182 もっこもこ
それは太古より存在し、ありとあらゆる人々の命を奪い、しかし誰も倒すこと能わず。その名は……。
「まあただの風邪なんですけどね! ってコントしてられる余裕がないわああああ!」
たかが風邪に大げさなことを言っていると思うかもしれないけど現在の状況は冗談じゃすまない。何しろ夏風邪の大流行中だ。
もう一度言う。ただの風邪と笑っていられる状況じゃない。ほとんどパンデミックに近い。
今更になるけど蟻の生態は風邪が流行しやすい。まず地下に巣を作るから基本的に風通しがあんまりよくなく、個体同士の距離感も近い。しかも気温や湿度が保たれているからウィルスの種類によっては一気に増殖するかもしれない。そして極めつけは蟻が遺伝的に極めて近い個体の集合体だということ。クローンである可能性も高い。
遺伝子に多様性が必要な理由の一つは感染症などにより一気に全滅することを防ぐこと。遺伝的に均質であると、同じウィルスなどに感染しやすい危険性がある。
むしろ今まで風邪なんかが流行らなかった方が不思議なくらいだ。
その理由はいろいろある。そもそも蟻はきれい好きであること。冬眠するから冬に流行りやすい病気にかからない。あと多分魔物は病原菌などへの抵抗性が地球の動物よりも高い。
しかしその反面代謝が早いせいなのか一度免疫を突破したウィルスが存在するとすさまじい速度で流行する。
まあ要するに、オレが優秀な部下に胡坐をかいていたせいで風邪などの対策を取らなかったってこと。これもまた油断。予防に勝る治療無しとはよく言われることなのにね。
そして最も厄介かつ当たり前なことに、風の特効薬は存在しない。確か特効薬が作られたらノーベル賞がもらえるんだっけ。つまり風邪を速攻で治すのは不可能。下手をすると冗談抜きで壊滅しちゃう可能性がある。ただありがたいことにオレたちは多種族国家だ。そしてどうやらこの風邪のウィルスは蟻以外には感染する性質が少ないらしい。マジで助かった。これでどんな生物にも感染するハイパーウィルスなんか誕生したら滅亡待ったなしだったよ。まあ突然変異なんかが起こると別種の生物に感染する可能性も否定できないけどね。なので風邪で倒れた蟻のお世話は他の生物が見ている。やっぱ多様性って大事だね。
そして具体的にどうやって風邪を治すか。そんなもん決まってる。
「清潔にして、あったかくして、栄養があるもん食ってゆっくり寝ろ」
これが一番だ。原始的かつシンプルながらもっとも確実。脇や額を冷やすことも考えたけど……体を冷やしたりしていいものなのかわからない。蟻と人間じゃそもそも体の仕組みが違うからな。しかし睡眠と食事だけは絶対に必要だ。
すりおろしたジャガオのスープや渋リンのメープルシロップ煮込みのコンポートみたいな消化のいい食事をさせる。
風邪をひいたときは日本人ではお風呂に入らない方がいいというひともいるけどオレはお風呂に入った方がいいと思う。もちろん湯冷めしないように工夫はできるだけするけどね。
それに今のオレたちには体を清潔にする大事な道具がある! そう! 石鹸だ!
アンモニアソーダ法で作ったソーダに油があれば石鹸を作れる。ちなみに油は色々な植物から圧搾したり蒸留したりしてそこそこ安定して確保できるようになった。特に蜘蛛豆から搾れる油がいい感じ。ちなみに石鹸づくりに動物油は使わない方がいいらしい。臭うから。
それに石鹸にはもう一つ使い道が……。
「ね~ね~」
「あん? どうかしたのか千尋」
「すごいふわふわ~」
なんか知らんが千尋が泡まみれになっている。泡風呂にしたつもりはないんだが。つーか千尋の目しか見えないぞ。
「気持ちいいか?」
「すごくいい気持ち~。意識が遠のきそうだよ~」
「それ酸欠だ! 早く泡流せ!」
ざぱーっと水を流す。よしこれでいつも通り。
よく見たら茜もいるじゃん。
「お前ら何やってんの?」
「病気の蟻をお風呂に入れていたんですけど……千尋さんが泡立ててほしいと言い出して」
「ふわふわ気持ちいいよね~」
「仲がいいのは結構だけど……もうちょい限度を考えてくれよ」
異世界の風呂にはどうやら危険がいっぱいらしい。
「というか茜。どうやってそんなに泡立てたんだ?」
「こう、毛をこすり合わせるようにしました」
タオルで泡立てたようなもんか。<毛舞>で器用に毛を動かしたらしい。まあちょうどいいかな。毛の状態を調べよう。
「毛の様子はどうだ? 違和感はあるか?」
「違和感というか、普段より軽い気がします」
ふむ。どことなく普段の赤毛よりもつやつやして綺麗になっているように見える。ちゃんと石鹸で洗えているみたいだ。
茜率いる豚羊たちはちゃんと役に立っている。特に暖をとることに羊毛は素晴らしい能力を発揮している。複数の豚羊たちが固まって外気温から身を守る通称もこもこフォーム(命名オレ)で病蟻たちを温めてくれている。
しかしいつまでも豚羊におんぶにだっこじゃ困る。あいつらだって仕事があるわけだし。というわけで布団を作ろう。
衣食住という言葉があるように衣類というのはとても大事な生活必需品だ。しかしオレたちは衣服をとにかく後回しにした。それはやっぱり冬眠という性質があるからだ。衣服を整えて寒さをしのぐ必要がない。それに蟻は地中で暮らしているからあんまり寒さを感じない。しかし病気になれば話は別。ゆっくり身を横たえる場所はやはり必要だ。
というわけで、
「毛刈りの時間だオラア!」
まずは豚羊を川に飛び込ませる。別に入水自殺をさせているわけじゃない。毛についている汚れや脂を落としている。実は羊などの毛には脂が含まれていてそれが毛刈りや紡績の邪魔になる。まずそれらを軽く落とす。
それからみんな大好き羊の毛刈り。地球だと羊が暴れたりして大変らしいけど……そんなことをする必要はない。なんとこの豚羊毛を自分の意思でぱさっと脱ぐことができる。
もう一度言おう。毛が、脱げる。
「……全世界の羊飼いの皆さんごめんなさい」
もうね、ありとあらゆる牧夫さんの夢だと思うんだ、毛刈りの必要がない家畜ってさ。
上手い人だと一日に四百頭の毛を刈るって聞いたことがあるけど素人どころかなんの知識がなくても余裕でつるっつるってんの豚羊ができちゃうわけですよ。
見ろよあいつら。ただのでっかい豚だぜ?
「あんまりじろじろ見ないでください」
「ごめんなさい」
茜たちはどうやら毛のない自分たちが見られるのはあまり心地よくないらしい。しかも本来毛を脱ぐのはあまり推奨されない行為なんだとか。それでもきちんとオレの頼みを聞いてくれるから感謝しないとな。今は忙しいから無理だけどそのうちちゃんと御馳走しないと。
当然羊の毛の実物なんて見るのは初めてだけど驚いたことに豚羊は毛の太さ、性質を魔法で変更できるらしい。全世界の羊ブリーダーがどれほどの心血を注いで品種改良を行ってきたかを思うとまさに規格外の能力だ。たしか羊の品種って数百種類くらいいるんだっけ。すべてが毛皮の為に品種改良されたわけじゃないはずだけど……この話を聞いたら心臓発作で倒れるんじゃないか?
ちなみに<毛舞>は一度刈って切り離した毛にも触れさえすれば使うことができる。お湯なんかに短時間浸してもまだ魔法を使うことができる。蜘蛛糸に比べると化学変化に強いのかもしれない。上手くやれば継ぎ目のない服も作れるかもな。
それから刈った毛を石鹸とソーダ水でごしごし洗う。この時、脂をきちんと回収できれば別の利用方法もあるけど……うーん、ちょっと難しいか? それと廃液の処理方法もちゃんと考えないとな。文明を発達させるのはいいけどそれで自然破壊したら元も子もない。
ここからは本来なら羊毛を整える作業かな。繊維をほぐすんだっけ。櫛でけずったり、繊維を伸ばしたりするらしい。場合によってはそれを何回も繰り返してようやく糸をつむげる状態になる。
しかーし、オレたちには魔法がある。その辺の過程を省略できるかどうか試した結果。……できてしまいました。あっはっは。これまた土下座案件では?
魔法は物質の状態を変化させることに関してはほとんどチート臭い性能を発揮するよね。ありがたやありがたや。何はともあれこれでひとまず毛を糸やワタにする準備が整った。
紡績機を作りたかったけどちと難しいので簡単な糸車を作った。いやまあ正直<毛舞>があればいらなかったかもしれないけどね。その気になれば糸をくっつけたりできるからな。やっぱすごいな魔法。
ともあれこれで糸が作れた。
後は糸を織って布を作り、わたを作って布で覆う。完成!
実は同じようなものはそこら辺の植物で作ってみたこともあるけど時間かかったんだよな。やっぱり魔法が使えると違うね。
ともあれこれでゆっくり休める寝床が整った。じっくり休めば大半の蟻は快方に向かってくれた。風邪の流行というそこそこ厄介な事態も乗り切ることができた。でもそのうち薬とかも必要かなあ。風邪には意味がないけど抗生物質とかがあるといいかも。有名どころだと……サルファ剤かペニシリンか。サルファ剤はめんどくさいし、ペニシリンはとんでもカビとかが見つからないとダメだけど……この世界なら頑張れば見つかりそうだな。今でも生物採取は続けてるし、運が良ければ見つかるかもしれない。
ま、未来のことは後で考えよう。今日はせっかく作った布団で寝よう。ふっかふかやぞ!
「それじゃあおやすみなさ……」
「紫水、報告」
「うぇ? 何?」
誰か知らない蟻からの報告だ。
「魔物の群れが西から東に移動しているのを目撃することが増えているそうです」
群れの移動? ……またヒトモドキが大規模な軍隊でも動かしてるのか? 火急の案件じゃないけどちょっと気になるな。
「わかった。調べておいてくれ」
「わかった」
ま、これくらいなら任せておいて大丈夫だろう。それじゃあ今度こそ。
「おやすみなさーい」
今日はよく眠れそうだ。
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