200 清廉な野心と気高い欲望

 その日教都では盛大な祝祭が開かれていた。清貧を宗とするセイノス教徒であっても今日ばかりは誰もが彼女をたたえる唄を吟じていた。

 スーサンから銀の聖女がその勲とともに帰還したのだ。


「ファティ、聞こえる? この声はみんなあなたを讃えているのよ」

「うん。ちゃんと聞こえてる」

 いつものように駕籠に揺られながら石畳を渡りゆく。ただ御簾越しでさえも歓迎と歓待の空気は伝わる。多くの人々が喜びに満ち溢れていることは彼女にとっても喜びだった。

「一時はどうなるかと思ったけれど、あなたが無事でよかったわ」

「ありがとうサリ」

 誰かに褒められること。それを幸福だと感じることは決して間違っていないはずだ。


「見てくれだけはいいものだな」

 隊列に加わることさえ許されなかったアグルは喧騒から離れた場所で行列を眺めていた。

 彼の果たした仕事を鑑みればこの仕打ちはあまりに酷と言える。まず彼はカンツと話し合い、逃げ延びた熊の討伐を理由にできうる限り騎士団の解散を遅らせた。騎士団を解散させないことで兵に対する衣食住をスーサン側に負担させ、さらに農作業などの働き口を強引に都合させて少しでも騎士団の運営費を賄った。

 本来熊と戦うために集まった信徒からは不満が噴出したが、全てカンツが黙らせた。

 その帰路も楽ではない。通る村々の備蓄を調べ、なおかつ必要最低限の食料を整え、困窮する村々には代金を渡した。実を言うと騎士団から代金を払われることにはさんざん渋られた。ごく普通の村人にとって騎士団に無料で奉仕することは至上の喜びなのだ。そのためならば命など惜しまない。

 しかしアグルはそれを受け入れなかった。彼にとって自分の理想の為ならば何千人殺すこともためらわないが、無為に善良な人々を殺めたいわけではない。少なくとも彼にとって食料を徴発した結果村人を餓死させるのは殺人なのだ。

 その結果として一兵の損失もなく、なおかつ村々への損耗も最小限に抑えてこの教都に帰還させた。まさしく偉業と呼ばれるべきだ。

 しかしながらこの教都では誰もが銀色の輝きに目を奪われている。民衆は下々の身に犠牲を出さないことよりも、華々しい活躍と邪悪を打倒した英雄譚をこそ望んでいるのだ。それを不満に思わないわけではなかったものの、このような扱いは今更気にするほどのことでもない。

 彼は誰にも気にも留められていなかった。

 だがそんな彼に声をかける人物が一人いた。

「アグルさまですね?」

 ごく普通の平民の服を着ているが剣呑な瞳は穏やかとは呼べない。

「確かに私がアグルですが、どちら様でしょうか」

「大司教様がお呼びです。ついてきてください」

 断られるとは微塵も思っていない傲岸さだったがアグルは心中でほくそ笑む。

(カンツは予想以上に役に立ってくれたようだな。どうやら俺を利用するつもりのようだが……逆だ。俺がこいつらを利用する)

 その人物は声を発することもなく、路地裏へ、しかしまっすぐに都の中心へと向かっていった。




「おかえりなさい林さん。無事でよかった」

「藤本さんも巡察士の試験の合格おめでとうございます」

 タストは晴れて男性初の巡察士になった。それを祝福している人々は決して多くなかったものの彼にとってファティの言葉こそがもっとも心を弾ませた。

「ありがとう。疲れているところ申し訳ないんだけど話しておかないといけないことがあるんだ」

「はい」

 肯定の返事をしながら椅子に腰かける。

「実はティキー、いや紅葉さんから手紙が来たんだ」

「紅葉さんから? 何が書いてあるんですか?」

 彼女たち三人はここ一年文通をしている。現代生活ではそんなことをまずしたことはなかったのだが最善の情報交換手段が手紙である以上文通を嗜むのは必然と言えた。

 もっとも魔物に襲われることが多いこの世界ではその手紙でさえ確実な手段ではないのだが。

「ラクリって娘のことは覚えてる?」

「あ、はい」

 紅葉の友人、というか事実上御付きの女官候補のような少女だ。忘れようと思っても忘れられない程度には個性豊かだったと記憶している。

「あの子がトゥッチェの近くの町に行くことになったみたいだ。結果的には紅葉さんがそうするように頼んだみたいかな」

 手紙の内容は彼女の家からトゥッチェの近くに何人か派遣することになった。最初はティキー自身が参加する意思を示したが、周囲から全力で止められたらしい。危険だから、そして何より魔物が特に穢れているから、最後にトゥッチェに住む人々は粗野で王族の血を引くティキーにはふさわしくないと口々に言いだした。それならばティキーの代わりに自分が行くとラクリが手を挙げたようだ。

「その、トゥッチェに暮らす人々は嫌われているんですか?」

「その辺りは僕も詳しくないけど、定住せずに遊牧民のような暮らしをしているらしいんだ。どうもそれが品のないと思われる一因らしいね」

 今一つピンとこない二人だったが、様々な事情から遊牧民がレッテルを貼られることは歴史的に珍しくない。このクワイにおいて文化が異なる集団は存在しないのだが、それでも格差意識というものは存在する。日本人はこういった意識に鈍感であることが多いが、自覚することは難しいだろう。

「えっと、もしかしてそのトゥッチェに近い町に行こうとしたのは四人目の転生者さんを探すためですか?」

「そうみたいだ。少なくともここよりは近いから何か手掛かりがあると思っていたみたいだね」

 転生者三人はあまり自由が利かない立場だが、ティキーの場合自分は動けなくても代わりに動いてくれる人々は豊富らしい。ただ単に人使いが上手いのかもしれないが。

「だったら、機会を見つけてトゥッチェやラクリさんに会いに行かないといけませんね」

「できればそうしたいけど、なかなかね。特に君は色々なところから誘われているし。もしかしたら僕も君に同行するかもしれないからその時はよろしくね」

「はい! 一緒にいてくれるなら心強いです!」

 月光のように輝く髪と、太陽のような笑顔を振りまいて彼女は退室した。もしもその話を聞けばクワイ中の人間が歯ぎしりをして羨ましがるだろう。

 そう、彼女を求めている人々は数限りない。

 ともに魔物を討伐する要請、聖人の聖地を案内するという呼びかけ、晩餐会への招待……タストの耳に入るだけでも膨大な量の文や陳情、誘いが飛び込んでいる。もはやこの国で彼女の価値に気付いていない人間はいないだろう。そして今回の騒動で、どうやらルファイ家にもつけいる隙があると判断されてしまったらしい。

 だがしかしそれらは今までのタストなら耳に入らなかった情報だ。誰かにこっそり耳打ちされるほどにはルファイ家の巡察士という看板には価値がある。

 巡察士という地位は彼の想像以上に有効に働いてくれた。今まで蔑んだ目で見下してきた女官も丁寧にあいさつするほどだ。

(地位を手に入れるだけでこんなに違うんだ)

 前世ではしがないバスの運転手だったので、他人の態度がこれほど変わったことを自分の身で経験したことはなかった。

(もしももっと上の立場なら、もっとできることは増えるはず。そうすれば彼女の役に立てるはずだ)

 その目に灯る感情の名は、権力欲。

 それは例えば誰かのために、みんなの為に、一見高潔で慈愛に満ちた心からも産まれうる。そしてふとしたことで産まれた感情は容易には消せない。

 結局のところ彼は凡人なのだろう。であるがゆえにあっさりと欲に目がくらむ。

 それは特別なことではなく、人格の善悪を問わずに陥る正常な病のようなもの。願わくば彼がそれに気付きますように。






 転生管理局地球支部支部長代理である翡翠かわせみは跪きながら両手を組み、親指を口に含む珍妙な姿勢で通信機から届く声を聴いていた。

「おわかりか? 翡翠。我々は管理しなければならない。前任者の不始末が原因とはいえイレギュラーを許容してはならないのだ」

 声の相手はアベル支部のコウノトリだ。

 反論や答弁しようにも口に指を含んでいるので会話できないのだ。実はこの姿勢はアベルでは臣下が主人に対して忠誠を示す場合に使われるらしい。口答えせず、何をされても歯向かわないことを示す姿勢だとか。

 そんな姿勢をとらされていることで翡翠の立場が十分にわかるだろう。

「たかが虫一匹とはいえそれが世界を乱すこともありうる」

 ねちねちと説教を受けることはや数時間。それでも翡翠は忍耐を続けていた。これでもましな方なのだ。管理局の中には訳の分からない方法でコミュニケーションをとる支部も存在する。

 円偏光によって会話するなどどうしろと言うのだ。しかもそれがごく一般的なコミュニケーションだと思っているから始末に負えない。

「では貴方が賢明であることを祈る。通信終了」


 ようやく翡翠は楽な姿勢をとり、わなわなと肩を震わせ、手近にあった椅子を蹴飛ばした。

「あんの、古いばかりで働かないごく潰しが! 私に指図するな!」

 息を荒げて気を巻く翡翠。とてもではないが大人の態度とは程遠い。

「燕!」

「はい」

 影から抜け出るかのように燕が現れる。

「例の候補者はどうなっていますか?」

「もう間もなく」

「ならよろしい。少し前の騒動でくたばらなかったのは残念だが、準備はつつがなく進んでいる。あのイレギュラーがくたばる日も遠くない」

 戦いは新たな舞台に進もうとしていた。

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