第169話 ※一部性的描写あり。

 翌日、恭弥は再び病院を訪れていた。文月を退院させるためだ。


 いつまでも目の届かない場所に置いておいて、昨晩のようなウィークポイントとさせないためという思いもあったが、一番は慣れ親しんだ自宅に戻す事で元に戻るかもしれないという微かな希望に縋りたかった。


 退院手続き自体は非常にスムーズだった。元から医学的には健康体という事もあり、病院としても健康な患者にいつまでもベッドを使わせていたくないという思いもあったのだろう。それに、退魔師関連という厄介な事案は早くいなくなってほしかったという思いもある。


 そういう訳で、文月は狭間家へと戻っていた。家を見る事で何か反応を示すかも、と淡い期待を抱いていたが、相変わらず彼女は虚空を眺めているだけだった。


 手を引かなければ歩こうとすらしない彼女の手を握り、少しでも記憶の欠片を呼び起こしそうな場所を一緒に見て回る。


 まずは居間。ここで三人一緒にご飯を食べたりいろんな話しをしたものだ。家族としての思い出が沢山詰まっている。


「ここで三人で話しながらご飯を食べたんだよ」


 だが、文月は初めて訪れた場所かのように所在なさげにポツンとしている。


 次は台所。文月が来る前とはすっかり物の配置が変わってしまったこの場所は、彼女がこの家の台所を支配していた証明だ。


「文月の料理が恋しいなあ。最近はずっと出前ばっかりだったからさ」


 調味料や調理器具を触らせてみるが、やはりなんの反応もない。


 次は文月の私室だ。長期間主不在だった割には埃っぽさがない。千鶴が掃除していたのだろうか。よく整理整頓がなされている。彼女らしい部屋だった。


「そういえば、文月の部屋に入るのは初めてだな……ごめんな、勝手に女の子の部屋に入っちゃって」


 あれだけ好きな物を買っていいと言ったのに、私物の類はほとんどなかった。それが一層寂しさを加速させているようで、恭弥は早々に部屋を後にした。


 最後はお風呂場だ。この家の家事を一手に担っていた文月にとって、毎日の洗濯で訪れる洗面所もまた、彼女の色に染められている。歯ブラシの予備や洗剤の在り処なども、彼女に聞かなければわからないほどになっている。


「懐かしいなあ。覚えてるか? 文月が家に来たばかりの頃、俺が風呂に入ってるのに文月が入ってきてさ。千鶴さんにバレバレでめちゃくちゃ機嫌悪かったよなあ」


 やはり、彼女は何も言ってくれなかった。握った手を握り返してくる事も、見つめたその目に恭弥を映す事もしてくれない。


「なあ……なんとか言ってくれよ……? 俺一人で喋ってさ……これじゃ、俺バカみたいじゃん……」


 耐えられなくなった恭弥はポロポロと大粒の涙を流していた。みっともないとは思いつつも、流れる涙を止められなかった。


 光輝の命の代わりに取り返した文月がこんな事では、彼にどんな顔をすればいいかわからないではないか。これではなんのために光輝は死んだのかわからない。


 情けない。情けなさ過ぎて一層涙が出てきた。


「俺が弱いから……こんな事になってるのか……? もっと、誰にも負けないくらい強ければ――」


 不意に、昨晩冥道院と交わしたやり取りを思い出した。


「ここからが本題だよ」

 そう言った冥道院は立ち上がり、ズボンの尻についた砂を手で払った。


「僕はこれまで、白面金毛九尾の狐にお願いする形で母さんを蘇らせようとしていた。けどね、この間の戦いで肉の器を失っちゃったから、どうやらそれは難しそうなんだ。だから、利用する方向に切り替えようと思うんだ」


「……そこまで勘違い野郎だとは思わなかったぜ。お前は神を手玉に取るつもりか」


「僕だって身の程はわきまえてるつもりだよ?」

「神を利用しようとしてる奴がよく言う」


「まあ話しを最後まで聞きなよ。君達の目的は白面金毛九尾の狐を討伐する事だろう。僕は彼女の死骸を使って再受胎を行おうと思うんだ。君には反魂の法って言った方がイメージがつきやすいかな?」


「反魂の法だと? テメエ、どこまで外道に身を落とせば気が済むんだ!」


 命の価値が限りなく低い退魔師にとって唯一といってもいいほどのタブーが死者の再醒だ。


 始まりの退魔師の頃から今に至るまで密かに研究され続けているが、まともな倫理観を持っている人間ならば躊躇するような惨い事を儀式の過程として要求されるので、実際に行ったという話しは耳にした事がない。


 恐らくやった人間は過去にいるのだろうが、話しを聞かないという事はすなわち失敗に終わったか、満足のいく結果にならなかったという事だろう。


「なんとでも。僕は何をしてでも母さんを蘇らせる」


 そう言った冥道院の表情にはある種の決意が滲み出ていた。彼もまた、狭間恭弥同様辿ってきた辛い道のりがあるのだろう。


「君達の目的は彼女を討伐する事だ。そのために僕は出来る範囲で協力する。利害は一致しているんだ。悪い提案じゃないと思うけど?」


 冥道院はニコリと笑うと、「それに」と続けた。


「白面金毛九尾の狐の中には、天上院文月の意識がまだ残っているよ」

「なんだと!」


「今は白面金毛九尾の狐に興味がないから彼女の意識は放置されているけど、いつ気まぐれを起こして消されるかはわからない。君が悩んで時間をかけるほど天上院文月は二度と戻ってくる事がなくなるかもって事さ」


「……お前が俺を騙している可能性だってあるんじゃないのか?」


「君は誰よりも僕の事を理解しているはずだよね? とはいえ、信じるか信じないかは君次第だ。三日後、僕はここにいる。その時返事を聞かせてもらうよ」


 言うだけ言って、冥道院は青い蝶に包まれて消えていった。


 あの時は提案に乗るなんていう選択肢はなかったが、今の文月の状況を見ていると、あの提案がひどく魅力的なものに思えてきた。


「こんな、大の大人が泣いて……ダサイよな。ごめん、すぐ泣き止むから……もうちょっとだけ待ってくれ……」


 どれだけみっともなく涙を流しても、文月はこちらを見る事すらしなかった。


 やがて泣く事に疲れた恭弥は、赤く腫らした目をこすり、再び彼女の手を取って居間へと戻った。


 居間では千鶴がテレビを大音量で見ていた。洗面所で恭弥が泣いていた事を知っているだろうに、彼女はテレビの音で何も聞こえなかったという素振りを貫いた。


一度泣いた事で涙腺が緩んでしまったのか、千鶴の心配りにまた涙ぐんでしまった。慌てて服の袖で涙を拭い、文月をソファに座らせる。


「お昼ごはんはどうしましょうか。文月さんには噛まずとも食べられる物を与えてくださいという事でしたが……」


 今の文月は噛むという行為すら行わない。だが、幸い口に入った物を反射的に飲み込みはするそうなので、喉を詰まらせないようなものであれば食べられるらしい。


「とりあえず、重湯か何かを作ろうかなって。俺達は出前でもいいですよね」


「そうですね。蕎麦を頼みましょうか。私が頼みますよ。恭弥は何がいいですか」


「なんか適当に頼んどいてください。あんま食欲ないんで普段の半分でいいです」


「恭弥……ちゃんと食べなきゃ――いえ、わかりました。文月さんの食事は頼みましたよ」


 台所に立った恭弥は鍋に少量の米を入れて水を多めに入れて火をかけた。塩をひとつまみ入れて、後はゆっくりコトコト煮込むだけで出来上がりだ。なんとも悲しい料理ともいえない料理だが、文月の世話に慣れるまではこれと点滴で栄養を取ってもらうしかない。


「きょ、恭弥!」


 台所で火加減を調節していると、後ろから悲鳴にも似た千鶴の声が聞こえてきた。何事かと思い振り返ると、文月がソファの上で粗相をしてしまっていた。


「やっちまった……」


 退院させる時に排泄も自力では行えないのでおむつを穿かせるようにと言われていたのに失念していた。


「俺がここを掃除しておくんで、千鶴さんは文月をシャワーに入れておむつ穿かせてください。片付けたら洗面所におむつ持ってきますから」


「わ、わかりました!」


 意識がないとはいえ、異性に勝手に裸を見られるのは嫌だろうという判断から千鶴に頼んだが、彼女もあれで大概生活力が皆無だから人の世話が出来るか心配だった。


 そもそも、粗相の掃除をされるのだって嫌なはずだ。本当なら同性の千鶴にお願いしたいところだが、退院させると言ったのは恭弥なのだから、出来る事はやらなければならない。


 幸いにしてソファは革製なので拭けばなんとかなりそうだった。床もフローリングなので、垂れてしまったところを拭いてラグを洗えば問題ない。それよりも、あれだけしっかりしていた文月が赤子のような事をしたという事が哀しくてしょうがなかった。


 それからも哀しい出来事は続いた。着替えを終えた文月に出来上がった重湯を食べさせる時だ。


 やるせない思いを抱きながらスプーンで文月の口に重湯を運ぶが、どうしても口の端から垂れてしまうので、都度ティッシュで拭ってやる必要があった。


 そして極めつけは睡眠だ。突如として倒れるように眠りに入ってしまうので、ぶつけて怪我をしないように常に側に張り付いている必要があるのだ。


 やっと眠ったと思ったら今度は夢遊病患者のように目を覚まして周囲を徘徊する。


 心の休まる時がなかった。認知症を患っている人の方が意識があるだけまだマシなのではと思うほどに文月の介護は大変だった。綺麗事では片付けられない現実があった。


 それでも尚率先して彼女の世話を行おうと思えるのは、そうさせてしまった責任感と、文月に対しての確かな愛情があるからだった。


「やっと眠ってくれましたね……。このまま朝まで寝てくれるといいのですが……」


「俺のベッドで寝かせます。すいませんけど、おむつ代えるのだけお願い出来ますか」


「それは構いませんが……大丈夫なのですか?」


 大丈夫、という言葉には介護の辛さ以上に恭弥の精神的なところを心配した思いが込められていた。


「文月の事でそれ以上千鶴さんに迷惑はかけられませんから。おやすみなさい」


 恭弥は千鶴の返事を待たずに眠りについた文月を横抱きにして二階の自室へと向かった。


 文月をベッドに寝かせ、自身も横になった。スウスウと可愛らしく寝息を立てる彼女を見ていると、とても意識がないとは思えなかった。


「文月をこうさせたのは俺のせいだもんな。俺がちゃんとお世話するから……」

 さらさらと指通りの良い彼女の髪を撫でる。


「待っててくれ……必ず元に戻すから」

 人知れず、恭弥は決意を固めていた。

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