第165話

 ポケットに手を入れた冥道院は悠然と戦場を歩いた。散歩でもするかのような気軽さで怒り狂う白面金毛九尾の狐の側まで寄り、耳元で何事か嘯いた。すると、


「それは本当かえ?」

「ええ、本当ですとも。僕は嘘を言いませんから」


 あれほど怒り狂っていた白面金毛九尾の狐は一転して目を三日月のように細くしてみせた。わかりづらいが、恐らく笑っているのだろう。


「あいわかった。今はお主の言う事をきくとしよう。この場は勝ちを譲るが、次はこうはいかんからな。その時まで精々首を洗って待っておる事じゃ」


 そう言い残すと、二人は青い蝶に包まれて消えていった。


「勝った……のか?」

 二人の気配が消えた事を察した光輝が呟く。


「いや、勝ったとはいえないです……ただ、撤退しただけだ。何があったんだ?」

 呟きに答える形で少々離れた位置にいた恭弥が答える。


(流れはこっちにあったとはいえ、あのままいけば勝てたかどうかは怪しかった……なのに、なぜ撤退した? 撤退するような理由があったのか? 何かがおかしい……)


「恭弥……」

 思考の海に潜りかけた時、不意に肩に手をやられた。何事かと思い振り返ると、そこには神妙な顔をした千鶴の姿があった。

「千鶴さん? どうしたんですか」


 彼女は何も答えず、ただ視線を後ろにやった。そこには、地面に倒れ伏す光輝の姿があった。


「光輝さん!」

 慌てて駆け寄り上半身を抱き起こす。ぐったりと力なく横たわっていた彼の身体は見た目以上に重たかった。


「は、狭間か……?」

 その目はすでに輝きを失っていた。こうして抱き起こしているというのに、恭弥の顔がどこにあるのか見えていないようだった。


「そうです、俺です! どうしてこんな……?」

「文月さんを取り戻した時点で、すでに限界を迎えていたのです」

「そんな……なんで止めなかったんですか!」


「恭弥は血を分けた妹を助け出すために命を懸けようとする者を止められますか?」

「それは……そうだ! 治療は? なんとかならないんですか?」

「もう、手の施しようがありません」


 言葉が出なかった。退魔師として、人の死は何度も見てきた。だが、こんな事は認めたくなかった。


「こんなのって……あんまりだ……!」

「そ、そこにいるんだろ? 狭間……?」

「はい! います!」

「俺達……勝ったんだよな……?」

「それは……」


 最大目的であった文月の奪還は成功した。だが、手放しで勝ったとは言えないだろう。こちらの被害を考えると、むしろ、見逃してもらったといった方が正しい。


「……すまん、もう少し、大きな声で言ってくれないか……?」

 もう、耳もあまり聞こえていないのだろう。


「恭弥、わかっていますね」

 千鶴は、せめて死にゆく者には快く旅立ってほしいという思いからそう言った。

「……はい、わかってます」


 千鶴が文月の身体を抱き起こし、光輝の近くに連れて行く。


「勝ちましたよ! 俺達の勝ちです! ほら、文月も無事だ!」


 恭弥は一度大きく息を吸い、出来るだけ笑顔を作って言った。見えていなくても、感じられるものがきっとあるはずだから。


「そうか……そうか……よかっ……た……」


 それきり、光輝は何も語る事はなかった。最期に見せた表情は、血塗れだが、とても穏やかなものだった。


   ◯


「どういう事か説明してくれるんですよね?」

 稲荷家へと戻った恭弥は傷の治療もそこそこに、三成を問い詰めていた。


「なんの事だ?」

「とぼけんなよ。お前が光輝さんに殺生石を渡したんだろうが」


 三成の胸ぐらを掴み上げる。部屋には恭弥以外にも戦いに赴いた者がいたが、光輝の最期を知っていたため、恭弥の行動を止める者はいなかった。


「それがどうした。あいつが望んだ事だ。私は再三止めたのだぞ、死ぬぞ、と」

「死ぬのがわかっててなんで渡した」


「あいつがそう望んだからだ。私は悪くない。天上院の娘も返ってきたのだ。奴も本望ではないか?」

「テメエ……!」


 恭弥は思い切り三成の頬を殴った。一発では気が済まなかった。二発目を殴ろうと腕を振り上げると、それを掴む者がいた。英一郎だ。彼は万力かと思うほどに力強く恭弥の腕を握って止めた。その表情はゾッとするほど無表情だった。


「……離してくださいよ、英一郎さん」

「やめろ、狭間。これ以上は光輝のやつも望んでない」


「そ、そうだ! これではなんのためにあいつが死んだのかわからな――」

「黙れ。テメエが光輝を語るんじゃねえ。勘違いするなよ、テメエはまだ利用価値があるから守ってやってるんだ。この件が済んだら覚悟しとけよ」


 英一郎は分家の光輝を可愛がっていた。弟分のような光輝を失った彼の悲しみは相当なはずだ。その英一郎が制止したのだから、恭弥にはこれ以上どうこうする権利はなかった。


「ほとほと見下げ果てたよ」

 わざと身体を浮かせてから手を離してやった。ドサリと地面に倒れた三成はこちらを睨みつけながらそそくさと退室していった。


「なぜあのタイミングで撤退したのでしょうか」

 千鶴は自身の腕に包帯を巻きながら誰に聞くでもなくそう問いかけた。


「やっぱり千鶴さんも疑問に思いましたか。女狐の相手するので手一杯だったんで俺はそっちの様子を知らないんですけど、冥道院はなんか言ってましたか?」


 自身の再生能力で傷を再生し終えた恭弥は、英一郎の手当をしながら言った。戦闘に参加した人間の中で、恭弥と神楽だけは再生能力で傷を回復させていた。


「いや、特に何かを言っていた記憶はないな。しかし、最後のあの一瞬まで、全力で戦っている素振りがなかった」


 明彦は折れた肋骨を気にしながら答えた。彼も本当ならば、慶一と高橋同様すぐに病院に搬送されるような重傷だった。しかし、対冥道院チームの年長者としてデブリーフィングのために残っていた。ちなみに、薫は慶一の付添いで病院に行っているのでここにはいない。


「そもそも、どうしてあいつが白面金毛九尾の狐に付き従っているのかがわからないんですよね。母親を蘇らせる云々言ってましたけど、白面金毛九尾の狐にそんな力はないはずです。なんか別の目的があるとみるのが正しいんじゃって感じがします」


「とはいえ、その目的は本人の口から語られない限りわからぬ事です。それに、次からは居場所を特定する事も出来ないのです。暗中模索、一層厳しい戦いになるでしょうね」


 桃花の言葉は今の状況を的確に表現していた。今回は依り代となった文月が付けていたピアスによって居場所を特定出来たが、次からはそうはいかない。何時何時攻めてくるかわからない相手に消耗戦をする事になるのだ。


 力の及ばない相手に消耗戦をする事ほど愚かな事はない。一気呵成に攻め立てなければ、いたずらに戦力を消耗するだけだ。


「最大の好機を逃したのは私の責任です……せめて、竜ヶ石さんを引っ張ってくる事が出来ていれば……」


「千鶴さんのせいじゃないですよ。とにかく今は、傷を癒やす事に集中しましょう。冥道院もすぐに攻めてくるような事はないでしょうから」


「そう、ですね」


 答えらしい答えを得る事が出来ないまま、デブリーフィングは終わった。皆口には出さないだけで疲れていたのだ。


 その晩、恭弥は稲荷家の自身に割り当てられた部屋で、千鶴が協会に向けて書き上げた今日の戦いの顛末をまとめたレポートの写しをぼんやりと眺めていた。


 戦闘前の彼我の態勢に始まり、戦法、戦闘経過、過失、等々綺麗に作法に則って書かれている。千鶴らしいレポートだった。


 中でも、恭弥の目を引いたのは概略と称された部分とそれに続く死傷者リストだった。


『安倍千鶴以下遊撃隊の面々は白面金毛九尾の狐、冥道院を発見し、戦闘を開始。後、協会本部より特別チームが援護に駆けつける。白面金毛九尾の狐の依り代となった天上院文月を奪還する事に成功するが、死傷者多数。白面金毛九尾の狐、冥道院、両妖共に討伐に失敗する。以下、死傷者リスト』


 恭弥が盾にした名も知れぬ退魔師達の名がズラリと並んでいた。何十人と書かれたその中に、光輝の名前もあった。


 ――天上院光輝 死亡。


 あっけない。あまりにあっけない。あれだけ命を懸けて戦ったというのに、このレポートを見た人間はその頑張りを知る事はない。ただ、戦闘に参加して命を落とした退魔師としか扱わない。当たり前の事だが、どうしようもなく胸にこみ上げてくるものがある。


(また、やり直すか……?)


 死ねば、どこの地点に戻るかはわからないが戻る事は出来るのだ。ひょっとしたら、光輝が死なずに済む結果に辿り着けるかもしれない。


(だけど、今回の戦いは光輝さんの功績が大きかった。あの人無しでこの結果に辿り着けるのか?)


 そんな事を考えていた時だった。部屋の戸が控えめにノックされた。


「わたくしです。少しよろしいですか」

「桃花? どうしたんだ、こんな夜遅くに」

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