十 口止め
その夜(二〇二一年七月七日水曜)
善光寺北東にある岩水沢二丁目の公園の、庭園灯の明りがとどかない植え込みの間で、用足しをすませた白髪の初老の男に、若い男がぶつかった。
白髪の男はだいぶ酔っていたらしく、言葉を発することなく、謝罪する男の胸元をつかみに、力任せに天へ突きあげるように男を持ちあげた。
その瞬間、白髪の男が若い男の胸元を離し、空気の抜けた風船のように、その場に座りこんだ。若い男は何事もなかったように白髪の男から離れ、公園の暗闇に消えた。
翌日、木曜、朝 (二〇二一年七月八日木曜)
公園をジョギングする若者によって、倒れている白髪の男が発見された。
「今度は、義父ですか・・・」
公園の隅で倒れている白髪の男を見て、刑事がつぶやいた。
死亡しているのは鷹野秀人の義父で、鷹野仏具店の経営者、鷹野良平、六十七歳だった。
遺体解剖の結果、体内から検出されたのは大量のアルコールだけで、薬物は検出されなかった。外傷もなかったため、鷹野良平の死は大量のアルコール摂取による心不全として片づけられた。報道は、息子の死を悼んでの深酒が原因だろうと、鷹野良平が飲み歩いていた飲食店店主のコメントを報じた。
その日の夕刻(二〇二一年七月八日木曜)
「今日、客が来ないようなら、早めにしまうわよ・・・」
店に出勤した佐枝に、マダム宮島亜紀が沈んだ顔でいった。
報道で佐枝は鷹野良平の死を聞いている。
先日の白髪の男が鷹野良平なのはまちがいなかった。
マダム亜紀の狼狽ぶりから、亜紀と鷹野良平は何か関係があったのではないだろうかと佐枝は思った。
「マダムだけじゃない。オレもショックを受けてる。
マダムは客に何かあると、いつも店を早く閉めて、客を追悼するんだ。
今回は、これまでの他の客とは、違う・・・」
フロアマネージャーの芳川は、馴染みの客が亡くなったときのマダム亜紀と、鷹野良平の死を知ったときからのマダム亜紀を比較しているらしかった。
午後十時前。
店を閉めて、マダム亜紀はフロアマネージャーの芳川に酒肴を用意させた。
亜紀は、従業員が飲みたいという酒を各自のグラスに注がせ、鷹野良平を追悼する言葉を述べて、従業員に酒を飲ませた。
亜紀は、鷹野良平が亡くなって悲しんでいるという亜紀自身の哀悼を一言も口にしなかった。
追悼の宴は三十分ほどでお開きになった。
従業員が帰った。
亜紀は芳川と佐枝をボックス席に呼んだ。
「勘のいい二人だから、私と良平さんのことが気になるでしょうね。他言無用で話すけど、いいわね・・・」
亜紀は佐枝と芳川の目を交互に見つめた。二人が余計な詮索をしないよう、アイコンタクトしている。
「わかりました」
「はい・・・」
佐枝は、芳川が用意した水のグラスを手に取り、少しだけ水を口に含み、口を湿らせた。亜紀に呼びとめられてから、妙に口の中が乾いて、話しにくくなっていた。
「芳川には、芳川と鷹野良平さんの関係を、佐枝ちゃんに話すよう伝えといたから、佐枝ちゃんは芳川から話を聞いてるわね」
亜紀は芳川と佐枝を交互に見ている。
「ええ、聞きました・・・」
佐枝はそれだけ答えて口を閉ざし、亜紀を見つめて説明を待った。
「鷹野秀人のことは、それとなく佐枝ちゃんに話しておいたわ・・・」
芳川を見る亜紀の口ぶりから、鷹野秀人についてどこまで説明するか、亜紀と芳川の間で取り決めがあったのを佐枝は確信した。
佐枝は亜紀と鷹野良平の関係を知ろうと思わなかった。
亜紀が何も話さずにいれば、鷹野良平の過去は、亜紀と芳川の記憶のなかに封印される。なぜ亜紀は鷹野良平のことを話す気になったのだろう。
もしかして亜紀は、芳川が鷹野良平に恩を返すため、鷹野良平に何があったか単独で調べるのを、止めようとしているのではなかろうか?
「昔ね。良平さんは、この界隈で知らない者がいないほどの暴れ者で、しょっちゅう警察沙汰になってた・・・」
当時、鷹野良平は亜紀といっしょになる気でいた。
鷹野良平には親が決めた許嫁がいて、鷹野良平は鷹野仏具店の親とも許嫁とも仲が良くなかった。そのため気持ちは荒れはて、毎日、肩が触れたとか、にらんだなどというちょっとしたことで、街の者やヤクザと喧嘩の日々だった。
そんな鷹野良平だったが、亜紀に子どもができて、喧嘩をしなくなった。喧嘩をふっかけられても、殴られっぱなしだった。そして、毎日クラブ・リンドウに来て、亜紀に怪我の手当をさせて、亜紀のそばにいた。
鷹野良平が亜紀の元に来るようになって、鷹野仏具店も、鷹野良平自身もおちついた。鷹野良平の親は亜紀の存在を暗黙に了解していた。
しかし、世間体があるからと言い張って親は許嫁を家に入れた。そして亜紀の娘たちの妹が生まれた・・・。
その後、鷹野良平は、親の頼みを聞いて、年ごろになった娘に遠縁から婿養子を迎えた。しかし、それはまちがいだったと気づき悩んだ・・・・。
「あなたも鷹野秀人の性格を知ってるわね」
亜紀芳川を見つめた。
「はい。私に目をかけてくれた良平さんとはおおちがいで、冷酷でした。
若いときから喧嘩は絶えなかったし、良平さんのような男気なんか一つもなくて、喧嘩自体を楽しんでる感じでした。
良平さんもそれを心配して、ここで喧嘩したら、お前の空手で、思いきりぶちのめしてくれといってました」
「そうね。芳川は四段だものね。
芳川を良平さんから紹介してもらったとき、うちで働いてもらえると聞いて、私はすごく安心したわ・・・。
それでね、ある日、良平さんがこういったの。
オレと秀人は、殺るか殺られるかだと・・・」
「その話、オレも聞きました。オレは良平さんが秀人に手をくだしたと思ってました。
だけど、ちがってました。良平さんは、秀人が深酒した訳を探ってくれといってました。
秀人が死ぬ理由を知ってたみたいだった・・・」
芳川は声を詰まらながらそう話した。
「芳川。二人の死因を探るのはやめなさい。
良平さんからもいわれたわ。関連する人たちが立てつづけに亡くなって、死因がわからなければ、プロの仕業だって・・・。だから、誰が殺ったか探れば、殺られるって・・・。
あなた、良平さんの死因を調べて、死ぬ気は無いでしょう?」
亜紀は穏やかなまなざしで芳川を見つめている。
「はい、ありません・・・」
芳川はフロアに視線を落した。
「では、この話はこれまでにしましょう」
亜紀は話を終えた。
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