第178話 ※閲覧注意

「やめないよ。君が特別大切にしている椎名桃花を殺してみようじゃないか。君はどんな反応をするかな?」


 冥道院は醜い巨大なトンボ型の蟲を祝姫から出すと、無防備に佇む桃花に差し向けた。


 強靭なトンボの顎が桃花の白く美しい腕に噛み付いた。蟲はギチギチと耳障りな音を鳴らすと彼女の腕を噛みちぎってしまった。


 耳をつんざくような悲鳴が上がった。だが、蟲は止まらなかった。いつの間にか増えていた二匹目の蟲が一匹目と協力して桃花の両足を噛みちぎる。


 見るに耐えなかった。恭弥は思わず目を逸したが、冥道院がそれを許さなかった。


「ダメだよ。君が生んだ結末だ。しっかり見ないと」


 桃花のシミ一つない美しい白肌は今や赤く染まっていない部分を探す方が困難だった。それほどまでに彼女は蟲に食われていた。


 そして遂にその時は訪れる。蟲が彼女の首を噛みちぎったのだ。蟲は桃花の頭を足で抱え込んだかと思うと、地面に倒れ伏す恭弥の元まで運んできた。


 絶望に満ちた表情で生を止めた桃花の頭がポトリと落ちてきた。限界まで見開かれたルビーを思わせる紅い瞳と目が合ってしまった。


「うわああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 恭弥の意識は桃花の瞳に吸い込まれていった。自分と他者の境界が薄れていく。自分が誰で、どこにいるのかがわからなくなっていく。


 ドロドロに混ざりあったスープのようになった意識が、不意に自分であると自覚出来る瞬間が訪れた。


 児童館にいた。ここにいる子達は皆、学校が終わって家に帰っても親がいないから、両親が帰ってくるまでお友達同士で遊んで時間を潰すんだ。


「きょうや君もいっしょに作ろう!」


 お友達の一人がブロックの入った箱を持ってきた。ブロック遊びが許されている場所に中身を全部ぶち撒けると彼はそう言った。「僕」と彼の他にもお友達がいた。全部で三人だ。


「おっきなおしろ作ろうよ!」

「うん!」


 僕はそう言って頷くと、三人で協力して大きなお城を作り始めた。だけど――。


「あ、ママだ!」


 お友達は皆迎えに来てくれたママと一緒に帰ってしまった。でも、僕には迎えに来てくれるママもパパもいない。


 悲しかった。僕は意地になって一人で立派なお城を完成させた。気がつくと、児童館には誰もいなかった。僕は泣きながらせっかく作ったお城を壊すと、もう一度作り直し始めた。


 僕には何もない。だって初めから僕という存在は目的のためだけに生み出された存在だったんだから。


「嘘つき。わたくしのために生きるのではなかったのですか」


 死んだはずの桃花が「俺」に向かってそう言った。とても機嫌が悪そうだった。細い眉が驚くほどつり上がっている。


「う、嘘じゃない! 俺は桃花のために頑張って……!」

「じゃあどうしてわたくしは死んでいるんですか?」


 つかつかと歩み寄ってきた桃花は、俺に掌を差し出させるとその上に自らの頭を落とした。ポトリ、と情けない擬音が聞こえてきそうなほどに呆気無く、桃花の頭が落ちた。


「う、うわああああああああ!」


 俺は思わず桃花の頭を手から落としてしまった。桃花の頭が、豆腐でも落としたかのようにグチャグチャに砕けてしまった。気が動転した俺は桃花だった物をかき集めた。


「こっちですよ。こっちです、恭弥さん」


 神楽の声が聞こえてきた。声の方を見ると、真っ暗闇の空間の中で、そこだけ光が差していた。俺は救いを求めるように時折転びながら光に向かって走っていった。


「神楽!」


 光を抜けると、私服姿の神楽の姿があった。俺はあまりの出来事の連続に、神楽に抱きついてしまった。彼女の柔らかい胸が俺の顔を優しく抱きとめてくれた。


「神楽……神楽……神楽!」


「はいはい。あなたの神楽ですよー。どうしたんですか、そんなに慌てて?」


「桃花が……桃花が!」

「姉様がどうかしたんですか?」


「桃花が死んじまったんだ! 冥道院の野郎にやられて……頭が、首からポトって……!」


「姉様が? そんなはずないですよ。だって……」


 ――姉様は私が殺したんですよ?


「え……?」

「ほら、見てください」


 神楽が指差す方を見やると、そこには心臓を燧に刺し貫かれた桃花の姿があった。焼け爛れた顔でこちらを見ている。ルビーを思わせる紅い瞳が恭弥を射抜くように見つめていた。


「あ、ああ……そんな…………!」


「……やっぱり。恭弥さんは姉様の心配ばかりする。私の事はちっとも心配してくれないんですね」


 再び神楽の方を振り返った時、彼女は醜い芋虫の身体になっていた。うねうねと蠢く節足で俺の身体撫でて、身体から分泌されている緑色の粘液が俺の身体を汚した。


 俺は半狂乱になって神楽の身体を殴りつけた。深くめり込んだ拳が、彼女の身体を傷つけた。返り血ように吹き出した緑色の粘液が身体を汚す。


「ぎょおやざ……」

「やめろ! 来るな!」

「どおじで……」


 俺はまた走った。ここは先程までの真っ暗闇とは違う。見慣れた街並みだ。あの人なら、千鶴さんならきっとこの状況をなんとかしてくれるはずだ。そう思った俺は全力で家目指して走った。


 そうしてたどり着いた我が家には、願い通りの人物がいた。いてくれた。彼女は常のようにソファに寝そべってせんべいをかじりながらテレビを見ていてくれた。


「千鶴さん!」

「どうしたのですか、恭弥。そんなに慌てて」


「おかしいんです! 皆狂ってるんです! いや、狂ってるのは俺かもしれない……とにかくめちゃくちゃなんです! 桃花も死んで、神楽も蟲になった。俺達は協会で戦ってたはずなのに!」


 俺がそう言うと、千鶴さんはとても不思議そうな顔を見せた。


「コンビニにアイスを買いに行ったのではないのですか? それに桃花? 神楽? 誰の事ですか? ……あ、わかった! 私のお願いしてたアイスがなかったから誤魔化してるんでしょう?」


「何言ってるんですか! 冥道院の奴ですよ! 何かの術に違いない!」


「もう、訳のわからない事を言わないでください。胎教に良くないですよ。私のお腹には私達の赤ちゃんがいるんですから。もっと大事にしてください」


「あれ……?」


 ふっと、左手の薬指を見てみると、そこには銀色に輝く指輪が嵌められていた。千鶴の薬指にも同様の物が嵌められている。それを見た瞬間、頭のモヤが晴れた。同時に、これまでの千鶴との結婚生活を思い出した。


「そうだ……俺達結婚してたんだ。変だな……俺、どうしちゃったんだろう?」


「熱中症にでもなったのではないですか? 今日も暑いですからねえ。ちゃんと水分補給してください。ダメダメなパパでチュねー」


 そう言って自らのお腹を撫でる千鶴の姿を見ていると、どうしようもないほどに愛おしさがこみ上げてきた。俺は彼女の隣に腰を下ろすと、千鶴がそうしたように彼女のお腹を撫でながらこう言った。


「しっかりしないとな。これから生まれてくる我が子のためにも頑張らないと」


「そうですよ。頑張ってくださ――うぅ!」


 千鶴は急にお腹を抑えながらうめき出した。見れば、破水していた。


「生まれそうなのか!」

「きゅ、救急車……!」


 俺は慌ててスマホを手に取ると、119番にかけた。しかし、返ってきたのは自動アナウンスだった。なぜか電波が繋がらなかった。


「外に出てタクシーを捕まえてくる!」


 家を出てタクシーを捕まえた。急がなければ!


 部屋に戻ると、驚くべき事に千鶴は出産を終えていた。


「私達の子ですよ」


 そこにはメイド服姿の文月が佇んでいた。彼女の姿を見た瞬間、千鶴との結婚生活は夢幻であった事を思い出した。


「どうしてお兄様を見殺しにしたんですか?」


「違うんだ! 俺は光輝さんが殺生石を使ってたなんて知らなかったんだ!」


「知らなかったで済まされると思っているのですか? 恭弥様はあの時、お兄様が石の力を使った事で戦力が底上げされたから勝てたんだと思ってるんです。とても合理的な判断ですね。退魔師らしいです」


「そんな言い方――」


「違うんですか? ではどうして石の力を使ってるとわかった時点で戦うのをやめさせなかったんですか?」


「それは……」


「ほら。結局恭弥様はどこまでも自分が大事なんです。自分にとって大事な人間かどうかを順番付けして、そうじゃない人間はどうなっても構わない」


 ――だからお兄様を殺したんです。


「……だ、誰だって自分にとって大事な人の順番付けくらいするだろう!」


「答えに困ったら逆上ですか」

「あ、う……」


 俺はその場に蹲って頭を抱えた。これ以上何も聞きたくなかった。


「そうやって自分の殻に閉じこもっていれば楽でしょうね。だって自分以外誰も攻撃してこないんですもの」


「本当は誰からも必要とされてないんじゃないですかー? それを認めたくないから一生懸命頑張って、人にいい顔をするんです」


「打たれ弱いからこそ、虚勢を張って強く見せるのですよね。一人称に現れていますよ。本当は『僕』って言いたいのに『俺』って言ってるのがその証拠です」


「どれだけ見栄を張ろうとも心の弱さは守れないんですよ」


「どうして! どうしてそんな事ばかり言うんだ! なんで皆俺に優しくしてくれないんだよ!」


『本心を話さないから』


「話してるさ! 俺はいつだって自分に正直に生きてきた!」


「嘘つき」

 床にへたり込んでいる俺をそっと包み込みながら桃花が言った。


「わたくしのためだけに生きろと言われた時、貴方は本心では自分のために生きたいと思っていたはずですよ?」


「そんな事はない! だって俺の存在理由は桃花を救う事だから……」


「それは貴方の本心ではないでしょう。誰だって他人のためだけになんて生きたくありませんよ」


「じゃあどうしろって言うんだよ! 何もかも捨てて逃げたって、結局ここに戻されるんだぞ! どうしようもないんだよ!」


「逃げ続ければいいじゃないですか」

 いつの間にか桃花は消えて、今度は神楽が寄り添っていた。


「どうせ死んでもやり直せるんだから、満足するまで逃げて逃げて人生を楽しみましょうよ!」


「そんな事……出来る訳ないよ……」

「どうしてですか?」

「だって人が死んでるんだぞ?」


「変な事言いますね。恭弥さんは他人が死ぬのなんてどうでもいいと思ってるじゃないですか」


「そんな事は――」


「ないって言い切れますか? 顔も名前も知らない人間と私達、どちらか一方しか救えない状況に陥った時、恭弥さんはどっちを助けますか?」


「そんなの、決まってる」


「ほら、誰だって命に優劣を付けてるんです。それは悪い事じゃありませんよ。それに、さっき恭弥さん自身が言ってたじゃないですか」


「……俺は逃げてもいいのか?」


 俯いていた顔を上げた時、そこには千鶴さんの姿があった。


「辛い事から逃げたっていいではありませんか。誰だって嫌な事からは逃げてるんですよ?」


「でも、戦わないと何も勝ち取れませんよ」


「そんな事はありませんよ。逃げて逃げて、逃げ続けた先に見えるものだってあります」


「逃げ続けた先に見えるもの……?」

「そうです。ほら」


 千鶴さんが指差す方向には、暖かな笑顔で両手を広げている文月の姿があった。俺は吸い寄せられるように彼女の元まで駆け寄った。子が母を求めるように、一心に彼女の愛情を求めた。文月の折れそうなほどに細い身体をキツく抱きしめる。


「もう、頑張らなくてもいいんですよ。恭弥様は十分頑張りました」


「少し休みましょう。貴方は頑張り過ぎたのです」


「いっぱいよしよししてあげますからね。嫌な事は全部忘れちゃいましょう」


「ここには辛い事なんて何もありませんからね。ただ、身を任せるだけでいいのです」


 文月だったものが桃花になり、神楽になって千鶴さんになった。だけど俺は、その事に一切の疑問を抱かなかった。今はただただ、この温もりが心地良かった。

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