32話「コンプレックス」


 あの真白台との勉強会から数日が経った。

 俺は気が付けば、あれから毎日彼女の勉強を見ていた。

 職業病というやつか、やはり一度教え始めたことは途中でやめられないという意地なのか。

 幸い、特に夏休みの予定は今のところ入っていないし、真白台も2つ返事で了承してくれている。

 ということで今日も、いつものように市民センターに集合した俺たちが目にしたのは「本日空調故障のため、臨時閉館」と書かれた貼り紙だった。

 午前中にも関わらず、外はうだるような暑さだ。

 とてもじゃないが外で勉強することなんて出来そうもない。

 そこで俺たちはダメ元で近くの図書館へ向かったが、予想どおり人で埋め尽くされていた。

 諦めて外へ出た俺たちを、ムワッとした熱気と蝉の大合唱が出迎えてくれた。


「あ、暑すぎる…」

「さすがに、外じゃ、勉強は無理そうですね」

 

 今にも干からびてしまいそうになりながら、横にいる真白台を見る。

 ノースリーブの白色シャツに八部丈の黒色ズボンは、シンプルながら彼女によく似合っている。

 だが、この暑さで汗を大量にかいたせいで浮き上がってはいけない物が見えそうになっていた。

 思わず目を逸らしたが、このままでは完全に彼女の下着が浮き上がるのも時間の問題だ。

 早急になんとかしなければならない。


「今日は諦めましょうか…」

 

 そう言う彼女は、言葉とは裏腹に心底残念そうな表情を浮かべていた。

 やはり昨日解けなかった大問2が相当気になるのだろう。

 分かる、分かるぞその気持ち。

 ただでさえ1日悶々としていたに違いないその疑問を、またさらに明日まで持ち越すのはさぞ辛かろう。

 うんうんと無意識に頷いていた俺を、不審そうに真白台は見つめていた。


「…センパイ、なんか勘違いしてません?」

「いや、皆まで言うな。俺には真白台の気持ち、よく分かるぞ」

「だからそれがーー」

「あー!お姉ちゃんだ!」

「おねえちゃん、なにしてるのー?」

 

 真白台の抗議の声を遮ったのは、2つの幼いが元気溢れる声だった。

 声のした方に振り向くと小学校低学年くらいの男の子と女の子が元気よくこちらに駆けて来る。

 正確には真白台の元へと走って来た2人は、そのままの勢いで彼女に飛びついた。


「晴人(はると)、桜(さくら)!?公園で遊んでたんじゃないの」

「暑いし、公園飽きちゃったんだもん。図書館で遊ぼうと思って」

「でも人いっぱいなんだもん!」

 

 どうやら2人は真白台の弟妹のようだった。

 慌てながらも上手く2人を落ち着かせながら話を聞く彼女は、どこからどう見ても立派なお姉さんだ。

 ふと視線を感じると2人が興味津々でこちらを見つめている。

 ここは1つ大事なお姉さんの先輩として、挨拶をしないといけないようだ。


「あー、センパイ、この子達なんですけど、あたしの弟妹なんです。こっちが弟の晴人。で、こっちが妹の桜です」

「こんにちは、晴人君に桜ちゃん。俺はお姉さんの先輩の、四宮薫って言うんだ。よろしくね」

「せん、ぱい?」

「えっと…先輩って言うのはなんだ、その…うーん、なんて言ったら分かるのかな」

 

 不思議そうにこちらを覗き込む4つの純粋な目。

 小学生に先輩について分かりやすく説明するには何に例えれば良いのか、眉間にしわを寄せて考えるが思いつかない。

 そんな俺を見て、真白台は思わず吹き出していた。


「お、おい!人が真剣に悩んでるのに笑うなよな、ったく」

「ふふふ、すいません。悩んでるセンパイの姿がつい、面白くて。2人とも、この人はね、お姉ちゃんの友達の四宮薫さん。さ、挨拶して」

「僕は真白台晴人、小学3年生です!」

「わたしは真白台桜、晴人と一緒で3年生です!」

「おお、2人ともよろしくな。真白台、この子たちって」

「ええ、双子なんです。二卵性なのであまり似てないかもですけど」

 

 同じ学年なのはそういうことだったのか。

 真白台の言う通り、確かに2人は双子と言われてもあまりピンとこなかった。

 二卵性双生児だとそこまでそっくりではないらしい。

 しかし、真白台は子供の扱いがやけに上手いな。

 そもそも俺は彼女に弟妹がいることすら知らなかったわけなのだが。


「ねえねえ、お姉ちゃん一緒に帰ろうよー」

「喉渇いたー。帰ろうー」

「うん、でもお姉ちゃんはこの人とお勉強しなくちゃならないから…」

「えー!だったらこのお兄ちゃんも一緒に家に連れて行こーよ!」

「え…」

「ちょ、ちょっと!?晴人、何言ってるの!?」

「良いじゃん、お姉ちゃんの友達なんでしょー」

「そ、そうだけど…」

 

 弟の言葉にしどろもどろになる真白台。

 その光景がなんだか珍しくてぼーっと見ていたが、よく聞いたらこの弟くんの言うことには一理ある。

 外はこの暑さだ。

 正直、1秒でも早く屋内に逃げ込みたい。

 でも店や公共の施設はどこもかしこも満杯状態。

 このままじゃ溶けて液体になるのも時間の問題だった。

 俺の家は駅を挟んで反対側だし、歩くと距離もかなりある。

 こうなったら残された手段は1つしかない。


「――よし、真白台の家に行こう」

「は、はぁ!?何言ってるんですか、センパイ!正気ですか!」

「ここから遠いのか、お前の家は」

「い、いや、そこの公園をちょっと行ったとこですけど…」

「それなら十分近いな!勉強なら、真白台の家でしよう」

「ほ、本気ですか、センパイ…」

「まあまあ。可愛い弟妹たちもこう言ってるんだしさ」

「うん、行こう行こう!お姉ちゃん早くー」

「暑いー!」

「うぐぐっ…」

「大丈夫。勉強なら今日もちゃんと教えるからさ」

「タ、タイム!お母さんに確認します!だからちょっと待ってください!」

 

 そう言うと真白台は慌てて携帯で電話を掛けながら、俺たちから距離を取る。

 そして数分もしない内に、なんとも言えない顔でこちらに戻ってきた。


「……お母さんも、連れて来なさいって」

「やった!じゃあ、早くいこー!」

「いこー!」

「おいおい、あんまり走ると危ないぞ!そうと決まれば、この暑さから早く逃れよう」

「セ、センパイ、その…」

「ん?どうした?」

「い、いえ、なんでもないです…」

 

 一瞬暗い表情をした真白台。

 その理由を、この時の俺が当然理解できるはずもなかった。






















「「ただいまー!」」

「ただいま…」

「お、お邪魔します」

「あらあら、いらっしゃい!冬香から聞いてるわ。いつも娘がお世話になってます。母親の亜美(あみ)です。よろしくね、四宮薫くん」

「あ、どうもはじめまして。四宮薫です…って俺の名前」

「最近、冬香から貴方の名前をよく聞くから、自然と覚えちゃってーー」

「お、お母さん!余計なことは言わなくて良いから!夜勤明けでしょ!大人しく寝ててよね、もう!」

「はいはい。ごめんなさいね、四宮くん。何もない家だけど、ゆっくりしていってね」

「お構いなく。俺は勉強を教えに来ただけなんで」

「本当に真面目な人ねー。ほら、晴人、桜!お姉ちゃんの勉強の邪魔しないようにこっち来なさい!」

「「はーい」」

 

 母親の号令と共に、双子は部屋へと入っていく。

 そして真白台のお母さんは俺に一礼し、扉を閉めて行った。

 隣ではドタドタと足音が聞こえるので、おそらくあの2人がまだ元気を持て余しているに違いない。

 そして俺は、テーブルやテレビが置いてある和室に通されていた。

 どうやらこの二階建てアパートが共通してこの間取りのようだ。

 小さい台所が1つに、和室の部屋が2つ。あとはトイレや風呂場などで、家族4人が住むには少し狭いように感じる。

 アパート自体も外見から想像するにゆうに築40年は超えているようだった。


「…あの、お茶出しますんで適当に座っててください」

「おう、ありがとうな」

 

 そして真白台は段々と元気がなくなっているようだった。

 お盆に乗せたお茶を俺に渡してくれたが、どこか俯き加減でそのまま座り込む。

 決して俺とは目を合わせようとしない。

 そりゃあ、多少気の知れた仲とは言え、急に家まで押しかけたら不機嫌にもなるよな。

 つい弟妹のノリに合わせてしまったが、今更失礼なことをしている自分に気がつく。


「ごめんな、急に押しかけたりして。迷惑だったよな」

「…迷惑なんかじゃ、ないです」

 

 そう言ってくれた真白台は、それでも下を向いて俯いたままだった。


「でも、嫌だっただろ?俺、今日は帰るからーー」

「違うんです!そうじゃ、なくって…あたし…」

 

 彼女が握った拳は少し震えているようだった。

 真白台が何を言いたいのか、何を嫌がっているのか。

 なんとなく分かったような気がした。

 俺は少しお茶を飲んでから、鞄から参考書を取り出す。


「えっと、センパイ?」

「やるぞ、勉強。まずはこれを片付けようぜ?話はそれからだ。昨日の大問2の解説を考えるのに、結構俺も勉強したんだからな」

「…ほんと、変な人ですね、センパイは」

「ん?なんか言ったか?」

「なんでもないです。じゃあ、お手並み拝見と行きましょうか」

「おう、任せておけ」

 

 それからはあっという間に時間が過ぎていった。

 1度集中してしまえば、真白台は驚異的な集中力で問題を解き続ける。

 俺も昨日予習してきた全てを彼女にぶつけた。

 意外と畳での勉強も捗るもので、気が付けば時計はすでにお昼を少し過ぎた時間を指していた。

 いつものように休憩を取ろうとすると、真白台はどこからともなくお弁当を出してきてくれる。

 初日に味をしめた俺は、まんまと彼女の弁当の厄介になっていたのだ。

 今日も本来ならあの市民センターで勉強していたはずなので、当然彼女は弁当を作ってきてくれていた。


「うん、相変わらず絶品だなこの弁当は」

「毎回、大袈裟なんですよセンパイは」

 

 俺が弁当に舌鼓を打っていると、襖が軽くノックされお母さんが新しいお茶を持って入って来てくれた。

 何故かその表情はニヤニヤしている。


「あ、わざわざすいません!」

「いいのよー。で、どう?四宮くん、お弁当は?」

「お、お母さん!」

「ええ、控え目に言って最高です。こんな弁当なら毎日食べたいですね」

「あらぁ!良かったわね、冬香!朝早く起きて作った甲斐があったじゃない!」

「お母さん!!もう良いから!お茶ありがとう!だからもう行って!」

「ええー、お母さんも四宮くんと話したいー」

「良いから!!」

 

 真白台は顔を真っ赤にして襖をぴしゃっと閉める。

 そしてそのまま黙々と目の前の弁当を食べ進める。

 今何かちょっかいを出したらただじゃおかない、そんな雰囲気が滲み出ていた。


「…ぷっ」

「わ、笑わないでください!」

「あはは、悪い悪い!」

「もうっ!全部お母さんが悪いんだから…!」

 

 いつまでも真っ赤な顔の彼女は、クールなイメージとは真逆でなんだかおかしくて、俺はまた彼女を怒らせてしまうのだった。





















「それじゃあ、お邪魔しました」

「本当に何もお構いできなくて、ごめんなさいね。次はお夕飯を用意するから、良かったら食べて行って?冬香の作るオムライスは本当に美味しいんだから!」

「お母さん!!晴人と桜、迎えに行くからあたしも行くから!」

 

 手を振る真白台のお母さんに応えてから、アパートを後にする。

 どうやら気付かないうちに弟妹たちはまた近くの公園に遊びに行ったようだった。

 それを迎えに行く彼女と、一緒に夕焼けの裏道を歩く。


「…色々すいませんでした、センパイ」

「俺の方こそ、急に上がり込んで悪かったな。それにお母さんにまで気を遣わせちゃって」

「母のことは気にしないで下さい。あたしが普段誰かを家に連れて来ることなんてないので、嬉しかったんだと思います」

「まあ、自分の娘が心配なんだろ。なんとなく、気持ちはわかるよ」

 

 俺にも娘ではないが、大切にしている妹がいる。

 妹のこととなると気が気じゃないのは、親娘の関係と少し似ている気がした。


「……嫌、でしたよね」

 

 急に立ち止まった真白台は、俯きながらゆっくりとそう口にする。


「ん?」

「だってあんなボロ屋、居心地も悪くて、クーラーなんか無いですし、狭くて」

「…真白台?」

「びっくりしましたよね。桜陽附属に通ってる生徒が、あんなところに住んでるなんて。クラスの皆にバレたら、絶対に虐められますよ、はは…」

「…………」

 

 ようやく俺は全て理解した。

 何故彼女があの時一瞬暗い顔をしたのか。

 自分の家に俺を招きたくなかった本当の理由を。

 彼女の持っているコンプレックスを、理解した。


「だから嫌だったんです。センパイ、あたしの家を知ったらきっと幻滅する。そしたらもう勉強なんて教えて貰えないって、あたしーー」

「――いい家だったな」

「…えっ」

「確かに狭いけどさ、お母さんも弟妹たちも、めっちゃ良い人だった。それに飯も最高に美味かったしな」

「気休めは、やめてください」

「気休めなんかじゃないさ。現に、今日は今までで一番勉強が捗っただろ?」

「それは!……そうですけど」

「つまりそれは、あの家が最高の環境だってことだ。今度はさ、真白台のオムライス、食べてみたいな。絶品なんだろ?」

「……はぁ。本当、変な人ですね、センパイって」

「おいおい、今は先生だろ?馬鹿にするなよな」

「褒め言葉、ですよ」

 

 そこまで言って彼女はやっとクスッと笑った。

 有名私立に通う特待生の女の子。

 彼女が抱えるコンプレックスはきっと俺が考えているよりも、ずっと大きい。

 俺が勉強を教えることで、少しでも彼女が楽になれればと、素直に思った。































「勉強を教えてる?」

「あれ、言ってなかったっけ?この前ちょっと世話になった礼で、一個下の後輩に勉強を教えてるんだよ」

 

 夜。

 風呂上がりに自室で窓を開けて涼んでいた俺を、急に春菜が訪ねてきた。

 どうやら俺がここ数日、朝から夕方まで急にいなくなるのを不審に思っていたらしい。

 そういえば春菜にはこの事を言っていなかった。

 訳を掻い摘んで説明すると、春菜はますます怪訝な顔をするのだった。


「なんだよ、その顔は」

「…その後輩って、女子なの?」

「そうだけどーー」

「わたしにも、教えて」

「…は?春菜にはいつもテスト前に教えてるよな」

「明日、わたしも一緒に行くから」

「あの、春菜さん?」

「それじゃあ、おやすみ!」

「お、おーい…」

 

 言いたい事だけ言うと、春菜はそのまま部屋を出て行ってしまった。

 一体何で妹が怒っているのかさっぱり分からない。

 やはり俺は真白台と比べても、まだまだ妹の扱いが下手なようだった。

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