第206話

 午前の修行が終わり、昼食を摂り終えると束の間の休息が訪れる。恭弥は自身のベッドで文月にマッサージを施してもらっていた。


「打ち身がありますが、やはり身体が子供のものだと関節が柔らかいですね」


 文月はそう言って腕の筋をゆっくりと伸ばしていく。自分ではなかなか伸ばす事の出来ない箇所の筋が伸びていくのが心地よかった。


「英一郎さん容赦ないからなあ。なんでも自分の身に何かあった時は俺に石下灰燼流を繋げてほしいんだってさ」


「それは責任重大ですね。でも、石下灰燼流を身につける事が出来れば恭弥様は今よりもっと強くなれるのでしょう? そうすれば、死ぬ確率も下がるのでは?」


「どうなんだろうな。強くなればそれだけ強大な妖の相手をさせられる気がしないでもないけど……ま、いざという時の選択肢が増えるのはいい事だ」


「ところで、英一郎さんは記憶を引き継いでいないのですよね」


「そうみたいだ。まだ若いのに相変わらず煙草バカバカ吸ってるよ」


 文月はくすりと笑うと、「この頃からヘビースモーカーなんですね」と言った。


「文月も英一郎さんに会ってみるか?」


「どうしましょう……お会いしても、あまりお話しする事がないような……」


「そういや前の世界からあんま絡みなかったもんな。これを機に仲良くなってみたらどうだ? あの人はかなり頼りになるぞ」


「そうですね。今度お家を訪れた際に声をかけてみます。見える範囲の処置は終えましたが、まだどこか気になる所はありますか?」


 話しながら、文月は恭弥の手足の筋を伸ばし終えていた。打ち身には湿布も貼っている。修行後のケアとしてはおよそ完璧な形だった。立ち上がって身体を確認してみるが、やはり気になる所はどこにもなかった。


「いや、完璧だよ。いつもありがとう、文月」

「いえ、私に出来る事なんてこのくらいの事ですから」


「そうだ。もう少ししたら光画さんが家に来てティータイムのマナーを教える事になってるんだけど、よかったら文月も参加しないか?」


「私も、ですか? 嬉しい申し出ではありますが、いいんでしょうか……?」


「そんな形式張ったものじゃないからたぶん大丈夫だよ」

「では、参加させていただきます」


 それから暫しの間部屋で雑談をしていると、アリスが光画の到着を告げに来た。


「光画さんがきたわよー。坊っちゃん、お庭に準備してあるので向かってちょうだい」


 ティータイムのマナー指導は庭で行われるようだった。いつの間に用意したのか庭の一角に白い椅子とテーブルのセットが置かれていた。


「イギリス映画のセットかなんかみたいだな……」


 思わずそう呟きたくなるほどにこの一角はイギリス然としていた。テーブルの上に置かれたケーキタワーにはサンドイッチや焼き菓子、フルーツが乗っているし、アリスさんと文月はいつもの事としても、側に控える女中達もメイド服に着替えている。


「やあ恭弥君、スーツ姿似合っているね」


 そう言った光画はいつかの交渉事の時のような焦りは微塵も感じさせない大人の余裕に満ちていた。


 狭間家と天上院家の繋がりが確約され、優司の庇護下に入ったという安心感がそうさせているのだろう。事実、風の噂だが天上院家は最近随分と羽振りがよくなっているらしい。


「よしてくださいよ。こんな成りでスーツを着ても服に着られてる感が出てるだけです」


「そうでもないさ。君は歳の割に貫禄があるからね、立派にスーツを着こなしているよ」


「そうですかね?」


「そうとも。時に、文月を連れているようだが参加させるつもりかね?」


「はい、今日はそんなに肩肘張ったものじゃないって聞いてたので連れてきたんですけど」


「そうだね。せっかくだから、文月も席についてマナーを学んでいきなさい」


 光画はティータイムにおけるマナーを説明していく。肩肘張ったものでないと言っていた通り、マナーの大半が相手に恥をかかせないようにするためのものらしい。


 相手の事を思い、相手に合わせて事を運ぶ。どこか日本の茶道にも通ずるところのあるそれは、自然と恭弥の中に入ってきた。


「さて、講釈はこの辺にして実際にやってみようか」


 そう言って光画はメイドに合図をした。白いティーカップにキャラメル色の液体が満たされていく。香ばしいようで、甘くも感じられるこの匂いは――。


「ダージリンですか?」


「おや、恭弥君は紅茶に詳しいのかな? その通り、ダージリンだよ」


「結構当てずっぽうに言ったんですけどね。当たっててよかった」


「夏摘みのものでね、よく嗅ぐとマスカットのような匂いがするだろう」


 匂いを嗅いでみると、なるほど確かにマスカットのような匂いがしないでもない。先程甘く感じられた匂いの正体はこれのようだ。


「美味しい……芳しい香りが口いっぱいに広がりますね」


 文月は早速指導された事を実践したらしい。ソーサーを胸元まで上げて、紅茶を楽しむ。一見すると無駄にも思えるこの動作も、マナーの一つである。


 元来ティータイムには食器と紅茶の色のハーモニーを楽しむ文化があったらしい。従って、カップとソーサーをよく見えるように持つ事で、もてなしてくれている相手に敬意を払っている事になるのだ。


「その調子だ。文月は実践してくれたようだが、恭弥君はどうかな?」


 試すような物言いに、恭弥もまた指導された事を実践する事にした。


 文月は用意された紅茶の味について言及した。同じ事をするのも芸がないだろう。となれば、残されたのは食器と紅茶のハーモニーについて言及する事だ。


 恭弥は文月同様ソーサーを胸元まで上げてカップを傾けた。そして、それと気づかれない程度に紅茶の色味と食器の色味を見比べた。


 ティーカップは白を基調にしているが、ところどころ金の装飾が入っている。それはソーサーも同様だった。取り立てて言及するようなところはないように思えたが、


「華美過ぎない装飾を引き立てるダージリンのコントラストが爽やかな気持ちにさせてくれますね……こんな感じでどうですか?」


 恭弥には芸術的センスがないのでそれっぽい事を適当に言ってみたのだが、光画の反応を見るに案外外れという訳でもないらしい。


「まあ、及第点はあげよう。大事なのはもてなしてくれた人の気持ちに報いる心だからね」


「正直よくわかんないですけど、こんな感じでいいなら、まあ……」


「教える私がこんな事を言うのもなんだが、よく茶道で出されたお茶に対して結構なお点前ですと言うイメージがあるだろう?」


「あれ誤解らしいですけどね」


「そう、これも同じようなものだ。もてなしの心に対して感謝が述べられるのなら、言葉などなんでもいいのだよ。そう考えれば、難しいものでもないだろう?」


「美味しいですを上手く言い換えればいいって事ですよね。なら大丈夫です」


「そういう事だね。とはいえ、ティータイムと言って自らの成金具合を見せびらかしてくる輩もいる。大抵そういう輩はきらびやかに装飾がなされた金のカップやソーサーを持ち出してくるんだが、その時はまあ、豪華ですねとでも返しておけばいい」


「マナーもへったくれもなさそうな輩だ」


 光画は大仰に頷いた。きっと過去にそうした場に招かれて苦労したのだろう。


「さて、マナーを学んだところで楽しいティータイムといこうか」


「待ってました! ちょうど小腹が空いてたんですよね」

「こらこら、ちゃんとマナーは守ってもらうからね?」

「うげえ……」


 やはりこうしたマナーを要求される場は慣れない。せっかく美味しいケーキが食べれると思ったのに、なんて考えていると、


「うふふ。大丈夫ですよ、普段通りちゃんとしてればお父様もうるさくは言いません。ね、お父様?」


「それはどうかな? 案外私は厳しいぞ?」

「お手柔らかに頼みます……」


「あらあら、そんな事言って光画さんだって昔はとんでもない事してたじゃない。私ハンバーガーをナイフとフォークで食べようとする人なんて初めてみたわよ。他にも――」


 見かねたアリスが援護に入ってくれた。男女の仲でしか知り得ない情報を暴露しようとしている。


「お、おい! 勘弁してくれ……」

「ははは! 光画さんにもそんな時があったんですね」


「昔の話だよ。今は違う。それに私はマナーをだな……」

「坊っちゃんをいじめたらまだまだ出てきますからね」


 サラリと言い放ったアリスに対して光画は縮こまって「ま、まあ楽しくやろうか」と言った。


「光画さんのお許しも出たし、楽しくやろう!」

「ですね。やはり私もその方がやりやすいです」


「ああ……優司さんになんて言い訳すればいいんだ……」

「大丈夫よ。マナーはちゃんと学んだんだから」


「そうは言ってもだな、私にも恭弥君を教育するという責任が――」


 そんなやり取りを物陰から静かに眺めている存在がいた。彼はクスリと笑うと再びその姿を物陰へと隠した。

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