Episode 11-6 歌の神髄

 幸いに、とでもいうべきか、又三郎は宿に戻ってからも、座長のマイヤーから何かを言われるといったことはなかった。


 五の刻(午前十時)頃、公演会場の下見のためにジャニスは宿を出た。移動のための馬車に乗り込む時、ジャニスの顔色はまだ少し悪かったが、公演会場である演劇場へ到着して楽屋へと入り、再び出てきた時には、彼女の顔色は既に元へと戻っていた。


 演劇場へ足を踏み入れてからのジャニスは、流石に顔つきが違った。歌姫といわれるだけの自信と気品と華やかさに満ち溢れ、周りにいる関係者達と話をする時の目つきも鋭い。観客席の最前列に座ってその様子を見ていた又三郎は、舌を巻く思いだった。


 観客のいない舞台に立ち、あちらこちらの様子を見て回っていたジャニスは、しばらくすると舞台の中央に立ち、おもむろに豊かな声量で歌を歌い出した。


 それは又三郎にとって、初めて聴く本物の「歌」だった。


 楽器の演奏を伴わない、ただの独唱だったが、その歌声を聴いた又三郎は、思わず胸を打たれた。歌詞を聴く限り、それは若い男女の悲恋を歌うものだったようだが、ジャニスの歌声は又三郎の心を強く惹きつけ、聴いているうちに危うく涙すらこぼしそうになった。


 ふと我に返った又三郎は、慌てて周囲を見渡したが、舞台設営に携わる者達に変わった様子などは見られなかった。おそらくは皆、彼女の歌声を聴き慣れているのだろう。


 そんな又三郎の様子に気がついたジャニスが、形の良い唇の端を上げて笑った。


「どう、マタサブロウ? 私の歌声、いかがだったかしら?」


「……いや全く、御見事おんみごとの一言に尽きる」


 大きく息を吐いた又三郎が、ジャニスに尋ねた。


「ところで、身体の具合の方はもうよろしいのか?」


 その一言で、つい先程まで上機嫌だったジャニスの表情が微かに歪んだ。


「ええ、体調はもう大丈夫よ。でも、今朝の出来事は致し方がなかったけれど、今後は軽々しく私の身体に触れないで」


 ややきつい口調でそう言ったジャニスの様子からは、演劇場に到着するまでのか弱さなどは微塵も感じられず、又三郎はただ黙って頷くことしか出来なかった。


「ああ、それと」


 己の感情を律するためか、努めて冷静な口調でジャニスが続けた。


「マタサブロウ、貴方、奥さんや子供さんはいるの?」


 何故そのようなことを突然尋ねられるのだろうか――又三郎は不思議に思ったが、舞台の上から己を見下ろすジャニスの迫力に圧されて、思わず答えた。


「いや、それがしには妻も子もおらぬが」


「ふぅん、そうなの……お姉さんや妹さん、その他の兄弟なんかは?」


 再び尋ねたジャニスに、又三郎は続けて答える。


「そういった者達もおらぬが……だが、それがしが寝食の世話になっている教会に、娘御が二人と子供達が」


「そう……だったらその人達を、明後日の七の刻(午後二時)にここへ連れてきてあげなさい」


 突然のジャニスの言葉に、又三郎はしばしの間首を捻っていたが、その様子を見たジャニスが苛立たしげに言った。


「明後日の午後、ここで本番と同じ形でのリハーサルをやるのです。一部の招待者や関係者の家族などであれば、その様子を見学することが許されています」


「それは」


「あとでマイヤーさんに、来る人達の人数などを伝えておきなさい。そうすれば、この演劇場に入れてもらうことが出来るでしょう。私はまだしばらくの間、ここでみんなと打ち合わせを続けているから、今のうちにその教会へ行ってきなさい」


 それだけ言うと、ジャニスは又三郎に背を向けて、周囲にいた裏方の者達との打ち合わせへと戻っていった。


 思いもかけなかったジャニスの申し出に、又三郎は一礼するとその場を後にした。ややきつい印象のあるジャニスだったが、人への気遣いが出来る優しい人物なのかも知れないと又三郎は思った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ジャニスの言葉に甘えて、急ぎ教会に戻った又三郎は、ナタリーとティナにジャニスからの申し出のことを伝えた。


「うわぁ、本番のコンサートではないにしても、ジャニスさんの歌声が聴けるなんて、滅茶苦茶嬉しいなぁ」


 ティナなどは無邪気に手を叩いて喜んでいたが、一方ナタリーはというと、遠慮がちに又三郎に尋ねた。


「ジャニスさんのお申し出は、大変嬉しいのですが……その、私達が公演の練習にお邪魔して、皆様にご迷惑をおかけしたりすることなどはないのでしょうか?」


「その点については、静かに見学している限り、問題はないと思われる。子供達を連れて演劇場まで来るのは大変だと思うが、折角のジャニス殿の御言葉に甘えられるがよろしかろう」


 又三郎がそう言うと、ナタリーはようやく安堵の笑みを浮かべた。


「はい、ではお言葉に甘えて、そうさせていただきます。ジャニスさんの歌声を聴かせていただけるのは、子供達にとっても良い経験になることでしょう」


 その言葉を聞いた又三郎は、とって返して演劇場へと戻った。追加の着替えの準備なども含めて、およそ一刻(約二時間)程の時間を要したが、演劇場に戻って早々、マイヤーからは小言を言われた。


「マタサブロウ、勝手にジャニスの側を離れてもらっては困るのだが……幸いにして、ジャニスの身に何事もなかったから良かったようなものの」


「いやはや、大変申し訳ない」


 頭を下げた又三郎の背後から、ジャニスが声を掛けた。


「マイヤーさん、又三郎が一時私の側を離れたのは、私が彼に許可を出したからよ。彼が勝手に私の側を離れたという訳ではないわ」


 ジャニスの言葉に、マイヤーは小さく唸ると又三郎へと向き直った。


「彼女がそういうのであれば、今回の件については不問としよう。だが、どうして君は彼女の側を離れたんだ?」


 又三郎がジャニスとのやり取りのことを話すと、マイヤーは気まずそうに頭を掻いた。


「なるほど、ジャニスがそのように言ったのであれば、確かに致し方がないな。だが、今後はジャニスの側から離れないようにしてくれたまえ」


「相分かり申した」


「ちなみに、明後日のリハーサルに来るという君のご家族は何人なんだ?」


「若い娘御が二人と、子供達が六人でござる。何卒よろしくお願い申し上げる」


 又三郎が再び頭を下げると、マイヤーは小さく息を吐いて笑った。


「分かったよ。明日の打ち合わせの時にでも、みんなにそのことを伝えておこう」


 そう言い残すとマイヤーはその場を立ち去ったが、ジャニスは又三郎に向かって片目をつぶって笑った。又三郎は三度、頭を下げた。


「ジャニス殿にも格別のご配慮を賜り、誠にかたじけなかった。教会の者達も皆、大変喜んでおり申した」


「それはとっても良かったわ。じゃあ、私は楽屋で帰り支度をしてくるから、もうしばらくの間、ここで待っていてくれるかしら」


 ジャニスも楽屋へと姿を消し、又三郎は楽屋の外でジャニスが出てくるのを待った。それから半刻(三十分)ほど後に、ジャニスが楽屋から出てきた。


「これから宿へと帰ります。マタサブロウ、宿までの警護をよろしくお願いしますね」


 流石にやや疲れが出てきたのか、先程までのジャニスとは少し雰囲気が違って見えた。又三郎を見る目が、心なしか微かに動揺しているようにも感じられる。


 微かな違和感を感じながらも、又三郎はジャニスの背後に続いて、演劇場を後にした。

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