Episode 11-10 二人の秘密
翌日の早朝、いつものように部屋の扉が叩かれた。
既に身支度を整えていた又三郎が扉を開けると、そこには見慣れた姿があった。
「……」
「ジャニスよ。ちょっと考えたらそれぐらい分かるでしょう、馬鹿」
それだけ言うと、ジャニスは不機嫌そうな顔で廊下の端の階段へと歩き出した。
宿の玄関を出て、ジャニスがいつものように走り出す。その少し後ろを、簡素な造りの背負い袋を背負った又三郎が追いかけるようにして走る。念のため、腰には脇差だけを差していた。
まだ夜が明けていない街中は、いつものように人通りがほとんど無かった。
四半刻(約三十分)ほどの間、二人は無言のまま走っていたが、ややあってジャニスが口を開いた。
「姉さんが貴方のこと、良い人だって言っていたから、特別に教えてあげる」
「何のことだろうか」
「私と姉さんだけしか知らない、私達二人の秘密のこと」
前を向いて走り続ける中、ジャニスが言った。
「貴方、私のことについて、どんなことを知っているの?」
ジャニスのやや後ろを走り続けながら、又三郎は少しの間考えた。
「そなたの声には、魔性が宿っているという噂を聞いた」
「そう……その話、本当のことよ」
走りながらさらりと言ってのけたジャニスに、又三郎は思わず足がもつれて転びそうになった。
「なかなか素敵な反応、ありがとう。昔、ある人に言われたの。私の歌声には、人の心を惹きつける魔性が宿っているって」
走るペースを落としたジャニスが、又三郎の隣に並んだ。軽く弾んだ息を整えながら、ジャニスが続けた。
「今みたいに普通に喋っている時には、その力はとても弱いものらしいのだけれど……歌という形で声を発した時に、私の声に不思議な力が宿るみたい」
「それは」
「どこまでが本当の話なのかは、私にも分からない。でも、私が歌手でいられるのは、この声のおかげ。姉さんはこの声を守るために、危険を承知で私の身代わりを演じてくれているの」
ゆっくりとした調子で走っていたジャニスが、ふと足を止めた。又三郎も同じように、走る足を止める。
また少しの間、無言の時間が続いた。
「そなたの声に不思議な力があると言っても、ただそれだけで歌姫としての地位を築いたわけではあるまい。今もそなたは歌うために、走るという形で努力をしている。舞台の上でだって、懸命に歌の練習をしている」
やや粗い息を吐く又三郎の言葉に、ジャニスは少し驚いた表情を見せ、ややあって小さく笑った。
「ありがとう、マタサブロウ」
「どうなされた、藪から棒に」
首を傾げた又三郎に、ジャニスが照れくさそうな笑みを浮かべた。
「そんな風に言ってくれる人って、なかなかいないのよ……噂話でとはいえ、私のことを知っている人達の中には、私がただ声に恵まれているだけだっていう人も少なくないから」
ジャニスの言葉に、又三郎はやや顔をしかめた。
「真実は、そなた自身が一番良く理解しているはずだ。それで別に構わんだろう、気になさるな」
「ええ、そうね。貴方の言う通りかも」
又三郎は背負っていた袋の中から真新しい手拭を一枚取り出し、ジャニスに渡した。白い顔にうっすらと浮かんだ汗を拭いながら、ジャニスがにっこりと笑った。
「今のタオルを出すタイミング、なかなか良かったわよ。貴方もだんだんと、コツが分かってきたようね」
「それはもう、色々と教えられたからな」
最初の三、四日程のジャニスとのやり取りを思い出し、又三郎は思わず苦笑した。あの時は、やれ手拭の枚数が足りないとか、洗いざらしの手拭で新品ではなかったとか、用意した飲み物がただの水だったのが気に喰わないとか、色々と苦情を言われたものだった。
「姉さんが持っている不思議な力はね、人の心を読む力なの」
唐突に、ジャニスが言った。
「姉さんは相手に触れることで、相手の心の内を読み取ることが出来るの。姉さんが言うには、漠然としたイメージって形で『視える』らしいんだけれどね」
その言葉を聞いて、又三郎はあることを思い出した。
「二日目の朝、ジェニス殿の体調が突然悪くなったのは……」
「そう。偶然貴方の手に触れたことで、貴方の心の中を見てしまったみたい」
ジャニスはやや気まずそうな顔で、言葉を続けた。
「その詳しい内容は、私も聞いていないのよ。ただ、あの時部屋に戻って来た姉さんは、貴方のことを『悲しくて優しい人』だって言っていたわ」
「……」
「貴方が一緒に暮らしているっていう人達を、リハーサルに呼んであげるようにって言い出したのも、実は姉さんなのよ。私達二人は孤児院で育ったから、姉さんもあの子供達には、何か思うところがあったみたい」
又三郎はその言葉で、ジャニスが最初にナタリー達のことを探るように聞き出そうとしていた理由を理解した。ジェニスには、ナタリー達のことを映像のような形で読み取ることが出来たが、又三郎との関係までは分からなかったのだろう。
そして同時に、ある一つのことに思い当たった又三郎は愕然となった。
「ジェニス殿は公演の後、観客一人ひとりの手を握りながら挨拶をなされていたが……」
「ええ。相手の心の内は、全部『視えて』しまっているわ」
ジャニスは沈痛な面持ちで頷いた。
「姉さんは絶対に口に出さないけれど、きっと辛い思いをしているはずよ……だってそうでしょう? 姉さんがいつも受け止めてくれている相手の心の内は全部、本当は私に向けられているものなのだから」
「……」
「自分に向けられたものではない称賛や好意を、ただひたすらに笑顔で受け止め続けなければならないなんて、きっと私には無理……いいえ、受け止めなければならないのは称賛や好意ばかりじゃない。私に向けられた負の感情も全部、姉さんはただ黙って受け止めてくれているはず。私は姉さんほど、心が強くない。姉さんは文字通り、心身共にそんな私の身代わりを勤めてくれているの」
ジャニスはじっと、又三郎を見つめていた。その目尻には、微かに光るものが見えたような気がした。
そこでジャニスはふと我に返り、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「やだ、私ったら。マタサブロウ相手に、何でこんな話をしているんだろう」
「そなたに分からぬものを、それがしに分かるはずもない」
頭を掻きながら、又三郎が口を開いた。東の空が、僅かに明るくなってきていた。
「だが、そなたがジェニス殿を大切に思っていることは、それがしにも良く分かった。きっとジェニス殿も、同じ思いであるに違いなかろう」
「……」
「昨夜のマイヤー殿の言い草には、それがしも少々思うところがあったが、気にするな。そなた達はこの世でたった二人の、血を分けた姉妹だ。二人で一人の歌姫、誠に結構なことではないか」
「うん……うん……」
「私達だって、マイヤーさんには感謝しているのよ。決して悪い人ではないし、マイヤーさんがいなければ、今の私達はなかったから。でも、今の私が私でいられるのは、やっぱり姉さんのおかげ」
「ああ、そうだな」
「マイヤーさんが姉さんに対して、私の身を守るための身代わり以上の価値を見出していないだろうことも、薄々理解はしているわ。でも私は、絶対に姉さんと一緒じゃないと嫌。もしもマイヤーさんが姉さんを切り捨てるようなことがあったら私、歌手なんてすっぱり辞めてやるわ」
やや過激なことを口走ったジャニスを、又三郎は穏やかになだめた。
「これこれ、そう先走った考え方をするものではない。流石にマイヤー殿とて、そこまでジェニス殿を無下にするようなことは考えておるまい」
「ええ、たぶんそうだと思う。そうであって欲しい」
ジャニスは又三郎を見上げて、小さく笑った。
「マタサブロウ、あと一週間ほどの間のことだけれども、姉さんのこと、くれぐれもよろしくね。何もないことを祈っているけれども、もしも姉さんに万が一のことがあったら、私、きっと耐えられないだろうから」
又三郎は、力強く頷いた。
「心得た、どうか安心して任されよ」
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