第200話
優司がフロントで受け取った鍵をエレベーターのドア開閉ボタンの下にある鍵穴に差し込んだ。パネルが開き、本来地下2階までしか行けないところを5階まで行けるようになった。優司は迷う事なくB5階のボタンを押すと、パネルを閉じて鍵を抜き取った。
グングン加速していくエレベーターはさして待つ事もなく目的の階に到着した。
扉が開くと、短い廊下を挟んでまた扉があった。カードキーと暗証番号を必要とするタイプの電子ロックがつけられた扉だった。
優司はカードリーダーにカードキーをスキャンさせると、暗証番号を打ち込んで鍵を解除した。
「じゃ、僕は上で待ってるから。話しが済んだら戻っておいで」
「わかった。悪いね」
返事もそこそこに優司は来た道を引き返していった。深呼吸一つ、妙に重たく感じるドアノブを下に引く。扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは光だった。どういう仕組みなのか、地上であると錯覚するほどに太陽光の明るさが感じられた。
眩しさに目が慣れてくると、目的の人物が見えてきた。彼女はだだっ広い空間で一人禅を組んでいた。
「千鶴さん。俺がわかりますか?」
「……来てしまったのですね。わかりますよ。恭弥」
恭弥は未だ禅を崩さない彼女に向かってテクテクと歩きながらこう言った。
「まるで来てほしくなかったみたいに言うじゃないですか。一体何があったんですか?」
「人一人の矮小さに打ちひしがれてるだけですよ」
包み込むような優しさを持っていた彼女が、どういう訳か今はすっかりスレてしまっている。その理由を探るべく、恭弥は彼女の眼前に腰を下ろした。
「ここを出る気はないんですか?」
「出たところで、私に出来る事などありませんから」
「……本当に、何があったんですか。父さんが言うには巻物を見たらしいですけど」
「運命からは誰も逃れられない、というだけの話です。ところで、美智留さんはまだ無事なのですか?」
「え? ええ、まあ。今年一年お務め停止してもらったんで妖に取り憑かれる事はもうないと思いますよ」
そう言った恭弥に対し、千鶴は吐き捨てるように「学んでいませんね」と言った。
「桃花さんの事であれだけ苦労したというのに、恭弥は何も得ていません」
あんまりな決めつけ方に少しムッとしたが、簡単に手折れそうなほどに儚げな様子をまとう彼女の様子に、恭弥は何か言い返す事が出来なかった。
「……機嫌が悪いみたいなので、出直します」
立ち上がり、去ろうとした恭弥の背に千鶴は声をかける。
「因果はその程度の事では変わりませんよ」
振り返る。依然、千鶴は禅を組んだままだった。
「どういう事ですか?」
「今にわかります」
意味深な言葉だったが、恭弥は追求する事なく部屋を後にした。
地上に戻ると、優司が退屈そうに小説を読みながら煙草を吸っている姿が目に入った。眼前の灰皿には吸い殻が4本ほど押し付けられていた。思ったよりも待たせなかったようだ。
「おかえり。千鶴ちゃんとの再会はどうだった?」
優司は煙草を咥えたままこちらを見る事なくそう言った。
「感動的な再会だったよ。言外に、なんで来たんだって言われちゃった」
「そうか。それは残念だったね。想い人にフラレてしまった恭弥君は、これから彼女にどうアプローチするつもりなんだい?」
「どうもこうもないさ。俺に出来るのは足繁く通って
「なるほど。となれば、少なくとも後数回は僕も付き合う必要があるみたいだ」
「父さんには悪いけど、そうなりそうだ。だけど、本当に千鶴さんに何があったんだ。あんな人じゃないはずなんだけど……。父さん何か知らない?」
「少し反則だけど、可愛い息子のためにどうして彼女が地下に籠もってしまったのかくらいは教えてあげようか?」
「ぜひ聞きたいね」
「数年前、彼女は古庫裏婆の討伐に赴いた」
古庫裏婆の名を聞いた瞬間、彼女の身に何があったのかある程度想像がついてしまった。
「討伐自体は簡単に出来たらしいけど、古庫裏婆は人間の子供を育てていたんだ」
――ああ、やっぱり。
そこから先の話は以前千鶴本人の口から聞いた事と寸分違わず同じだった。つまり、千鶴は二度その子供を殺したのだ。
優しい彼女の事だ、記憶を引き継いでいるのならばなんとかして子供を救えないかと抗ったはずだ。にも関わらず、結果は変わらなかった。
人間端から出来ないとわかっているとそれほど落胆しないが、出来る「かも」しれないという状況で失敗すると酷く落胆するものだ。きっと千鶴は自らの無力を呪って地下に籠もってしまったのだ。
「だからあんな事を言ったのか……」
だが、理由がわかれば切り崩す事が出来るかもしれない。伝承では、神々が楽しそうにしているところを覗き見るために天岩戸は開かれた。それを参考にして、という訳ではないが千鶴に外の楽しさを思い出してもらえれば扉は開かれるかもしれない。
今の彼女はトラウマを刺激されて悲観に暮れているのだろう。優しさは返って毒になる。
「いい顔だ。男の子はそうじゃなくっちゃね。さて、帰ろうか。今日は文月ちゃん達は帰ってこない。久しぶりに親子水入らずで過ごそう」
「一応天城がいるけどね」
「ああ、そうだったね」
――因果はその程度の事では変わらない。この言葉の意味を恭弥が理解したのは、それから一週間後の事だった。
昼時、健やかな惰眠を貪っていたところ、神妙な顔をした文月に揺り起こされた。いわく、重要な話しがあるから起こしてきてくれと優司に言われたらしい。
嫌な予感しかしなかったが、急いで優司の待つ私室に向かうと、彼は柄にもなくため息混じりに紫煙を燻らせていた。その表情は酷く疲れ切ったものだった。
「……どうしたの?」
「ああ、恭弥か……」
恭弥が部屋に入ったのすら声をかけるまで気付かなかったらしい。退魔師がそんな事で大丈夫かと思ったが、彼の様子を見るにそれほどまでに重大事なのだろう。
「マズい事になった。明彦が妖に取り憑かれて再起不能になっている」
「……治せないの?」
「方方駆けずり回ったみたいだけど、駄目だ。今回は相手が悪い。よりによって神に取り憑かれてしまったらしい」
「神憑きか……どんな神なの?」
「夜雀は知ってるかい?」
「山道で人を迷わせる程度の妖だよね? 神じゃなかったはずだけど……」
「半分正解で半分間違いだ。和歌山地方ではそうはなってないんだ。夜雀に取り憑かれている間は狼が魔物から守ってくれる事になってる。明彦が憑かれたのはそのタイプだ。ところがその狼が問題だったんだ」
「まさか、犬神?」
「そうだ。しかも夜雀に取り憑かれた状態で犬神にも取り憑かれてしまったものだから解呪が容易に出来ないみたいなんだ」
「憑かれてどのくらい経ってるの?」
「三日だ。すでに明彦の四肢には犬の毛が生え始めてるらしい。この分だと意識もその内持っていかれるだろう。はっきり言って、打つ手なしだ」
無性に煙草が吸いたかった。やるせなさが身体を支配している。どうしてこうなるのだろう。桃花と神楽から母親を奪わせないために行動したというのに、代わりと言わんばかりに運命は彼女達から父親を奪おうとしている。なぜ素直に幸せを享受させてくれない?
まるで運命が恭弥達に苦しめと言っているようだった。
千鶴に言われた言葉がうるさいくらいに頭の中で繰り返し再生された。
――因果はその程度の事では変わらない。
きっと千鶴はこうなるのがわかっていて言ったのだろう。美智留が取り憑かれないという事は、代わりに誰かが取り憑かれる。当たり前の事だった。
「僕としては、意識まで持っていかれる前に逝かせてやろうと思ってる」
「そんなの、駄目だ……」
「抗うつもりかい? 恭弥に何が出来るっていうんだ。返って明彦を苦しませるだけかもしれない」
父の言葉は厳しかった。自分が行ったところで、何も出来ない可能性の方が高い。だけど、このまま何もせずに諦めるのは違うような気がした。
「諦めたくない。せっかく掴みかけた幸せなんだ」
優司は黙って紫煙を燻らせた。迷っているようだった。優司にしても、友人は失いたくなかった。ただ、立場がわがままを言う事を許さないだけだ。
「父さん、俺に抗うチャンスをくれ……!」
優司は大きく煙を吐き出す。煙草の煙が目に染みた。それでも、恭弥は優司から目を逸らさなかった。
「……一つ、約束してほしい。明彦が望まなかった場合は諦めるんだ」
その言葉は、承諾以外の何者でもなかった。
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