第41話 時間
取り壊されていく、それは再出発の合図のように。
佐藤トヨコが、年明けに決めた事は再婚し新しい家庭を作った佐藤カツヤとの家を売り、残った資金で小さなマンションの一室に住む事だった。
家を売ると、新築に近いためかすぐに売れたが、新しく住む家族は土台から家を壊し、新しく家をたて始めた。
再婚相手のカツヤが、毎朝出て行くドアは、外され空洞になり、ミタカの部屋の窓は全部壊され、何もない部屋の白い壁だけ見え、さやかが、いつも外を見ていた窓はなくなり、中はがらんどうだった。
最初からなかったかのように、最初からあったように。
暴力的なまでに、壊されていく家を見ながら、その上に広がる快晴の空をトヨコは見上げた。
これで、良かったのだ。
離婚後、元夫の佐藤カツヤから土地の権利書を正式に譲渡されたトヨコは、短い間でも家族4人で暮らした家に、1人で住む気にはなれなかった。
トヨコの妹の夫の友人夫妻が、家を購入する事を検討中だと聞き、見知らぬ人に思いでのある家を譲るより良いと思い、相場より安く売り渡した。
「お姉さんは、それでいいの?」
妹が心配して久しぶりに、電話をくれたがすぐに手続きをして欲しいとトヨコは伝えた。
土地だけ欲しく、家は取り壊すという事も聞いていたが、新年のまだ寒い風が吹くなか、解体されていく家をトヨコは、ぼんやり見ていた。
まるで、幻のようだ。
でも目の前のトラクターや数人の作業員達は、トヨコの思い出を知らずに壊していく。
解体作業が、終わりに差し掛かると聞いて新しく住み始めた、まだ住み慣れないマンションから見に来たのだ。
佐藤カツヤと息子のミタカ、自分と娘のさやかが越してきた時は、ずいぶん美しくキラキラと輝いていた戸建てだが、今は家全部が、かすんでいる。
「あの、佐藤さんですか?」
30代くらいの解体作業員の一人が、顔見知りで声をかけてきた。
ほうけたように、家を見ていたトヨコが振り向くと、作業着を着たまま土埃をはらい、ヘルメットを外し、軍手をしたまま、右手を広げて、トヨコに差し出す。
「違ったらごめんなさい。家を解体中に佐藤さんの物ではないかと、さしでがましいと思いましたが、お渡ししようと思って」
作業員の右手の軍手の中にあったのは、トヨコの物でもカツヤの物でもミタカの物でもさやかの物でもない、最初の夫、土屋トヤマの遺品の腕時計だった。
トヤマが病院で独りで亡くなった後、遺品の一つとして、わざわざ病院の看護士が送ってくれたものだ。
当時は、新しい家族を大切にする事に必死だったトヨコは、送られた時計をそのまま使わないタンスの中に入れて、2度と開けなかった。
土埃で、ガラスが茶色くなり、革のバンド部分はクタクタになっているが解体作業の中にあったにも関わらず、トヤマが働いていた時につけていた、茶色い腕時計の原型をとどめている。
トヨコは目をみはった。
土埃で、ほとんど時字は見えないが、秒針が動き、時間を刻んでいる。
それはまるで静かに、トヨコとさやかを愛した土屋トヤマ本人のように、ゆっくりと静かに進んでいる。
トヨコに先に進めとばかりに。
もう、振りかえる時間はないとばかりに。
「あら、夫のです。頂いていって良いかしら?」
トヨコが、一言呟くと作業員は、ほっとしたような顔になり、ポケットからタオルハンカチを出し、時計を丁寧にくるんでくれた。
「汚いハンカチですが、妻が家族分、多めにセールで買った新品なので持っていって下さい」
作業員は、トヨコの両手にそっと腕時計をくるんだタオルハンカチを渡すと、笑顔で仕事に戻った。
誰かの想いの中に誰かの想いは、重なっていく。消えることも、忘れられる事もなく。記憶として。
トヨコは、土屋トヤマの腕時計がくるまれたタオルハンカチを大切に鞄に入れて、歩き出した。
解体されていく家を1度も振り向く事もなく。
なぜなら、トヨコは、土屋トヤマの時を刻む時計と作業員からもらったタオルハンカチで、心は満たされていた。
家など、記憶には勝てない貴重な財産だとトヨコは、少し微笑み、歩きながら快晴の空を見上げながら歩いた。
トヨコの鞄の中で、トヨコの歩幅とあわせるように、さやかの父親であり最初の夫の土屋トヤマの腕時計は、時を、前へ前へと静かに刻んでいた。
それはまるで、トヨコの人生を前へと歩ませるかのように。
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