Episode 12-13 駆け引き
又三郎がヘルムートの
昨晩はしたたかに酔っていたようにも見受けられたが、ヘルムートは四の刻(午前八時)頃にはきちんと身なりを整え、朝食の席に姿を見せていた。
又三郎はコンラートと共に先に朝食を終えていたが、その席でコンラートは又三郎に対して、昨夜は父が大変世話を掛けたと、しきりに恐縮していた。
昨晩屋敷に戻ったのが十一の刻(午後十時)を随分回った頃で、馬車を降りた時にはヘルムートはすっかり酔いが回り、自力で部屋に戻れない状態だった。そのヘルムートをコンラートと二人掛かりで部屋まで運び、与えられた屋敷の一室でようやく一心地ついたのは、日が変わるかどうかといった頃だった。
そこから湯をもらって身体を拭い、床に入って目覚めたのは三の刻(午前六時)を少し回った頃で、正直あまり良く眠れた気がしない。
息子の気苦労を知ってか知らずか、当のヘルムートは平然とした様子で黙々と朝食を口に運んでいる。
「ヘルムート殿……昨夜はしたたかに酔うておられたが、二日酔いなどは大丈夫でござるか」
又三郎は思わず尋ねずにはいられなかったが、ヘルムートはその問いを
「馬鹿にするな。あの程度の酒で二日酔いになっているようでは、商会の会頭など務まるか」
そう言って朝食を完食し席を立ったヘルムートの背中を見送りながら、又三郎が感心していると、そのやりとりを
「マタサブロウさん。大旦那様は先程あのようにおっしゃられていましたが、目覚められてすぐの頃は真っ青な顔をなされていて、それはもう大変だったのですよ」
「……」
「それでも、市中には少々値が張りますが、体内の
もう十年ほど若い頃は本当に、飲み薬などに頼らなくてもぴんぴんとなされていたものですがね――最後にそう言い残して、その女中は自分の仕事へと戻っていった。
そもそも酒をそれほど
その後、ヘルムートは再び商館へと足を運んだ。何でも、昨日の市中の様子を見て、気になる点がいくつか感じられたという。そのことについて、店の者との意見交換をしたいとのことで、又三郎は再び商館の中で手持無沙汰の身となった。
幸いに、と言うべきか、
商館の玄関から出る際に、ヘルムートは息子に対して振り返り「今夜は屋敷には戻らんかも知れん」とのみ言った。又三郎はヘルムートから事前に聞いていた希望の行き先を思い返してため息をつき、その状況を察したであろうコンラートは苦笑いを浮かべていた。
「……ヘルムート殿は、本当に元気でござるな」
商館を出た後、ぼそりと呟いた又三郎に、ヘルムートはニヤリと笑った。
「今夜はお前さんにも馳走してやるから、楽しみにしているがええ」
「いや、そのようなお気遣いは結構でござる……しかし、物見遊山でこの街に訪れたと言われるわりには、ヘルムート殿が希望される行き先には観光の名所らしい場所が一つもござらんな」
もはやぼやきに近い又三郎の言葉を聞いて、ヘルムートは手にしていた杖で又三郎の腕をトントンと軽く叩いた。
「別に儂は、この街に来るのは初めてではないわい……お前さんが言うところの観光名所とやらは、とうの昔に見て飽き飽きしておるわ。そんなものより、時がたっても色褪せない街の名物とは一体何か、お前さんには分かるか?」
「……」
「
そう言ってヘルムートは己の胸を叩いた。又三郎は二日酔いでもないのに頭が痛くなり、軽く目頭を押さえながら尋ねた。
「では、今日も街中の散策でござるか?」
「そうじゃな……今日は少し、歩く場所を変えてみよう。この街には昨日歩いた商店街の他にも、繁華街があったじゃろう?」
二人は近くに停まっていた空きの馬車を拾い、繁華街へと向かった。
昨日散策した商店街は、街の人々の生活必需品を扱った店が多かったが、繁華街は小洒落た飲食店や嗜好品、高級品などを取り扱う店が多かった。自然、華やかに着飾った女性も数多く見受けられる。
馬車を降りたヘルムートは上機嫌で、早速辺りを見回している。これからしばらくの間、ヘルムートに従ってこの繁華街を歩くことになるのだろうが、そう遠くないところにある学び舎に通っているものと思しき若い娘達などを見ていると、か弱い子羊の群れの中に狼を解き放つようで、又三郎は何とも気が重くなった。
「どうしたんだいマタサブロウ、随分と浮かない顔をしているね」
突然背後から声を掛けられ、又三郎は振り返った。そこには昨日と同じく、見知った顔の女が立っていた。
「……ミネルバ殿か。そなたこそ、そのような恰好でどうなされた?」
これまでに何度か又三郎が世話になっているミネルバは、いつもの衛士姿ではなく、落ち着いた意匠の女性らしい服装に身を包んでいた。いつもとの印象の違いに又三郎は思わず面喰ったが、なまじ顔立ちが整っているだけに、右目に着けた眼帯だけが
「恰好の話で言えばむしろ君の方こそ、その姿はどうしたんだい?」
そう言ってクスクスと笑うミネルバに、又三郎は憮然とした表情で答える。
「これは今のそれがしの仕事着でござる」
「カリムさんやうちの若い連中から聞いた話は、本当だったんだね……君が昨日から何やら変わった服を着て、あちらこちらで女性に声を掛けている老紳士と一緒に街中を歩いているって。まるでちぐはぐな狼が二匹、連れ立って街中をうろついているようなものだよ」
「……」
「今日は私は非番でね。ひょっとしたら君達の姿が見られるかもと思って、この辺りをぶらぶらしていたんだが、思いのほか早く見つけられて良かったよ。いやはや全く、面白いものを見せてもらえた」
さも愉快げに笑うミネルバに、又三郎は渋い顔をして見せた。
少し離れた場所で街を行く女性に声を掛けていたヘルムートが、二人の様子に気付いてこちらへと戻ってきた。
「マタサブロウよ、こちらの美しいお嬢さんはお前さんの知り合いかね?」
昨日のシンシアの例に引き続いて、又三郎が美女から声を掛けられていたのが少々妬ましかったのかも知れない――ヘルムートが、やや複雑そうな表情で尋ねた。
「こちらはそれがしが時々世話になっているミネルバ殿でござる。ミネルバ殿、こちらは今のそれがしの雇い主のヘルムート殿だ」
それぞれを紹介した又三郎の腕を、ヘルムートが手にした杖で再び軽く叩いた。
「これマタサブロウ、人物を紹介する順序が逆じゃ。このような場では、あくまでもレディを立てるものじゃろうて」
そう言うとヘルムートは背筋をピンと伸ばし、ミネルバに対して
「私めはヘルムート・ベルティと申します。どうぞ以後お見知りおきを、レディ」
一方のミネルバは、やや引きつった笑いを浮かべながら礼を返した。
「マタサブロウの友人のミネルバです。どうぞよろしく」
友人と言われて、又三郎は一瞬呆然としたが、当のミネルバは又三郎に対して左目を軽く瞑って見せた。
「ところでレディ、突然の申し出で大変恐縮なのですが、これから少々お時間をいただくことは叶いませんかな? もしよろしければ、昼食にご招待したいのですが」
優雅な一礼をもってそう言ったヘルムートの様子に、ミネルバは少しの間思案したが、やがてにっこりと笑って頷いた。
「別段これといって用事があった訳でもありませんし、お食事ぐらいであれば喜んで」
「おお、それは光栄の至り。では早速、どこか貴方に相応しい店を探して入りましょう」
喜色満面の笑みを浮かべたヘルムートは、たまたま近くにあった瀟洒な食事処を
一方、ミネルバの反応に驚いた又三郎は、思わず小声で彼女に尋ねた。
「ミネルバ殿、本当に良かったのでござるか?」
「別に昼食のお誘いぐらいだったら、私は気にしないよ……それとも何かい、君は私が彼の誘いに応じるのがそんなに気になるのかい?」
喉を鳴らして笑うミネルバの様子に、又三郎は被りを振ってため息をついた。だが一方で、ミネルバが相手ということであれば、ヘルムートとてそう無体なことが出来るようには思えず、二人の身の安全を心配をする必要もなさそうだった。
「それではヘルムート殿、それがしは近くの席で適当に時間を潰している故、会食が終わられたら声を掛けて下され」
その言葉に、ヘルムートは鷹揚に手を振って答え、一方のミネルバは「話が違うのではないか」と言いたげな表情で又三郎の方を見た。どうやら彼女は、三人での昼食の席を想定していたらしい。
だが、ヘルムートの誘いに自ら応じたのはミネルバの判断である。昼食を共にした程度で、彼女の身がどうなるという訳でもないだろうと判断した又三郎は、何食わぬ顔で二人から少し離れた席に腰を下ろし、ゆっくりと己の昼食を摂ることにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから一刻(二時間)程の間、ヘルムートがミネルバと共に昼食を摂っているのを遠目に眺めていた又三郎は、ようやく席を立ったミネルバが笑顔でヘルムートに手を振り、こちらへとやってくるのを見た。
又三郎の傍らにやってきたミネルバは、ヘルムートに背を向けながら又三郎の肩をそっと叩き、再び左目を軽く瞑ってみせた。
「いや、なかなかに面白い御老人だったよ。次は君と二人で、ゆっくりと食事をしてみたいところだね」
そう言い残して、ミネルバは軽く手を振ってその場を去っていった。その堂々たる立ち居振る舞いは、思わず又三郎も見惚れるほどだった。
一方のヘルムートはというと、遠目に見ても不完全燃焼だったと言いたげな表情をしていた。
「いかがであったかな、ミネルバ殿との会食のひとときは」
又三郎が尋ねると、ヘルムートは何とも渋い表情で大きなため息をついた。
「あのレディは、なかなかにガードが固かったのう。儂が聞けたのはせいぜい彼女の名前ぐらいのもので、あとは一方的にあれこれと尋ねられたばかりじゃったよ……それも、お前さんについてのことばかりな」
ヘルムートのあまりの意気消沈ぶりに、又三郎はほんの少しだけ同情した。
「それはまあ、何とも……だが、そなたにしてみれば、昼下がりに女子とのひとときが過ごせてよろしかったではないか」
するとヘルムートは、小声で憤慨するように言った。
「馬鹿を申すな、こっちはまるで街の衛士の尋問を受けているような気分じゃったよ。我ながら一刻もの間、よく会話が続いたものだと思うたわい」
妙齢の美女を相手にしていた割には、やや忌々しげな表情のヘルムートの様子に、又三郎は思わず心の中で苦笑した――それはそうだろう、彼女はこの街の衛士隊の隊長なのだから。
だが、ヘルムートはすぐに己の両頬を両手でぴしゃりと叩くと席を立ち、肩越しに又三郎の方を振り返って言った。
「さて、それでは次の
やれやれ、どうにも懲りない爺さんだな――ヘルムートの背中を追いかけながら、又三郎は小さく被りを振った。
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