自然に、殺される。
薄く開いた眼には木立が映る。寝ぼけたような頭の中で、木の葉が揺れる音が響く。ざざ、ざざざ、ざざざざざ。何故だか、木々の声だと、思えた。
寂しい、と声が聞こえた。
そうだ、ずっとこの森と一緒に遊んできた。離れることなんて考えず、随分長い時間を一緒に過ごした。今はもう思い出せない初めてここに足を踏み込んだ日、あの時私は森に誘われ、ずっと誘われ続けてきた。森が私を好きだったから、私も森が好きだったから。
年を重ねるにつれて私はそれが判らなくなってしまったけれど、木々はずっと私を見ていたんだろう。私が森を抜けるたびに喜んでいたのだろう。だから、居なくなるのが、嫌だったんだ。だからこうして――閉じ込めた。
「……忘れないよ、きっと、帰るから」
掠れた呟きと同時に、指先に木の葉が触れた。
保護してくれた警官によると、私は森の入り口に倒れていたらしい。酷く疲労困憊していたけれど命に別状も無く、一晩休んで家に無事送り届けられた。私の身体は季節外れの落ち葉に包まれていたらしい、まるで風邪を引かないよう布団を被っていたかのように。
私はきっとあの街に帰るだろう、寂しがりの幼なじみのあの森のために。
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