第233話

 訓練場は流石の広さだった。百名単位での訓練を想定して作られているらしく、恭弥が知る訓練場のどれよりも設備が整っている。


 そんな訓練場の一角を借り受けた英一郎は、万が一にも観戦をしている塾生に被害が出ないよう結界を張っていた。


 そんな英一郎の様子を目の隅で追いながら、恭弥はいよいよ限界が近づいてきた自らの尿意と戦っていた。


「何よ、さっきからソワソワして? 緊張でもしてるの?」


 栞里はそんな恭弥の様子を見かねてそう尋ねてきたが、恭弥としてはまさか女性に尿意を催していると正直に答えるわけにもいかず、「まあ」とか「そうかもな」とか曖昧な返事をするに終始していた。


 しかしそんな心あらずの対応が癇に障ったのか、栞里は見るからにイライラを募らせていった。


「まだですか、先生!」

「おー今終わったところだ。一応ルールの説明をするぞ。模擬戦だからどっちかが参ったを言ったらそれで決着だ。目突き、金的、その他後遺症が残りそうな攻撃はNGだから気をつけるように。お互いルールを守って爽やかに模擬戦をしましょう。用意はいいか?」


 英一郎は煙草に火をつけながら双方に確認を取ると、「はじめ!」と言った。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前。霊獣召喚! 来なさい、クロコ!」

 栞里は九字を切り、式神を封じていた管である口紅の容れ物から全身真っ黒の巨大な狐を召喚した。


 人の身を遥かに超える巨体であるクロコは、なるほど一般人からすれば称賛されて然るべき存在だったが、相手が悪かった。


「よりにもよって管狐かよ。ハク、悪いけど格の違いを教えてやってくれ」

「かしこまりました」


 栞里とは違い、九字を切る事すらせずに名を呼ぶだけで現れた悪行罰示神であるハクは、トコトコとクロコに近寄るとビシっと人差し指を指して「お座り」と言った。途端、


「な……!」

 クロコはその巨体をビッタリと訓練場の地面に付け、お座りの姿勢を取った。

「ちょ、ちょっと、何やってるのよクロコ? 戦いなさい!」


 そうは言うものの、クロコは召喚者である栞里の命令を聞く素振りはなかった。どころか、ハクからの追加命令である「お手」をやっている始末だった。


「知らないみたいだから教えるけど、式神ってのは強いやつの言う事を聞くんだ。ハクは狐系の式神の中じゃ最強に近い。だから、君の言う事を聞かないんだよ」

「そんな……ズルよ! あんたの式神がそんなに強いなんて言ってなかったじゃない!」


「聞かれなかったからな。わかったら参ったしてくれ」

「くっ……式神勝負では負けたけど、本人同士はやってみなきゃわからないわ!」

「まだやるのかよ……なるべく身体動かしたくないんだけどなあ」


 黙っている分にはいいが、身体を動かしてしまえば膀胱が刺激されてしまう。そう思ったのだが、栞里はやる気満々のようだった。


「先生、木剣を貸してください!」

「あいよー。狭間はどうする?」

 英一郎はすでに用意していたらしい木剣を栞里に手渡しながらそう聞いた。


「俺はいいです。てか、英一郎さん。こうなるのわかってて用意してたでしょ?」

「さて、どうかな? まあ、いい機会だし付き合ってやれよ」

「まったく……どこからでもかかってきていいぞ」

「……あくまで格下を相手にするって言いたいのね。いいわ、後で吠え面かいても知らないんだから!」


 横ではハクがクロコを可愛がっていた。常ならばご主人様を守るなどと言って前に立つ場面だろうに、ハクの中では栞里は敵とすら認識されていないようだった。


 真剣に勝とうとしている栞里には悪いが、実際、どう転んでも恭弥が負ける事はないだろう。


 様々な格上との戦闘経験。実戦を想定した日々の修練。どれをとっても恭弥は栞里と比べ物にならないほどのものを積んでいる。


「構えなさいよ! まさか、構えるまでもないって言うつもり?」

「いや、まあ実際そうなんだけど……これでいいか?」


 ポリポリと頭を掻いた後、それっぽくファイティングポーズを取る恭弥。しかし、どこから見てもやる気が感じられなかった。それが一層栞里の感情を逆撫でする。


「ムキーッ! どこまでもバカにしてえ!」

 まさか現実に「ムキーッ!」などと声に出す人間がいるとは思わなかった恭弥は、思わず吹き出してしまった。その隙に栞里が一気に距離を詰め、上段から大振りの一撃を振るう。


 が、何もかもが遅かった。恭弥がこれまでに相手をしてきた者達は、来るとわかった時にはすでに攻撃が終わっていた。


「一つ、いい事を教えてやるよ」

「なによ!」


 大振りの一撃をひょいっと避けた恭弥は、闇雲に木剣を振るう栞里に講義を始めた。


せんせん、って言葉があるだろ? 格上を相手にするなら、相手の動きの更にその先を読んで動かないと勝ち筋は見いだせない。例えば、こんな風に――」


 横振りの動きの「先」を読んだ恭弥は、実際に木剣が動かされるその前に柄を抑え込んで栞里の攻撃そのものを封じ込めた。


「なっ……!」

「君が横振りの攻撃をすると読んで、俺はその動きの先を抑えたんだ。勉強になっただろう? さあ、終わりだ」


 恭弥は渾身の左フックを栞里の顔面に打ち込む…………寸前で寸止めした。

 ぶわり、と拳圧によって巻き起こった風が栞里のツインテールを揺らした。


「そこまでだな。勝負あり! 勝者は狭間って事で、はい皆拍手ー」


 英一郎のやる気のない拍手に続いてクラスメイト達がパチパチと拍手を鳴らす。観衆の様子をチラリと伺うと、意外にも桃花が薄い笑みを浮かべて拍手をしていた。


 完膚なきまでに、という言葉が付くほどに敗北を喫した栞里は、地べたに座り込んでブツブツと独り言を言っていた。そんな彼女の様子を見て、恭弥は英一郎にこう耳打ちした。


「英一郎さん、彼女のフォロー頼みますよ。面倒が嫌なんで目立つ形で倒しちゃったから、彼女、相当落ち込んでるっぽいし」

「わかってるよ。最初からそのつもりだ。心配しないでも俺の方から現役に喧嘩売るのは止めるようこの後言うつもりさ。お前らもそう何度も付き合ってる暇ないだろうしな」


 妙だとは思ったのだ。入塾初日に現役退魔師同士、それも明らかに勝敗がわかっている勝負のためにわざわざ訓練場の使用許可を出すなどおかしな話だ。


 英一郎は最初から御三家に必要以上に対戦の申込みがいかないよう、見せしめとして皆の心を折るために栞里を利用したのだ。


「嫌な大人だなあ。俺達はアイドルでもなければパンチングマシーンでもないんですから、ほんと頼みますよ」

「お前らみたいな厄介者を預かる俺の身にもなれ。少しは楽しようと思ってもバチは当たらんだろう。わかったらとっとと行け。あまり俺と親密そうにしててもお前の嫌いな面倒事がやってくるぞ。ほれほれ、ふー」

「あ、ちょっと! 煙吹きかけないでくださいよ。大人げないなあ」


 文字通り煙に巻かれた恭弥は、栞里の側を通って桃花の元まで移動しようとした。


「……す」

 その際、栞里がボソボソと何かを言っていたので気になって耳を傾けてみると、

「コロスコロスコロス……」

(マジかよ……完全に恨まれちゃってんじゃねえか。頼むぜ英一郎さん……)


 恭弥は聞こえなかったふりをして桃花と文月の元へと行った。ちなみに、薫はどうやったのかすでに友達を作ったらしく仲良く談笑していたので輪には入れそうになかった。


「お疲れ様です。流石ですね」

「お飲み物です。どうぞ」

「せんきゅ、文月。流石も何もないさ。いくらなんでも実力が違いすぎた」

「いえ、相手を煽る手腕の事を言っているのですよ」

「あ、そういう事ね……」


「しかし、貴方が目立ってくれたおかげで今後わたくしは楽をできそうです。あれを見て、挑もうなどと思う者はそういないでしょう」

「だといいけどな。でも、流石に派手にやりすぎたかもしれん。さっき近くを通ったら呪詛吐いてたよ。彼女には悪い事をしてしまった」


「心にもない事を」

「対象の俺を少しは労ってほしいもんだね」

「さっき労ったでしょう」

「さいですか。ま、後で英一郎さんが上手く言ってくれるらしいし、それに期待だな」

「よーしお前ら、教室に引き上げるぞ。おじさんについてきなさい」


 恭弥達は再び英一郎の先導に従って教室へと戻っていった。

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