26:その未来はどこまでも険しくて

 璃亜夢が採血をしている間に、茉莉花も検査があるらしく看護師が茉莉花を連れて行ってしまった。あれだけ早くいなくなって欲しいと思っていたのに、どういうわけか看護師に抱かれて遠のく茉莉花の姿に不安になってしまったことに璃亜夢自身驚く。

 採血の後は、テレビでしか見たことのない内診台に座らされ子宮口や子宮の状態を確認された。出産してから、赤黒い血が出てくることがあったから、子宮の中に傷があるのかと思っていたが、それは悪露おろというものらしく、産後には出やすい症状だと説明されて璃亜夢は少し安心した。

 長い検査が漸く終わり茉莉花も返してもらい安心したが、次があった。


「茉莉花ちゃんちょっと栄養足りていない感じがしたけど、母乳ってどうしてます?」


 母乳が出なかったので牛乳を飲ませていたと説明したら今度は助産師に叱られた。

 そこからは母乳指導が始まる。

 どうやら母乳の出口である乳管口が開いていなかったため母乳が出ていなかったようだ。胸が張って痛かったのもそのためだった。

 母乳の上げ方やおむつの付け方など基本的なことすらわかっていない璃亜夢に助産師は丁寧に説明してくれる。

 その全ての工程が終わった時、璃亜夢がこの病院にやってきて二時間が過ぎていた。


 ***


「どうしてあの女の子連れてきたんだ」

 大黒がやや照明の落ちた待合に座って、璃亜夢の検査などが終わるのを待っていると突然船越に問われて振り返る。船越は両手一つずつ缶コーヒーを持っていて、大黒に一つ渡すと大黒が座っているソファーに、一メートル程間を空けて隣に座る。

 缶コーヒーを受け取った大黒は「ありがとうございます」と呟いて蓋を開けて一口飲む。


「どうしてって言われても……事故みたいなものです」

「事故?」

「ちょっと前からアパートで見かけてたコだったんですよ。お腹が大きいから妊婦なのはすぐにわかりました。今、姉さん達も妊娠してて大変そうにしてたから、この人も大変なんだろうなあって思って」

 大黒は苦笑する。

 酷い顔色の女性がいると思ったのだ。

 服の上からも膨らみがわかるほど大きくなった腹に、大黒はこの女性も母になるために頑張っているのだろうと思い応援したくなった。腹の中の子供を守るため、周囲に対して警戒心が強くなるのはよくあることだし、というか姉達がそうだったから彼女もそうなのだろうと思った。

 きっと赤の他人の自分が気にかけなくても、彼女のパートナーが彼女を助けるだろう。そういう風に思うことにした。


 だけど今夜、腹が凹み、腕にはタオルで包まれた赤ん坊らしきものを抱える彼女を見て驚いた。

 彼女の顔色は相変わらず酷かったが、それでも無事に出産したことに感動した。

 無事に産まれたのか!

 だから『産まれたんですね、おめでとうございます』と彼女に思わず言ってしまった。その瞬間、彼女が絶望するのがわかって、しまった、と思ってしまったのだ。

 彼女にとってこの出産はめでたいものでは無かった。それどころか、彼女を苦しめているものだった。

 はじめはパートナーに逃げられたのかと考えた。だけど口にタオルを捩じ込まれた赤ん坊にそれだけじゃあ無い気がした。

 だから大黒は彼女の話を聞くことにしたのだ。


「あんまり死にそうな顔をしてたから声かけて話聞いてみたら、未成年の上、家出中だって言うし。このままにしてたら、赤ちゃんと一緒に心中でもしちゃうような気がして」

「同情か? 恩を感じてくれるかもわからんぞ」

 船越が茶化すように言いながら缶コーヒーを飲むと、大黒も缶コーヒーを飲みながら笑う。


「別に恩を売りたいわけじゃないです。何ていうか……ウチの姉さん達は結婚して妊娠と出産何度もしてるじゃないですか。赤ちゃんが産まれる度、家族が増えたーってすっごい喜ぶし僕も嬉しいけど出産って本当はもっと深刻で命懸けじゃないですか」

「日本での新生児の死亡率は大体千人に一人だった。妊婦の死亡率も世界水準でかなり低いはずだ」

「いくら技術が進歩したって死ぬ可能性があるんですよ。それは毎回ちゃんと病院に通院してたお母さんだって絶対避けられるはずがないことなのに、璃亜夢さんは本当にたった一人で産んだんですよ。赤ちゃんも生きてる。もう奇跡じゃないですか」

 大黒は嬉しそうに笑って続ける。


「それなら大きくなって欲しいなって思ったんです。璃亜夢さんにも茉莉花さんにも」

「赤ん坊はそうだけど母親もか?」

 怪訝そうな顔をする船越に大黒は「勿論」と頷く。


「璃亜夢さんはお母さん歴三日目の新人さんですよ? 伸び代しかないです。……このまま彼女が茉莉花さんを育てるのか、経済的に困難だから乳児院みたいな場所にお願いするのか、それとももう茉莉花さんを手放して養子縁組をするのか。このあとのことを決めるのは璃亜夢さんです。……でも欲を言うなら、僕は成長した茉莉花さんが璃亜夢さんと並んでいる歩いている姿が見たいなあって思ったんです。お互い笑顔ならなお素敵だ」

 大黒は照れ臭そうに笑いながら、まるで自分の夢を語るように呟く。

 そんな絵空事のような話を語る大黒に、船越は溜息混じりに笑う。


「俺が此処にきて最初に取り上げた赤ん坊が、もう成人して社会人やってるだけで凄い話なのに、そんなキッラキラした話されてるの聞いたらちょっと泣きそうになっちまったよ。俺も歳食ったな」

 船越はそう言いながら缶コーヒーを飲み干す。

 大黒はそんな船越を見ながら「でも先生は生涯現役でしょ? 僕の姪っ子がお母さんになる時はよろしくお願いします」と笑う。


「そこは朱鳥くんの嫁さんがって話じゃないのかよ」

「じゃあ、その時もよろしくお願いします」

 大黒が付け足したように笑うと、船越は「何だかなあ」と肩をすくめた。


 彼らの話はその後他愛もない近況報告に変わった。

 待合は静かで二人の声はよく通っていた。

 少し離れた廊下にいた璃亜夢にも二人の会話は聞こえていた。


『僕は成長した茉莉花さんが璃亜夢さんと並んでいる歩いている姿が見たいなあって思ったんです。お互い笑顔ならなお素敵だ』


 そう言ってた大黒の言葉が璃亜夢の中で残響する。

 病院に連れてこられてからも、どうしてこの男性はこんなにも親切にしてくれているのかと思っていたし、何だったらかなり不安だった。

 璃亜夢が家を出てから男性が親切にしてきた時、大抵対価として身体を求められた。

 最初は身体を触られることが怖かった。

 だけど自分には身体しか差し出せるものがないということを理解する。それから男性が身体を求めてくるのは当然である仕方ないことだと考えるようになった。

 だけどこの男性はそういう目的で璃亜夢の身体に触ることはなかった。

 だから一体何を対価に差し出せば良いのかとずっと考えていた。


 それなのにあんなことを言われてしまったら……。


 璃亜夢は目頭が熱くなる。

 正直、茉莉花をこの後どうしたいかは考えていない。

 助産師も今後のことについて少し話してくれていたが、結論なんてでなかった。

 今の璃亜夢には勿論、経済的にも精神的にも茉莉花を育てる余裕なんてないのことは自覚している。

 だけど大黒の言葉を思い出しながら、璃亜夢はそんな未来も可能性として存在していることを知ってしまった。

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