第95話
協会から遙か離れた場所に建設された稲荷家の研究所にその少女は移送されていた。
過去、協会の本部にて分け与えられていた稲荷家の研究室の奥の奥、誰の目にも触れられぬ水槽の中で眠っていた少女。その名は「ハク」
冥道院は木の上に腰掛けその時を待っていた。ハクを乗せた大型トラックが山道を通るその時を。
「――来た」
冥道院は木から音もなく飛び降りると、護送車を青く輝く蝶で包み込んだ。
トラックは急な襲撃にハンドルを思い切り横に切ってしまい、激しく横転した。運転手は即死だったようだ。後輪が虚しく空回りしている。
冥道院は歪んで半開きになっている荷台の扉をこじ開けると、中に収められていた水槽を見て薄く笑った。
「目覚めの時だよ」
そう言って一匹の蝶を水槽に向かわせると、パチンと指を鳴らした。すると、蝶が爆ぜて水槽に亀裂を入れた。水槽内に圧がかかっていたのか、亀裂自体は小さなものであったのにガラスが全て割れてしまった。
中の液体が放出されると、冥道院は取り残されたハクを横抱きにした。
「おはよう、眠り姫」
「あなたはだあれ?」
「僕は冥道院。君のパパになる人だ」
そう言って彼はハクに微笑んだ。
○
「面白かったですね。私もあんな青春送ってみたいです」
「そうですね。主人公が再びギターを手に取った場面は感動しました。たまには映画もよいものです」
神楽も桃花も楽しんでくれたようだった。特に桃花は、映画のワンシーンにまで言及して感想を言っている辺り心に刺さるものがあったのだろう。
「ああいうの見ると俺も音楽やってみたいなって思うけど、実際触ると訳わからないんだよなあ。リコーダーですら覚束ないし」
「私達は一応琴出来ますよ」
「お嬢様はこれだから……」
「やりたくもない事を無理やり覚えさせられたいのですか?」
「ごめんって。そんな睨むなよ、冗談だ」
一転して旗色の悪くなった会話を打ち切ると、三人は軽食をとるために映画館に併設されているカフェへと入店した。そこで、三人は小春が友人といるのを発見した。
「あれ? 椎名先輩と狭間さんじゃないですか。偶然ですね」
「そこで映画見ててな。小春は友達と一緒か」
「はい。そちらの方は?」
小春はそう言って神楽を見やった。
「ああ、小春は初対面だったか。桃花の妹の神楽だ」
「です。あなたは忘れちゃってるのかもしれないですけど、実は一回だけ会った事あるんですよ?」
「え? あたしと会った事ありましたっけ?」
「あーそういえばあったな。あれだ、俺と初めて会った時。ボウボウ燃やしてた人だ」
「あー! あの人が神楽さんだったんですか!」
「ですです。ボウボウ燃やしてたで思い出されるのは心外ですけど」
「す、すいません……」
「色々パンクしてただろうからな。忘れてたのはしょうがない」
と、そこで一人蚊帳の外にあった小陽がこちらに近づいてきた。
「小春ちゃんの知り合いですか~?」
「ああ、ごめんね。あたしの先輩達なんだ」
「先輩~? 小春ちゃん部活なんて入ってたっけ~?」
「あーその、なんていうの、習い事、的な?」
お務めの事を言う訳にいかない小春はしどろもどろにそう説明しながら、目で恭弥達に助けを求めた。
「これは内緒なんだけど、俺達学生起業しててな。その仕事を小春には手伝ってもらってるんだ」
恭弥の言は口からでまかせという訳ではない。一般人に突っつかれた際に言い訳が出来るように退魔師にはそれようの理由付けが用意されているのだ。
なんパターンか存在する言い訳の中で、もっと汎用性が高いのが起業であり、こちらは万が一探られても実際に企業が存在している。実態の無いペーパーカンパニーだが、そこまで深く探ってくる人間は稀なので、こうした場面でよく使われる。
小陽は深く探ってくるような人間には到底思えない。であれば、ここでそういう事にしておけば今後小春と会話する事があった際の理由付けになる。
「学生で起業するなんてすごいですねえ。どんな事をされてるんですか~?」
「土壌に含まれる微生物の数なんかからその土地に最も適した作物が何かを調べてるんだ」
「ほえ~。なんだかよくわからないですけどすごいですねえ」
「ははっ、そう大した事じゃないさ。あまり成果も出せていないしね。人に言うにはちょっと早い段階なんだ。だから、内緒にしててくれると助かる」
「わかりました~。お口にチャックしておきますね~」
「狭間さん……ありがとうございます」
しきりに関心して桃花や神楽に質問をしている小陽に隠れて小春が恭弥に耳打ちする。
「こういう時どうやって切り抜けるか英一郎さんに習わなかったのか?」
「まったく。でも、起業してるなんて嘘ついてよかったんですか?」
「大丈夫。企業名聞かれても一応ちゃんと存在はしてるから。他にも言い訳の候補はいくつかあるから英一郎さんに聞いておくといい」
「はい、聞いておきます。ほんと助かりました」
「いいって事さ。それより、邪魔しちゃ悪いから俺達はそろそろ行くよ」
「いや、こちらこそお邪魔しちゃったみたいですみません」
そう言って桃花と神楽を引き連れて退散しようと思ったのだが、人間どこに琴線があるかわからないものである。小陽は恭弥の発した言い訳に興味を持ってしまったらしく、とても別れを切り出せる雰囲気になかった。
「じゃあじゃあ、なんでもかんでも無農薬がいいって訳じゃないんですね~」
「そうですね。農薬を撒かなければ虫に食べられすぎて枯れてしまう場合もあります」
ツラツラと暗記した理論を言う神楽だったが、後ろ姿からでも面倒な事になったというオーラがにじみ出ていた。それに気付かない小陽はグイグイと質問攻めをする。
「参ったな、こりゃ」
「すいません……あまり空気読める子じゃないんです。でも、いい子なんですよ?」
「いい子なのはわかるがタイミングがよろしくなかったな。実は今日はデートだったんだよ。神楽の機嫌が悪くなるのが手に取るようにわかるぜ……」
「ほんとすいません……今度何かお詫びさせてください……」
「いや、言い訳のチョイスを誤った俺も悪い。神楽の機嫌取りは俺の務めさ……」
「なんか、お互い苦労しますね……」
「そのようだな……それはそうと、もう慣れてきたか?」
「最近なんとかって感じですかね。相変わらずお務めには一人ではいけないですけど、ちょっとずつ倒せる相手も増えてきました」
「そう、か。俺としてはちょっと複雑だけどな」
恭弥はアイスコーヒーの氷をストローで鳴らした。
「どうしてですか?」
「前にも言ったけど、俺は君をこの業界に引き入れるつもりはなかったんだ。君の両親が死んでしまったのも俺の落ち度と言っても過言ではない。だから、君が業界に慣れていけばいくほど、この選択は正しかったのかって疑問に思ってしまってな」
「……あたし、後悔してませんよ、この業界に入った事」
小春ははっきりとそう言い切った。その目には一切の揺らぎはなく、本心からの言葉である事がわかった。
「お父さんとお母さんの事がなくても、あたしは業界に入れるチケットがあったら入っていたと思います。あたし、昔から理不尽が許せないんです」
「そういう意味では、あいつらは理不尽そのものではあるな」
「そうですね。あたしはあたし自身の意思でここにいます。だから、狭間さんが気に病む事なんて一つもないです」
「……やっぱり、君は強いな。それに比べて俺は……」
「狭間さんが戦う理由って何なんですか?」
その問いは、冥道院との邂逅以来ずっと思い悩んでいた事だった。いや、ひょっとするとこの世界に転生してきてからずっと考え抜いてきていた事なのかもしれない。
「君は転生ってものを信じるかい?」
「転生、ですか? ゲームの世界とかに入るっていう」
「そうだ」
「どうなんでしょう。昔は赤ずきんちゃんが食べられちゃうのが納得いかなくて狼を退治しに行きたいなんて思いましたけど……それがどうしたんですか?」
その理由はまさに、恭弥が「夜に哭く」に転生した理由そのものだった。だがしかし、冥道院との邂逅によってその意思が果たして本当に自分のものなのか自信がなくなっていた。
自分は「狭間恭弥」という転生した記憶を持ったつもりになっているキャラクターなのではないだろうか。そんな考えはここ最近何度も考えた。だが、考えたところで答えをもってそうな天城はだんまりを決め込んでいる。考えても何も進展はなかった。
恭弥はアイスコーヒーで唇を湿らせた。
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