第10話 心の世界

「石和さん・・・・・・」

 背後から優しくかけられた女の声で、石和は我に返った。

 だらりと下げている右手にぶら下がっている懐中電灯の光が、足元をゆらゆらと照らす。その反射光と窓から差し込む西に傾いた弱々しい日の光がぼんやりと照らしている空間をキョロキョロと見渡して、石和はここが元居た教室だということを確認した。

 ゆっくりと後ろを振り返った。足元を照らしたままの懐中電灯の明かりが、身体の動きにつられてゆらゆらと揺れる。


「美和さん・・・・・・」

 少し離れた位置に美和のどかが正対する形で立っていた。美和の脱力した右手に持たれている懐中電灯もまた足元を照らしている状態だが、顔は確認することができた。美和の眼は真っ直ぐ石和に向けられている。いや、石和を通り越して、そのずっと先を見つめるような眼をしている。


「泣いていたのですか?」

 お互いが向き合った後、少しの間を置いて美和が言葉を発した。石和の頬に伝わる涙の後が、弱々しい光にも照らされていたようだ。

「ん、いや」

 平静を装い、顔を隠す様に再び背を向けながら、両頬に伝わる涙をさっと左手で拭った。


「文木さんと早良君は?」

 振り返った時に二人の姿が見えなかったことに気が付き、背後の美和に問いかけた。

「外に出て行きましたよ。『こんなチャンスは二度とない』と大はしゃぎしながら」

 あの二人に、夫々がこの島に思い描く未来と過去の不思議な世界へ引きずりこまれたことを伝えたとしても信じてくれるだろうかと考えていた。


「何を感じていたのですか?」

「えっ?」

「いえ、涙を流していたようなので」

「あ、ああ」

 振り返りもしないまま背中で受け答えをした。やはり、涙はしっかりと見られていたようだ。


「この教室にいると、やはり昔のことが蘇ってきてね。それだけじゃなく、やけにリアルな過去や未来の島の姿まで見えてきたりしてね。文木さんや早良君が、この島で過去や未来の姿を想像するのも無理はない、この島には不思議な力があることを改めて実感しました。今日はかなり神経がやられてしまったみたいです」


「この島に見るべき姿は、未来なのでしょうか、過去なのでしょうか?」

 遠い目をした美和が、抑揚のない声で質問を投げかけてきた。

「うん。それは人それぞれだからね。どちらが正解ということはないと思いますよ」

 そういいながら、涙を拭き平静を取り戻した顔で再び美和と正対した。

「そうですね。どう見るのかは自由だし、どちらも否定されることもない」

 美和が言葉をつなぐ。遠い目は変わらない。

「はい・・・・・・」

 石和が、やや遠慮がちに返事をした。

 何が聞きたいのか話の展開が読めず、更に、美和の心ここにあらずという様子にも少し不安が頭をもたげてきていた。


「私は、あなたに両方を見て欲しかった。過去を思い出し、そして未来を感じて欲しかった。それから、今のこの島の現実もしっかり確認して欲しかった」

 明らかに声の調子が変わった。美和の表情は変わらないが、その声に悲しみの感情が籠っていることが伝わってくる。

「美和さん?」

「別れの船の上で、あなたは『また絶対に戻って来る』と言いましたね」

「な、なぜそれを・・・・・・」



 やや長い沈黙の間、石和は懸命に思考をめぐらせた。

(彼女も過去の世界に飛び込み、同じ光景を一緒に見たのか)

(いや違う、そんなはずはない。あの桟橋に彼女はいなかった。いれば直ぐに分かったはずだ)

(彼女が自分と一緒に未来や過去の世界を見たのではない。不思議な世界を自分に見せたのが彼女なんだ)


(いや、まさか。どうやって・・・・・・でも、そう考える方が話の筋が通るじゃないか。もともと彼女との出会いから、今回の帰島までの話も出来過ぎている)

(じゃ、彼女は誰だ。俺は誰と話をしている)

 石和はゴクリと唾を呑み込んだ。


 思考を廻らせる沈黙の間も遠い目でじっと見つめられていることに耐えられず、思わず美和に背を向けた。眼を合わせていられなかったし、パニックに陥りそうになるのを避けるためでもあった。


「随分と長い年月が経ちました・・・・・・」

 沈黙を破り、美和が声を発した。

 その声は、今二人がいる部屋そのものが紡ぎ出したかのように壁や天井のあらゆる方向から音の波となって石和の身体に押し寄せてきた。やさしく、そして少しの切なさを含んでいるかのような不思議な音の波は石和の心を締め付け、そして大きく揺さぶっていた。


 石和は改めて美和に向き直った。頭の中が整理されたとは言い難いが、そこにいるのは美和本人ではないことを受け入れていた。

「あの未来の姿も、過去の姿も、あなたが私に見せてくれたのですか? あなたが、私をここに呼び寄せたのですか?」

 信じがたい現状を受け入れる準備を整えながら、美和に、いや見えない誰かに質問を投げかける。

 石和を真っ直ぐに見つめるその視線を変えることなく、美和がほんの少しだけうなずいて見せた。


「なぜ自分に・・・・・・」

 この不思議な現実が自分の身に起きているのはなぜなのか。石和はこの現実を受け入れるための答えを探していた。


「四十年も経ったから・・・・・・」

 音の波が四方から押し寄せてくる。美和は相変わらず石和を見つめているが、最早口は動いていなかった。


(文木達との出会いもあり、ここ最近はこの島で生まれたことや思い出を口にすることは増えていたが、それまではどうだっただろうか。たまにテレビに映る島の映像を目にするその瞬間まで忘れてしまっていたことは紛れもない事実だ。朽ち果てていく故郷の様子を見る度に心を痛めつつも、自分にできることは何もないと諦めて、投げやりになっていたのもまた事実だ)


(過去の世界で子供の自分が「また絶対に戻って来る」と言ったことに間違いはないと思う。確かに当時はそんな気持ちがあったはずだ。でも、そんなのはみんな同じではないのか・・・・・・)


(いや待て。果たしてそうなのか? 望郷の思いだけで、みんな一度も帰島することはなかったのか? もしかすると約束を口にして一度の帰島も果たしていないのが自分だけだから、ここに導かれ、こんな不思議な世界を見せられているのか?)


(待て待て、そんなはずはない。何千人もいた島民の中で帰島を実現していないのが自分だけだなんてあり得ないだろう。離島以来、一度も島を訪れていないなんて自分の両親だってそうじゃないか)


(島で生まれた島民か? いや違う、妹がいるじゃないか。彼女が帰島したなんて聞いたことがない。兄貴だって、隣の島までは来たけど海が時化て島には上陸できなかったって話だった)


(クラスメイトか? もしかすると、この教室で学んだ当時のクラスメイトの中で自分だけがそうなのか)


 幾ら考えても、なぜ自分がこんな状況になっているのか答えが見つからない。


「約束を守らなかったから・・・・・・私だけが約束を守らなかったからこんなことになった?」

 自責の念にも駆られた質問が口を付いたが、美和からの返事はなかった。


(みんなは、どうだったのだろう。どんな思いでこの四十年を過ごしていたのだろうか)

 石和がそう思った時だった。教室の壁や床のあちらこちらで、数えられないほどの幾つもの点がぼんやりと光り始めたのだった。

 気が付けば太陽は大きく西に傾き、曇天も手伝って外はかなり暗くなっている。窓の外に目をやると、光の点は岸壁や地面にも無数に広がっている。よく見ると手形や靴跡のようだ。

「これは?」

「あなたが希望したものの形です」

 そして声は続けた。

「よく帰ってきましたね」


「光って見える手形や靴跡は、元島民の方々が離島の後に島を訪れてくれた時に私に接してくれた印です。嬉しいことに多くの方々が島を訪れてくれました。勿論、元島民の全員ということではありません。先程、自分が帰島を果たさない最後の島民なのかと考えていたようですが、そうではありませんよ」

「では、なぜ」

 美和・・・・・・いや、声は静かに語り始めた。


「ここ数年、観光で島を訪れる人が大変増えています。ですが、残念なことに元島民の方はどんどん減ってきているのが実情です。四十年も経ったのだから当たり前ではありますが、時の流れを感じざるを得ません」


「世界文化遺産に登録され、多くの観光客と触れ合うことが多くなった今、私は昔のように島民の生活で活気に満ち溢れていた時代にいつまでも思いを馳せているばかりではいけないと感じるようになりました。風化によって建物が崩れ始め、みじめな姿に変わっていくことが初めはとても嫌でした。このままでは建物崩壊の悲しいニュースが流れるのもそう遠くないだろうと理解しています。しかし、そんな姿が廃墟の聖地として多くの皆さんに注目されることが現実なのであれば、私は皆さんが求める私へのイメージを受け入れようと考えるようになりました」


「私は変わらなければなりません・・・・・・そしてあなたも・・・・・・」

「私も?」


「朽ち果てていく故郷をニュースで見ても、何もできなかった自分を責めていましたね。廃墟の聖地のようになる前に何とかして欲しかったとも。そして、今回の帰島に際しては、

 こんな自分を島が受け入れてくれるのかとも考えていたようです。石和さん、思いがあるのであれば行動を起こしませんか。そして、私の新たな旅立ちに力を貸してください」

「力を貸してと言われても・・・・・・」

 石和が困惑の表情を浮かべる。


「具体的なことはお任せますが、考える事があなたの思いを成就することにもなるはずですよ。それに、あなたには相談が出来る素敵な仲間がいるじゃないですか。私はあなたに『チャンス』をあげたいと考えています」

「チャンス?」

「はい。あなたにとっての大きなチャンスです」

「でも・・・・・・そんなこと私に出来るでしょうか?」

「今までやってきた事と比べても大きな仕事になるかも知れませんね。大丈夫、自分の力を信じてください。私も応援します。それに、取り逃がした猫のあの無言のメッセージを感じ取ったあなたの感性があれば大丈夫ですよ」

「猫?」

「はい」

 美和の顔がほほ笑んだ。

「私の願いに応えてください。そして、あなたの人生にも心残りがないように・・・・・・」



「いやぁ~今日は本当に最高だったなぁ」

「ほんと、ほんと。人生最高の一日でした」

「そりゃ、いくらなんでも言い過ぎだ。はっはっは」

「あっはっは」

 文木と早良のはしゃいだ声が近づいてきた。ぼんやりと輝いていた手形や靴跡がすっと消えてなくなり、不思議な世界から現実の世界に切り替わっていった。


「お帰りなさい」

 美和が二人を出迎えた。顔も様子も普通に戻っている。

「いやぁ~、今回のことは本当に美和さんには感謝感謝ですよ。こんな体験ができるって、私は夢にも思わなかったよ」

 文木が興奮冷めやらないといった感じで声を弾ませている。その横で鼻の穴を広げた早良が大きくうなずいている。

「石和さん、これ見てよ」

 そう言って、文木がデジタルカメラの液晶画面を石和の前に差し出した。

「三十号棟ですね」

「おっ、さすが。日本最古の鉄筋コンクリートアパート三十号棟。二十年前に上陸した時もここには立ち寄ったんだ。大分、風化が進んじゃったけど、どんと構えている姿は風格があるよね。内部の写真も撮って来たから後で見せるね。それからこの写真は隣の三十一号棟ね。石和さんが住んでいた六階にも行ってみたよ。石和さんから聞いた火事の影響なのかな、コンクリートの壁は何処よりも傷みが激しくてボロボロだったよ。でもさ、窓から見える一面の海は本当に素晴らしかったよ。これで天気が良ければ最高だったけどね・・・・・・。『これもしかしたら石和さんの部屋かな?』っていうのも写真を撮って来たからさ、後で確認してよ」

 文木が息も切らさずに捲し立てた。


「実はね、文木さんと二人で行動計画を立てていたんだ。貴重な時間を一秒でも無駄にしないようにね。ここを出てから一目散に南端のプール跡に向かって、そこからここまで北上してきたんだけど、いままで石和さんに聞いた話をひとつずつ確認するように寄り道しながらね。三十一号棟では一階の郵便局や地下のお風呂場も行ってきたけど、石和さんの話してくれたエピソードが蘇ってきて本当に楽しかった。南側の観光コースでは観光客に見られていたけど、ヘルメットと腕章があれば問題なし。大手を振って島中を歩き回ったよ」

 早良も文木に負けじとばかりに捲し立てた。二人とも、どうにも興奮が止まらないようだ。


「名残惜しいでしょうが、そろそろお時間ですね」

 腕時計で時間を確認した美和が離島の時間が来たことを告げた。


「もしかして、二人はずっとここにいたの? インタビューは終わったの?」

 早良が美和と石和に問いかけた。

「う、うん」

「ちょっと話し込んじゃって。インタビューは無事に終わりました。本当はあちこち回ってお話をお聞きしたかったのですけど、石和さんには申し訳ないことをしてしまいました」

「そうか、残念だね」

「いや、でも十分楽しめたよ。来たくなったらまた来るさ、例えそれが観光客だったとしてもね。今回の帰郷で少し気持ちは変わったよ」

「そうか。それは良かった。まあ、写真は山ほど撮ったからさ、東京に帰って、写真を肴に盛り上がろうよ」

「では、みなさん帰りましょうか」

 美和の合図で、船着き場へ向けて歩き始めた。


 帰りの船の上、宿泊先のホテル、翌日の長崎観光と、大はしゃぎの文木と早良を他所に、石和はずっと上の空だった。

 体調でも悪いのかと気遣う二人に気兼ねして、その都度平静を装うのだが、どうしても島で投げかけられた言葉が頭から離れなかった。

「力を貸してくれってどうやって? いったい俺になにが出来るっていうんだ?」


 結局、それは東京に帰るまで石和の頭から離れることはなかった。

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