40話「“お姉ちゃん”じゃない」
季節は夏真っ盛り。
カレンダーの日付も8月に入ったこの日、俺は市内に唯一あるプールに来ていた。
連日の猛暑から逃れるために多くの人がこのプールに訪れているようで、それは今日も例外では無かった。
家族連れや若者たちがほとんどの割合を占めており、それぞれ泳いだりプールサイドで寝そべったりしている。
市が運営しているこのプールは、通称‘ジャンボプール’と呼ばれ近隣住民から親しまれていた。
その名の通り、他の市民プールとは違い小学校ひとつ分くらいの敷地内に、様々な種類のプールがある。
勿論、高さが5メートル程もあるウォータースライダーも完備され、地元では誰もが一回は行った事があるくらい有名なプールだ。
そして俺は昔何回も通ったプールの入り口に突っ立っている。
その理由は勿論、今日プールに行こうと誘ってくれた相手を待っているわけなのだがーー
「……お、お待たせ」
「いや、俺も今――」
そこまで言って、俺は思わず言葉を失った。
俺を今日誘ってくれた目の前の幼馴染は、いつも通り明るい栗色の髪に、大きな瞳で俺の様子を伺っている。
いつもと違うのは、その抜群なスタイルをより強調するような、ハイビスカス模様のビキニだった。
スタイルの良い彼女が着る事で、より相乗効果を生み出しており先程から通り過ぎる男がガン見するくらいの存在感を放っている。
「新しく買ったんだけど……へ、変かな?」
「……い、いや、その…めっちゃ似合ってる」
「ほ、本当?よ、良かったぁ…。ほら、その私ビキニとか着たことなかったから、その心配で」
顔を赤らめながらも俺の言葉に素直に喜ぶ幼馴染は、何だか今までの彼女と全然違っていて、とても新鮮だ。
男なら誰でも悩殺しそうなそのルックスとのギャップは、素直に可愛いと思う。
「も、元々スタイルは良いんだから、そういうのは似合うだろ」
「そ、そうかな…。何だか恥ずかしいな、あはは…」
「…そ、そろそろ行こうか、青ねえ」
このままではこっちも何だか恥ずかしくなるので、彼女を促して俺たちはプールサイドへ場所取りに向かう。
隣を、まだ顔を赤くして歩く幼馴染、真夏川青子と俺は今日、2人きりでプールに来ている。
水着姿の青ねえの存在が、改めてその事を俺に自覚させる。
少し心臓の鼓動が高鳴るのを、知らんぷりして俺は歩き続けた。
事の始まりは数日前に送られてきたメールだった。
既にベットでうとうとしていた俺は、その差出人の名前を見て一気に眠気が覚めた。
差出人は真夏川青子。
夏休み直前に学校の門で会って以来、この1ヶ月近く一度も会っていない幼馴染だった。
内容はごく簡単なもので、近日中に2人で遊びに行かないか、というもの。
2人、というところに若干考えはしたが俺たちは元々幼馴染なわけで。
むしろ向こうから仲良くしてくれるなら歓迎すべきことなのではないか。
今まで色々なことがあったし正直、前の‘あの’青ねえの恐怖を忘れたわけではない。
中学校時代にされたことも含めて、だ。
でも最近の彼女が大きく変わったのもまた事実。
あの悲しそうな笑顔を思い出すと、どうしても青ねえに冷たくできない自分がいる。
我ながら中途半端だなと苦笑しながら、俺は承諾の返事を送ったのだった。
「わあ、水が冷たいね、薫!」
「おい青ねえ、走るなって!」
まさかその時の俺は、2人きりで行く場所がプールだなんて想像もしていなかったのだが。
いつの間にかやり取りの中で行き先がこのジャンボプールになっていたのだ。
年頃の男女が2人きりでプールだなんて完全に側から見たらデートなわけで。
どう考えても意識しない方が無理だというものだ。
それに目の前にいるのは現役モデルの女子大生だ。
さっきから、いや入ってからずっと周りの視線が痛い。
特に男からは、怨念のような物を感じる。
「ねえ、このプール流されるよ。懐かしいね。ほら、薫もおいで!」
「分かったからあんまり先行くなよ!」
当の本人はそんなことは露知らず、思い切りプールを楽しんでいた。
バッサリと切ったショートボブは中々似合っていて、今の水着とも相性バッチリだった。
久しぶりに会った青ねえは本当に楽しそうに笑っていて、少しホッとする。
俺は心のどこかで、青ねえに対する罪悪感を持っていた。
いくら昔酷い目に遭わされたからと言って、少しやり過ぎなくらい彼女を拒否した。
だから、今笑っている青ねえを見て、俺は良かったと、素直にそう思うのだった。
「じゃあお昼にしようか。お弁当、作ってきたから」
「え、青ねえが?料理とか出来るんだっけ」
一通りのプールを回った俺たちは休憩したのに、昼飯を取ることにした。
テラスの下でビニールシートを引いて2人で座る。
青ねえの真っ白な太ももが水着のせいでやたらの目に入り、正直昼飯どころではないのだが、仕方がない。
「失礼だよ、薫。まあ料理なんてしたことあまりないけど」
「やっぱりないんじゃん…」
「…でも、お弁当は、作るの初めてじゃ、ないんだから」
「……それってこの前のーー」
「いいから!……自信作なの。さ、食べてみて!というか食べなさい」
一瞬寂しげな表情を見せて、それをすぐに取り繕う青ねえ。
ふと頭に過るのはあの体育祭。
きっと青ねえはあの時もお弁当を作ってきてくれたに違いない。
さっきの台詞はそういう意味の‘初めてじゃない’。
蓋を開けるとそこにはおにぎりと唐揚げ、そして卵焼きとプチトマトというピクニックの定番みたいな中身が広がっていた。
「おお、これは中々…」
「…た、食べてみてよ」
「じゃあ、いただきます」
青ねえに促されるまま、まずは卵焼きをいただく。
次に唐揚げ、プチトマト。
そして小さく握られたおにぎり。
どれも味は問題ないし、普通に美味しい。
料理初心者の青ねえが作ったとはまず分からないくらいだ。
しかし最近真白台の絶品弁当を食べている俺としては、正直少し物足りない。
ただ、あいつはいつも料理をしているからあのクオリティが出せるわけだ。
青ねえは初心者としては上出来だと思う。
「…ど、どうかな」
「うん、普通に美味しいよ。普段料理しない人が作ったとは思えないくらいだ」
「ほ、本当…?」
そう言いながら自分でもおかずをつまんでいく青ねえ。
どうらや俺が中々感想を言わないものなので、やきもきしていたようだ。
「…うん、問題ない。良かった、レシピ通りやって何度も味見した甲斐があった…!」
「そんなに何度も味見してくれたのか。別に気使わなくていいのに」
「だって、不味かったら教えれくれた人にも、薫にも失礼でしょ?」
「まあ、そうかもしれないけど…」
「でも…ふふ、良かった」
「…どした?」
「ううん、やっとお弁当食べさせられたな、って」
「あ……」
「さ、食べよ!私もお腹空いてきちゃった!」
そう言って青ねえはまた顔を赤くして、おにぎりをかじる。
あの時のお弁当を持っていくという約束。
きっと青ねえは悪くない。
むしろ悪いのは、俺だ。
嬉しそうにおにぎりを食べる幼馴染はとても真っ直ぐだ。
校門での宣言通り、青ねえは真っ向勝負で俺に向かって来てくれる。
いくら鈍い俺だって、これだけアプローチされれば分かる。
彼女の、俺への好意を、分からないわけがない。
でも、果たして俺は真夏川青子のことを好きなのだろうか。
今、死に戻りした俺にとって一番大切なのは、間違いなく春菜なわけで。
その‘大切’というのは勿論、家族としてだ。
じゃあ青ねえはどうなのだろう。
隣にいる彼女は、申し分なく可愛い。
それにスタイルも抜群で、頭も良い。
でもそれがイコール好き、ってことには繋がらない。
俺の中で青ねえは、ずっと幼馴染のお姉ちゃんだった。
それは今でも変わらない、はずだ。
「食べ終わったら、少し休憩して、あのスライダー行こうよ、薫」
「…ああ、そうだな」
俺は一体、彼女との関係をどうしたいんだろう。
俺はどうして今日、2人きりでプールに行くことをよしとしたのだろう。
もし彼女が、今以上の関係を求めた時、俺は果たしてどうするのだろう。
考えても考えても答えは出ないまま、時間だけが過ぎていく。
「すっかり夕方になっちゃったね。でももう私へとへとかも」
「はしゃぎ過ぎなんだよ、青ねえは。ちょっとここで休憩しててよ。なんか飲み物買ってくるからさ」
「あ、私も行く!なんかプールの後って、アイスが食べたくなるんだよね」
「あー、それはなんとなく分かるかも…」
夕陽に染まったプール脇の売店に、俺たちは並ぶ。
結局閉園間際まで俺たちは遊び尽くした。
プールに入っている時は楽しくても、上がってくると急激に怠さと眠気が襲ってくる。
そんな倦怠感を紛らわすために売店で何かを飲もうと思ったのだが、アイスも確かに捨て難くはある。
悩んでいるといつの間にか俺たちの番になっていた。
日に焼けたおじさんが笑顔で注文を取ってくれる。
「御注文はどうするんだい?」
「あー、俺はソフトクリームのバニラで。青ねえはどうする?」
「うーん、バニラもいいけど、チョコもなぁ…あー、でもトッピングも捨て難い」
「青ねえ、後ろ並んでるから早く」
「ええっと、じゃあ…バニラもう一つで」
「結局同じかよ青ねえ…」
「だって薫が急かすからじゃない!」
お互い代金を出しながら、軽く言い合う。
青ねえでも焦ることとかあるんだなと思っていると、ニコニコしながら店のおじさんが俺にアイスを2つ渡してくれた。
それには頼んでいないのに、カラースプレーのトッピングがどちらにものっている。
どうやら何かしらのサービスのようだ。
「あれ、これってーー」
「サービスだよ、お姉ちゃん!姉弟なんだから、喧嘩しないで仲良くなー!」
どうやらおじさんは俺たちが姉弟喧嘩をしたと勘違いして、サービスしてくれたらしかった。
もしかしたら俺が‘青ねえ’と言っていたのを聞いて、お姉ちゃんだと勘違いしたのかもしれない。
まあ、断るのも悪いので有り難く頂戴するとしよう。
「よし、青ねえ、そこのベンチで一緒にーー」
「…違うよ、薫」
「…青ねえ?」
歩き出してすぐ、俺は青ねえに呼び止められる。
振り向いて見た彼女の表情は、とても言葉では言い表せないものだった。
ただとても傷ついていることは、俺にもすぐに分かった。
「私は、お姉ちゃんじゃないよ?私は青子。真夏川青子。貴方の幼馴染。……私は、私はお姉ちゃんなんかじゃ、ないんだよ」
「…そんなこと、分かってる」
「分かってる?……そうなんだ。分かってて、私のこと、‘青ねえ’って、そう呼ぶんだね…」
「青ねえ、俺はーー」
「ごめん、変なこと気にしてごめん。こんなこと、どうでも良いもんね。もう私、今日は帰るね」
「あ、青ねえーー」
そのまま青ねえは走って行ってしまった。
――追うべきだ。
そのはずなのに俺の足は動かなかった。
追いかけて、それでどうする。
呼び止めて、そこから先に俺は進めるのだろうか。
彼女が望んだ関係を俺は望んでいるのだろうか。
分からない。
だって俺にとって真夏川青子はずっと‘青ねえ’だったのだ。
今まで誰にもこんなに真っ直ぐな気持ちをぶつけられた事のない俺には、応えることなんて出来ない。
ここにいるのは妹の死を言い訳にして、これまで誰とも面と向かってぶつかったことがない臆病者なのだ。
「……どうすれば、いいんだよ」
溶けた2つのソフトクリームが夕陽に照らされる。
せっかくのトッピングも地面に落ちて、食べる人も最早いない。
そして残された俺はただ、その場に立ち尽くしかなかった。
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