Episode 6-6 夢の狭間亭

 娼館「夢の狭間亭」は、モーファの街の歓楽街の一角にあった。


 モーファにある数件の娼館の中の一つで、表向きは普通の宿屋と見た目が変わらない。周囲には酒場や屋台などが立ち並び、夕刻を過ぎると周辺の人通りは多くなる。そこは深夜になっても、街の灯が消えない一角の一つだった。


 夜の歓楽街が目を覚ますには、まだもう少し時間があった。又三郎は店の裏口を探して、その扉を叩いた。


 こっそりと物売りのように裏口から店に入らなければならないことには、何となく惨めな思いを抱かざるを得なかったが、まさか表玄関から堂々と入るという訳にもいかない。頼まれた仕事をこなして、給金を得て帰る。ただそれだけのことである。


 裏口の扉が開くと、中からは娼婦の一人らしい若い娘が、眠そうな目をこすりながら姿を現した。又三郎が用件を伝えると、娘は又三郎を店の中へと招き入れた。


 店の中の一角で少しの間待っていると、やがて店の主がやってきた。


「アンタかい、ハロルドがよこした用心棒ってのは」


 ターシャと名乗ったその店の主は、五十手前ぐらいの恰幅の良い女だった。上から下まで、又三郎を値踏みするように見る目が、一筋縄ではいかない雰囲気を醸し出している。


「それがしは、大江又三郎と申す」


「ふん、何だか長くて呼びにくい名前だね。それに、妙な恰好に変な喋り方……」


 そこでターシャは言葉を区切り、少しの間じっと又三郎を見つめていたが、やがて軽くあごをしゃくって、ついて来いと言わんばかりの顔をした。


 又三郎が案内されたのは、小さな部屋だった。異様なほど縦に細長い造りの部屋で、簡素なベッドと小さなテーブルだけが置かれている。部屋の一番奥の壁には、小さな窓が一つ設けられていた。


「ここがアンタの部屋だ。アンタの出番が来るまでは、寝ていようが何してようがアンタの好きにしていて良い。夜の賄いは、うちの子に運ばせる」


「ふむ」


「何か用があれば、そのへんにいる子を誰か捕まえて用件を伝えな。アンタの仕事の時間は、夕方から朝までの間だ。それ以外の時間は、どこで何をしていようがアンタの勝手だよ」


「相分かり申した」


「ああ、それから」


 ターシャがぎろり、と又三郎をねめつけた。


「くれぐれも、に手ぇ出すんじゃないよ。そこんとこ、ちゃんと分かってるね?」


 それだけ言い残すと、ターシャは用件が済んだとばかりに姿を消した。


 部屋に一人残された又三郎は、小さく息を吐くと腰の刀を外し、ごろりとベッドの上に横になった。固いベッドからは、少し埃とカビの匂いがした。


 今日から三週間、この部屋が又三郎の居場所となるのだが、教会で与えられている部屋とは比べるまでも無く狭い。まるでウナギの寝床のようだ。


 ハロルドからは、店の者では手に負えないような客が来た時にだけ働く簡単な仕事だと言われていたが、又三郎は仕事の初日から陰鬱いんうつな気持ちになった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 やがて窓の外が暗くなり、夜になった。部屋の窓は建物の中庭に向いているため、夜の街が賑わう声が遠くから聞こえてくる。ちらりと外を見ると、真向かいに見える娼館の建物のいくつかの窓から、微かな明かりが漏れ見えていた。


 ターシャからは、用心棒としての出番が来るまでは、この部屋で好きにしていれば良いと言われたが、これといってすることもない。どうしたものかと又三郎が思案していると、部屋の扉を叩く音がした。


「こんばんは、入りますよ」


 部屋の扉が開き、一人の若い女が中に入ってきた。部屋の明かりと、夜の賄いを持ってきてくれたようだった。狭い部屋の中に料理の匂いが漂い、又三郎は改めて強い空腹感を感じた。


 ほの暗い部屋の中で、女も最初は警戒するように部屋に入ってきたが、ベッドの上にあぐらをかく又三郎の顔を確認すると、悪戯っぽく笑った。


「あらアナタ、ちょっと目元が怖いけれど、なかなかの男前ね。ここの用心棒にはぴったりかも」


「しばらくの間、用心棒の代役を務める。大江又三郎と申す」


「えっと……」


 少しの間、女が戸惑うように口ごもった。


「親しい者達は、マタさんと呼んでくれている」


 又三郎がそう言って笑うと、女はようやく安堵したように笑い返した。


「それじゃあマタさん、私はウェンリィ。ターシャさんから、貴方のお世話をするように言われているの。よろしくね」


 ウェンリィは手にしていた明かりと賄いを、ベッドの脇のテーブルに置いた。


 ウェンリィも、この店で働く娼婦の一人なのだろう。又三郎の脇を通る時に、ふわりと甘い化粧の匂いがした。部屋がうす暗くてはっきりとは分からなかったが、彼女の落ち着いた優しげな横顔が見て取れた。


「食べ終わった後の器は、その扉の脇辺りにでも置いておいて。また後で下げに来るから」


「相分かった、世話をかける」


「それにしても、マタさんって随分と変わっているかも」


 得体の知れない新しい用心棒の人となりが少し見えて、やや安心したのだろうか。ウェンリィが小さく笑った。


「見慣れない服装に、何だか堅苦しい感じの話し方……それにひょっとして、こういうお店に来るのは初めて? 緊張してる?」


「客として来たことは、ないな」


 新選組の御用改めの一環として京の色茶屋に踏み込んだことは、これまでに何度かあったが――又三郎は心の中で呟いた。


「マタさんはこの店に、用心棒として来てくれたわけだけれど」


 ウェンリィが諭すように言った。


「でも、ずっと目が釣り上がったままじゃ、肩が凝ってしょうがないでしょう? もっと肩の力を抜いて、リラックスしなきゃ」


「あいにくと、この目は生まれつきだ」


「うふふ、ごめんなさい」


 口元に手を当てて笑うウェンリィの仕草には、どことなく感じられる品とつやがあった。


 ウェンリィが部屋を出て行った後、又三郎はテーブルに置かれた賄いに目を向けた。水の入った木製のコップと、湯気を立てている肉と野菜を煮込んだ料理の入った木製の器と匙、そして小さなパンが二つ乗った木皿。久方ぶりに一人で食べる夕食だった。


 教会の皆は、今頃どうしているのだろうか――又三郎はふと、そんなことを思った。

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