第126話
夕飯の魚を獲って拠点に戻ると、先に海から上がっていたらしい神楽と小春が火を焚いて待っていた。
「ずいぶん遅かったですねー。どこまで魚獲りに行ってたんですか」
恭弥から魚の入った籠を受け取りながら神楽が言った。
「んー、ちょっと沖合の方までボート漕いでた。海が綺麗だったぞー」
「姉さまも一緒にですか? いいですねえ、私もご一緒したかったです」
「今度機会があればな。そっちはどうだった? 何もなかったか?」
恭弥の問いかけに神楽は指を顎に当てると、
「一応各地で突発的な戦闘が発生してたみたいですよ。ちょくちょく霊力のぶつかり合いみたいなの感じましたし。そろそろ霊札も行き渡ってきた頃だと思います」
「そうか。巻き込まれなかったのはラッキーだな。まあ、霊札集めてないし、当然だけど」
実際は、昼に行われた桃花と神楽の戦闘を見て近づくのは危険だと判断したためだったが、そんな事は恭弥達が知る由もない。
焚き火を囲むように座ると、その辺にあった岩を切って作ったまな板で魚の内蔵を取っていく。そして、内蔵を取り終わった魚を隣に座る桃花に渡していく。
恭弥と神楽が内蔵を取る役割なのに対し、桃花と小春は先に神楽と小春が用意してくれていたらしい串に獲ってきた魚を刺していく役割だった。
魚を桃花に手渡す際、どうやっても互いの手が触れてしまうのだが、彼女はそれが気になるようだった。そんな僅かな常との違いを野生的な勘で目聡く気付いたのが神楽だった。
「……姉さまと何かあったんですか。随分よそよそしい感じがするんですけど」
こういう時の神楽は実に恐ろしい。元から恭弥に色目を使う女を威嚇する癖があったが、それは自身の姉が相手であっても同様だった。口では疑問を呈しているが、彼女の中で何かがあったと確信しているだろう事は明白だった。
「な、なんもないぞ? ただボート漕いで夕日見てただけだ。なあ、桃花?」
桃花ならば口裏を合わせてくれるだろう。そう思って彼女に会話を投げかけた。しかし、返ってきた言葉は神楽を刺激するのに十分過ぎるものだった。
「さて、どうでしょう。案外キスの一つでもしていたかも……」
「お、おい桃花! 何言って――」
「姉さまとキスしたんですか」
神楽の顔が視界いっぱいにあった。彼女は音もなく恭弥に急接近すると、互いの吐息すら感じられるほどの距離でそう問いかけた。視線すら逸らす事は許さない。言外にそんな意思が感じられた。
先程まで魚を刺すのに利用していた串が手に握られているのが一層恐怖心を煽った。
「し、したような……してないような……」
しどろもどろにはっきりとしない言葉を発する。ギョロリとした神楽の大きな瞳で見つめられると、蛇に睨まれた蛙のように心臓がキュッとなり、冷や汗が止まらなかった。
そもそも、桃花がどのような意図であんな事を言ったのかわからない限り真相を話していいものかどうかすらわからない。
助けを求めようと、隣に座る桃花に顔を向けようとしたら、神楽が魚を触った手で強引に顔を固定してきた。魚の生臭い匂いが鼻についたが、今はそれどころではなかった。
「したんですね? キス」
「い、いやあ……どうだったかな……?」
煮え切らない態度の恭弥に苛立つ神楽、突然の事にオロオロとしている小春、元凶であるにも関わらず素知らぬ顔で魚を串に刺している桃花。まさに地獄だった。
「……まあいいです。今更キスの一つや二つでどうこう言うのもバカらしいですしね」
何も言えずにただ神楽の瞳を見つめ返していると、彼女は不意にそう言って離れていった。思わず安堵のため息が溢れたのもつかの間、神楽は「でも」と言った。
「だからといって恭弥さんが姉さまとキスしていいかは別問題です。ちゃんと私に許可を取ってからにしてもらわないと困ります」
なぜ桃花とキスをするのに神楽の許可がいるというのか。その疑問は桃花が言ってくれた。
「貴方の許可を取らなければならない理由がわかりません。貴方は恭弥さんの彼女か何かのつもりですか」
前半まではよかった。誰をしても当然の疑問だ。だが後半がいけない。ただでさえ苛ついている様子だった神楽の機嫌を完全に逆撫でする言葉だ。
「カチーン。そういう事言う……姉さまそういう事言っちゃいますか。ちょっとキスしたくらいでいい気にならないでくださいよ。私なんて恭弥さんともっとすごい事してるんですからね!」
「ふっ……何を言うかと思えばそんな事。身体だけの関係など誇れたものですか?」
「ち、違いますもんねー! 私と恭弥さんはちゃんと愛し合ってます!」
「貴方の独り善がりでは? 口籠ったのがその証拠です」
「なにおう!」
尚もギャーギャー言い合いを続ける二人を尻目に恭弥は深いため息をついた。どうしてこうなるのか。神楽の独占欲が強い事など桃花をして当然知っているはずの事なのに、なぜあからさまに挑発するような真似をしたのか。これでは神楽と喧嘩をしたくてしょうがないようにしか思えない。というか、実際そうなのかもしれない。昼の時と違って桃花の口元に薄っすらと笑みが浮かんでいる。まるで姉妹喧嘩を楽しんでいるようだった。
「お二人っていつもああなんですか?」
何故かあっち向いてホイを始めている椎名姉妹を尻目に小春が問いかけてきた。
「そんな事はないはずなんだけどなあ。ちょくちょく喧嘩はしてたけど、普通の姉妹の範疇だったし。やっぱり所変わればなんとやらってやつで、お互いの見ないようにしてた部分を直視するからぶつかり合いになるのかな」
「いやー、どうでしょうね。狭間さんがはっきりしないからじゃないですか?」
「な、なかなか痛いところを突いてくるじゃないか」
「一学年の間でも有名なんですよ、狭間さん。学園のアイドルを何人も侍らせてるって」
「マジかよ……ちなみにどんな風に噂されてるの?」
「男子からは主にスケコマシのクソ野郎って言われてますね。女子からはあの人の何がいいのかわからないという疑問とかですかね」
死にたくなった。同学年であればまだ言い訳のしようもあるし、諦めもつくが、下の学年にすらそんな噂が流れているとなれば先輩としての威厳もクソもない。
「違うんだ。言い訳をさせてくれ」
「言い訳しても無駄ですよ。手、出してるんですよね。噂になってますよ」
ひょっとしたら否定してくれるのではないか、そんな期待が込められた視線を向けられたが、手を出したという事実を覆す事は出来なかった。恭弥はガックリと項垂れて「まあ、その通りです」と言った。
それを受けて小春は「ガッカリです」と言った。尊敬する先輩がまさか本当に複数の女性に手を出すようなだらしない男だとは、自身の耳で確認するまで信じたくなかったのだ。
「師匠も夜な夜な女の人のいるお店に行ってるみたいだし、退魔師の男性って皆そうなんですか?」
男女問わず退魔師は日常的に命の危機に晒されているため、子孫を残さなければならないという本能が発動して性欲が強い傾向にある。だが全員が全員、下がだらしない訳ではない。椎名姉妹の父である明彦は美智留一筋だし、恭弥の知っている晴明も誰彼構わず手を出すような性格ではない。
「たまたまそういう男が周りに多いだけだよ、うん。気のせい気のせい。晴明君はそんな事ないだろう?」
「晴明君もこの間師匠にキャバクラ連れてかれて喜んでましたよ」
(はいアウトー。流石は晴明君、もう英一郎さんとそんなに仲良くなっていたのか。なんとかして先輩としての威厳を回復させなければ俺に対するイメージだけでなく、退魔師全体に対するイメージまで下がっちまう。なんか上手い言い訳はないものか……)
小春が好みそうな男性像に思いを巡らせていると、なんらかの決着がついたのか桃花と神楽が戻ってきた。やけにスッキリした雰囲気で、とてもついさっきまで喧嘩をしていたようには見えなかった。
「喧嘩は終わったのか?」
問いかけると、隣に座って再び魚を串に刺す作業を始めた桃花が答えた。
「ええ、いつまで経っても誰かを選ばない恭弥さんが悪いという事で決着がつきました」
「なるほどね、結局俺が悪いという結論に至った訳にね」
そうなるならそれはそれでまだマシだ。責めを受けるのが恭弥の内は、原因がはっきりしている分、立ち回りでなんとでもなるはずだ。それに、ここ最近の彼女達の関係を見るに、殺し合いに発展するような事はないだろう。ならば、甘んじて責めを受ければいい。そう思ったのだが、
「恭弥さんって結局誰が一番好きなんですか。それがはっきりしない限り私達が争ってても意味ないです」
神楽の問いは核心を突くものであり、これに答えてしまえば全てが無意味になってしまう。普通に責められるより胃にダメージを与える問いだった。
「も、もうちょっと考える時間をくれないか……?」
「いいですけど、約束の半年までもうちょっとしかないんですからね」
「覚えてたのか……」
ここであの約束を出してくるとは思わなかった。以前にも似たような状況になった時に、苦し紛れに答えを先延ばしにしたのがここにきてボディブローのように効いてきた。
あの時は晴明が彼女達の気持ちをかっさらっていくものだとばかり思っていたから適当に言ったが、まさか今に至っても気持ちが変わらないどころかより強いものになっているとは微塵も考えなかった。
「覚えてるに決まってるじゃないですかー。逃げるのはナシですからね?」
「……わかったよ、ちゃんと考えておく」
キリキリと胃が痛んだ。このままでは胃に穴が空いてしまう。なんとかして誰もがハッピーになれる結末を導き出さなければならない。ただでさえ桃花の件を抱えているというのに、それに加えて神楽との約束まで果たさなければならないとは。
「やっぱり狭間さんがはっきりしないのが原因みたいですね」
追い打ちをかけるように小春がボソリと呟いた。もはや彼女に対しては、先輩としての威厳など欠片もない事が確定した瞬間だった。
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