湖の橋

ゆりやまハルポ

湖の橋

 東京の北のはずれ、県境にあるT湖は、周囲をぐるりと森林に囲まれた広大な人工湖である。T湖自転車道という、緑に囲まれた細い水道道路が多摩地区からその湖まで延びているので、休みの日は自転車でサイクリングがてら訪れる人も多い。


 夏の地獄の陽気が去り、秋も深まりだした十月始めの頃、私もそのようにひとり自転車をこぎ、この細いサイクリング道路を通ってT湖までやってきた。自転車といってもカゴつきのボロいママチャリだが、自宅がそう遠くないから、さほど時間はかからない。


 二十分ほどで着いて、わき道から森に入り、自転車を押して生い茂る木々の間をぬっていくと、いきなりひらけて、広大な青い湖がぽっかりと顔を出す。ここはダムのある場所から離れていて、木々の中に横たわる湖の長々した姿を見ると、前人未到の地に来たかのようだ。

 ここまで来たのは初めてで、ふだんはダムに近い橋の辺りまでしか行かないので、誰かが必ずほとりでごろ寝していたりするが、今日は他に誰もいない。落ち着いて休みを満喫できそうだ。これは私の仕事がサービス業で、平日に休んだせいもあろう。

 チャリを停めて、ゆるやかな傾斜の湖岸に下りようとした、そのときだった。湖の向かって左はしの方に、何かが長々と伸びているのに気づいた。

 橋だった。


 幅がせまいのにやたらに長く、湖水の上をえんえんと横切って、その先は向こう岸に生いしげる木々の葉の中に消えている。なんだろうとそっちへ周ってみると、橋の入り口が岸に掛かっていた。

 異様な橋だった。ただの狭い桟橋なのだが、周りを金網でぐるっと、不必要なくらいに厳重に囲っているのである。まるで爆発物とか、放射線などの危険な物質を扱う施設の通路みたいだ。

 先を見ると、湖上をずっと伸びてカーブし、私から向かって左側から垂れ下がるうっそうとした木々の葉に埋没して、見えなくなっている。桟橋が左の岸から数メートルしか離れていないせいで、岸に並ぶ広葉樹の葉に隠れているのだが、向こうに行くには左の岸を周った方が早そうだから、あまり意味の無い橋だった。金網に覆われた橋が長々と伸びているそのさまは、まるで湖上を駆け抜ける銀ぴかの大蛇だ。

 しかし、先が見えない、というのが面白かった。ちょっと渡ってみようか、という気になった。

 向かいの土手に、古そうな板張りの茶屋があるが、今日は古びた黒い戸が閉まっていて休みのようだから、気にすることはない。人目があると、こんなところには入りにくい。



 目の前で見ると、金網で囲われた入り口は、まさに蛇が大口をあいたように、ぽっかりと陰気な口をあけていた。ちょっと怖い気がしたが、入り口をふさいでいないから立ち入り禁止でもないようだし、途中で穴にでも落ちるようなことはなさそうなので、かまわず足を踏み入れた。

 幅は近くで見るとやはり狭くて、一メートルちょいぐらいしかなく、大人二人がやっとすれ違える程度だ。足元は木造の橋なのに、右左のみならず天井にまで白い金網が四角に張り巡らされていて、天井までの高さが二メートル半ほどしかない。よほど背の高い人でも楽に通れそうで、完全に通路といってよかった。

 金網は間近で見るとかなり年季が入っており、ところどころ皮が剥けてよじれ、中から赤さびた鉄線がむき出している。周囲に金網がびっしり張りめぐらされ、なぜこんなに厳重になっているのか、と疑問に思った。

 足元は丸太をつないだ普通の桟橋であり、おそらくあとから周りに網を張ったのだろう。遠くから見て、網の隙間から渡る人の姿は見えそうだから、そんなに危ないこともなかろうが、こうも狭苦しい通路をえんえんと進むのは、正直心ぼそい。


 しかし少し風が吹いて、網にかかる木の葉がさわさわと優しい音を立てだすと、それがなんともいえず心地よく、そんな不安は静まってしまった。右の広い湖面を見ると、午後の陽気に輝くさざ波がゆっくりと返していて、見とれるほど美しく、平穏だった。このまま時が止まればいい、と思った。

 静かだった。改めて、いいところだ、と思った。

 進むうち通路が曲がり、枝葉の海に入る。周りをおびただしい葉にすっぽりとくるまれて周囲が陰り、外界がよく見えなくなる。まるでテーマパークか遊園地のアトラクションだ。ちょっとわくわくする。子供を連れてきたら喜びそうだ。


 百メートルも歩くと、また少し不安になった。長い。ちゃんと向こう岸に着くのだろうか。着かないことはなかろうが、どこでもいいから、とにかく地表に出られれば、それで良かった。時おり現れるカーブも、けっこう急で、しかも木の葉で埋没しているから、先がまったく見えなくなる。

 おかしい。もしや、同じところをぐるぐる回ってやしないか。曲がりすぎだ。

 いぶかると、不意にそれが、前方に現れた。

 女だった。


 紺のワンピースらしきものに身を包んだ、きゃしゃで若そうな女が、私の数メートル先を、長い髪とスカートをゆらして、コツコツと歩いていた。ほっとした。ほかに誰かがいるのなら、大丈夫だ。きっと向こうへ渡れるはず。




 安心して進んだのだが、困ったことが起きはじめた。女がときどき立ち止まっては、髪を振ってこっちをうかがい、鋭い目でにらみつけるのである。私は大柄ではないが、背は普通の男よりは高いほうだ。確かに、こんなせまい通路で、後ろからごつい男に来られたら警戒するのは分かるが、なにもそんなに恨みがましい目で、いちいち見なくてもよかろう。

 道でそういうことがあった場合、女が気を利かせてどこかのショウウインドウでも眺めるふりでもして、男を先に行かせてやる、というのを聞いたことがあるが、ここではそれも出来まい。そこで、こっちが気を利かせて、ちょくちょく立ち止まり、金網を覆う緑の葉でも見ているふりをして先に行かそうとしたが、女のほうも立ち止まって、変わらずこっちをにらみやがるので、困った。

(なんだ? なんのつもりだろう……)

 女は怖い顔はしていても、細面で鼻がすっきり通った美人に見える。いっそ追いかけて話しかけてやろうと思ったが、それでは怪しい奴の見本だし、ここからでかい声で呼びかけて不審に思われないほど陽気なキャラでもない。あきらめて、このまま行くしかない。


 しかし、嫌な感じだった。それは、疑われているのが嫌、というよりは、もっと別の理由があった。女の顔つきに、なにか不吉というか、薄気味悪い「重み」のようなものがあった。時おり向ける刺すような視線は、蛇のように冷たく陰鬱で、また日陰のせいもあるが、顔色は緑がかって蒼白く、能面のようだった。

 曲がり角で姿が消える。ほっとして自分も曲がると、やはり数メートル先にきゃしゃな背があって、髪を振ってこっちをうかがい、横目でにらむ。わっと嫌な気持ちになる。また曲がる。自分も曲がる。いる。そしてにらむ。その繰り返し。げんなりした。

(なんだよ、なぜそう何度も見るんだ。やめてくれ……)

 そう思ったが、そのうちにイライラが、ぞっとするような寒気に変わった。女の顔は、振り向いてこっちを見るうちに次第に目がぎょろりと見開き、夕闇に黒い雲がゆっくりとたれこめていくように、恨みのようなどす黒い影をさしてきた。投げかけてくる刺すような視線は、いっそうとがめるような重苦しさを増し、より険悪でまがまがしくなり、しまいには、完全に憎悪の目になった。

 もちろんこっちは相手を知らないし、なにか気に触ることをした覚えもない。ただ後ろを歩いているだけだ。男だから、怪しいから恨む、などというのは、あまりに理不尽すぎる。

 しかし、こんな狭い通路じゃ、そう思われても仕方ない気もした。そして後悔した。

(こんなところに入らなきゃ良かったな……)

 といって、今さら戻りたくない。前を行く相手は確かに気持ち悪いが、歩いていけば、いつかは出口に着くはずだし、そこでこの不毛で不快な時間も終わりである。それにここまで来て、わざわざまたえんえん後戻りするのはシャクだ。とっとと渡りきってくれ、俺もそのあとすぐ消えるから。

 そう思い、変な女にちょくちょくにらまれながら、金網に囲われた桟橋を渡る、という奇妙な行動を、やむを得ず続けた。


 また女が曲がって消えた。自分も続いて曲がった。

 とたんに足が止まる。

 そこは――

「行き止まり」だった。


 目の前に黒ずんだ板の壁がでんと立ちはだかり、もうこの先には道がないことを知らせている。壁の向こうには暗い湖面が横たわり、あざけるように、かすかなさざ波を打っている。木が覆っていないので前方が見えるが、どこまでも水ばかりで岸はない。ここまでえんえん歩かせておいて、いきなりどん詰まりとは、なんて橋だ。

 だが、それよりも背筋の凍りつく事実があった。

 女が――

 いないのだ!


 バカな。俺のすぐ前を曲がったんだから、ここにいないはずがないだろう。なのにここには、彼女のあの細身の影も形もないのだ。

 どこかに出るところでもあるのでは、と周りをあちこち調べたが、金網は橋の周りをがっちり覆っていて、人の出るような隙間は数センチもない。よしんば出られたとしても、四方どこにも深緑によどむ水しかない。湖のまんなかだから、水深は数メートルはあろう。ここから人間がどこかへ姿を消すなんて不可能だ。

 つまり、だ。

 つまり、あれは――

「人間ではなかった」ということだ。


 あの女の気味悪さが思い出されて、ぞっとした。唐突に、すべてに合点がいった。あのかもし出す不吉さ、まがまがしさ、気味の悪い違和感は、生きた人間のものではなかったのだ。あれは暗い死のオーラだ。悪意と怨念に満ちた死人のみが発する、恐ろしいベールだ。それをまとっていたあいつは、この世のものではなかったのだ!





 ここにいるわけにはいかない。あわてて向きを変え、駆け出した。踏む丸太が、どん! どん! と鈍い音を立て、不安をあおる。一刻も早くここから出なくては!

 何度もカーブを曲がる。だいたい、こんなに曲がるのがおかしいのだ。そして周りがこんなに見えないのは、もっとおかしい。岸から、どこまで枝が伸びてんだ。幹が腕みたいに伸びて、枝が指になって、この橋をがっちりとつかんでいる、とでもいうのか。

 知らぬ間に風が強まり、橋を覆う葉がざあざあとゆれている。握る指を動かして、今にも潰すかのようだ。まるで嵐だ。なにもかもが恐ろしかった。

(早く入り口へ行くんだ)(大丈夫、急げば、すぐ着くはず……!)

 全身冷や汗に満ちて、とにかく走った。


 あるカーブを曲がったとき、思わず立ち止まった。十数メートルほど向こうから、女がこっちへ歩いてくる。

 さっきの女だ。紺のワンピに身を包んだきゃしゃなロンゲの女。なぜなら、顔が全く同じなのだ。

(間違いない! さっき俺の前を歩いていた、あの女だ……!)

 だが、それは絶対にありえない。だってあいつは、通路の行き止まりの方へ歩いていったではないか。それが、また入り口から、行き止まりの方へ向かって歩いてくるなど、ありえない。

 つまり、こういうことだ。奴は、あの行き止まりで消えて、それからまた入り口に現れ、こっちへ歩いてきた。

 これで確実になった。

 あいつは、人間でない「何か」だ……!


 女はさっきと同じ、鬼のようなゆがんだ恨みの形相で、こっちへ向かってゆっくり歩いてくる。

 どうする。

 戻るわけにはいかない。あの行き止まりまで戻ったら、きっと恐ろしいことになる。奴もそこまで来て、追い詰められることになるからだ。そうしたら、いったい何が起きるのか。想像するのも恐ろしい。

 だがどっちみち、この幅一メートルほどのせまい通路で逃げ道はない。あんなのとぎりぎりですれ違うなど、正気の沙汰ではない。

 奴は、数メートル先まで来ている。



 ところが、妙なことに気づいた。奴は、きっと目を細めて何かをにらんではいるが、前から来るくせに、私の顔を見ていないのだ。視線は少し上のほうを見ており、私からは、それている。

 そのうち立ち止まると、髪をゆらして後ろをうかがった。そして数歩いくと、またちらと後ろを見る。行動が、さっき私が奴の後ろを歩いていたときと、まるで同じなのだ。

(そうか。分かったぞ……!)

 奴は、私を見ているわけではなかったのだ。


 聞いたことがある。この世に未練を残して死んだ者は、死んだ場所に霊となって縛りつけられる。そして、死ぬ直前に行った行動を、えんえん果てしなく繰り返すという。

 この女も、ここで死ぬ前におこなったこと――おそらく、入り口からこの通路に入り、歩いて、ときどき後ろをうかがう――という行動を、ただ死後に繰り返しているだけなのかもしれない。

 それなら、この幽霊は私のことは眼中にないわけだから、このまま気づかれずにすれ違うことが出来るかもしれない。そう思ってもやはり恐ろしいが、ここはそう信じるしかない。

 こうして私は、できるだけ通路の右はしに寄り、金網が外へ広がるほどに体をぐいぐい押しつけ、腹を出来るかぎり引っ込めた。相手がすれ違うや、超ダッシュで逃げるのだ。


 女の幽霊が近づくいてくるにつれて、額を冷や汗がたらたらと流れ、心臓がどくどく高鳴る。全身が緊張で石のようにガチガチになる。

 敵は後ろを見つつ、見つつ、ついに目の前に迫った。

(行ってくれ)(このまま行ってくれ……!)

 祈りながら顎を引き、薄目をあけて見ないふりをしながら、ちらと盗み見する。

(よし、こっちを見ていない)(いいぞ、このまま……!)

 だが。

 心臓が止まりかけた。


 女は私の真横に来るや、とつじょぴたりと止まったのだ。

(いや、悪いところで止まっただけだ)(きっと後ろを見て、また歩き出すはず)(そう、そのはずだ。そのはず――)

 ところが、女は動かない。

 全く、動かない!


 女の体は、ぎりぎりで私の胸に触れず、陰気な左横顔が、今、私の目の前にある。それは目の前で見ると能面というより、くすんだ彫刻のように固くこわばり、蒼白く血の気のない肌は生きた人間のそれではない。


 風が周りの葉をかさかさ揺らすのに、女の長い髪はまっすぐに垂れたまま、写真のように微動だにしない。この世のものなら、こんなことはありえない。

(早く行ってくれ……!)

 恐怖で死にそうだった。膝が震えそうになるのを必死で抑える。

 だがそのときだ。女の向こう側の右腕が、ぐぐっ、とゆっくり持ち上がった。その先にある、ぎらりと光るものを見たとき、全身の血が凍りついた。か細い指が握りしめる、その鋭いものには、一面べったりとまっかな血がへばりつき、先端から、たらたらと糸を引いて、足元へしたたっている。ぎらつく刃先から垂れる赤く粘った玉は、まさに彼女が「たった今、誰かを殺したばかり」であることを告げていた。

 見れば、女の着ている紺の服も、そこかしこがどす黒く染まり、返り血を浴びていると分かる。なのに、この至近距離から、血の匂いなど全くしないのだ。まるで悪夢を見ているようだ。


 女は肩ぐらいまでナイフを振り上げ、次の瞬間――

 心臓が止まりかけた。

 その顔が、いきなり「ぐるん!」と、こっちを向いた!


 その恨みに満ちた上目づかいの目は、今や数センチの距離から私の顔をえぐるようににらみつけている。口元を悪意にゆがめて笑い、それはゆっくりとひらかれた。蛇のように裂けた口のなかにまっかな舌が見え、そこからこれ以上ないほどに低く、恐ろしい、ひしゃげた笑い声が響いた。

「ひひひひひひひひひひひひ!」

 空疎なあの世のものの笑い。

 そして次の瞬間、すべてを決定する、あるものが私に打ち下ろされた。法廷のハンマー。私の運命を確定する非情な現実が、憎悪の言葉になって女の口から吐き出された。笑いよりもさらにどす低い、老婆のようにしわがれた声だった。

「見てないと思ったかい! あたしがおまえを見ていない、とでも思ったかい! 思ったかい!」

 口元が裂けるほどに吊りあがり、女は嘲り続けた。身も凍る恐怖と共に絶望が襲った。

(ああ、こいつはやはり、俺を見ていたのだ!)(最初から、初めて俺が見たときから、こいつは、ずっと、こうするつもりでいたのだ!)

 女は体もくるりとこちらを向き、ぎらつく刃物を大きく振りかざした……。





 ……そのあとのことは、おぼろげにしか記憶にない。あらん限り絶叫し、ただ狂ったように走ったことは覚えている。通路を死に物狂いに駆けに駆け、気づけば、入り口から岸に出ていた。

 私が走るあいだじゅう、背後で、ひゅんっ、ひゅんっ、と風を切る音がしていた気がするが、はっきりとは分からない。だが慌てて自転車に飛び乗り、人や車に当たりそうになりながら、なんとか家に帰れたのは確かである。



 部屋で着ていたシャツを脱いで見て、ぞっとした。背中の肩の下あたりのところに、真横に長さ数センチほどの切り込みがいくつも入り、背中の皮膚も薄く切られ、うっすら血がにじんでいたのである。

 奴は橋の入り口寸前まで追ってきたのだ。だがあのとき、後ろで足音はしなかった。おそらくあの女は、宙に浮いて移動し、空中から私のすぐ後ろに迫っていたのだ。橋がもう少し長かったら、きっと殺されていただろう。

 二度とあの付近には近づくまい、思い出すまい、と心に誓った。





 だが数日たって落ち着いてくると、あの橋のことが気になって仕方なくなった。

 翌週の休みには、再び自転車であそこへ向かっていた。自分と同じように恐ろしい体験をした人が、きっとほかにもいるはず。放っておいたら、これからも被害者が出る。そう思うと、いてもたってもいられない。すでに何人も殺されているかもしれないのだ。


 先週と同じように、水道道路を通ってわき道から森に入り、自転車を押して生い茂る木々の間をぬっていく。すると唐突にひらけて、青い湖がぽっかりと顔を出す。

 ところが、湖の左はしを見て驚いた。

 橋が――

 ないのだ!


 場所を間違えたかと思い、近くまで行ったが、あのとき見た向かいの土手に、同じ板張りの茶屋があるから、ここで間違いない。今日はあいていて、気のよさそうな、タオルを首に巻いた爺さんがいたので、声をかけてみた。平日の昼で客もいないし、彼は店先に出ている色あせた木組みのテーブルと椅子を雑巾で拭いていた。

「すみません、ここに橋があったと思うんですが」 

 指さして聞くと、彼は顔をあげてこっちへ向き直った。

「はし? ああ、橋ねぇ」

 彼は機嫌よく、しかし驚くべきことを言った。

「店の前にあったよ。はっきりいって、いらん橋だったけど、市が決めたらしいし、ま、客寄せだな。こんなとこに建てたって、俺んとこに客が来るだけで、経済効果はなかったと思うけどな。


 ところがさ。建てはじめたはいいが、市の予算がなくなったってんで、向こう岸に着く前に、工事が中止になっちまったんだよ。いい加減だよ、ほんとに。

 そんなわけで、あの桟橋は途中で終わっちまってて、長々と歩いてった奴は最後にバカを見る、って具合だった。しかもほら、あんなに脇から木が生い茂ってるだろ。あん中に入っちゃって、先が見えねえんだ。ずいぶん苦情が来たよ。

 それで『この先、行き止まり』って立て札が出てな。それからは釣りする奴ぐらいしか、あんなとこに行くようなのはいなくなったがな。まったく、切れ目までわざわざ行って釣り糸たらす奴の気がしれんよ。



 ところがだ。それから少し経つと、今度は立て続けに自殺が起こってな。橋の先まで行って、そこから身を投げるんだ。

 最初に死んだのが若い女で、理由は分からんけど、橋のいちばん先に座って、ナイフで自分の喉をかき切って、そのまま水に落ちたんだ。身の毛もよだつようなことするよな、ほんと。

 それからだ、何人も後追いみたいに自殺者が出るようになったのは。地元は、しょうがねえから橋の周りをぐるっと金網で囲っちまって、どん詰まりのとこは金網の上から板まで打ちつけて、誰も身投げできないようにしちまったのよ。入り口も板を張ってふさいだから、俺は自殺者がのこのこ入ってくとこは見たことないけどな。


 自殺した奴は、サラリーマンとか年寄りとか、誰もお互いに関係ないんだよ。きっと、なんかあったんだな、あそこには。最初に死んだ女がまだそこにいて、そいつらを呼んだのかもしれん。俺は幸い、大丈夫だったがな。

 幽霊とかは見たこともねえし、俺にはそういう能力てえのは無いと思うんだが、それでも店からあの橋を見ると、なにか気持ち悪かったもんだよ。雰囲気がおかしいんだよ。なにもしてないのに、なんだか後ろめたい気になるんだ。誰かに恨まれてるような、ね。



 あれがやっと取り壊されたのは、もう三年も前さ。じっさい無駄だったし、入り口から無理やり入るバカが後を絶たなくてな。幽霊が出る名所だってんで、若いのが騒ぎに来るんだよ。俺は夜はここにいないからいいが、近くには民家もあるし、はた迷惑だよ。俺は女の幽霊なんて一度も見たことないがな――おや、どうした、顔色が悪いぞ。

 まあ、あんな橋、なくなってほっとしたよ。


 ――ただ、今もたまに、ほら、こんなふうに涼しい日に湖面を眺めるとな、あの桟橋があった場所から、あの嫌な感じがしてくるんだよ。

 今もこうして見てると、感じるんだ。あの女、あんがい、まだあのへんをうろうろしてるのかもな。次の奴を探してさ……」




   xxxxxxx




 以上は、とある会社員の男性が残した手記の全文である。彼はこの後、ある日の早朝、自転車で出かけたまま失踪した。ここに書かれているT湖周辺を警察が隈なく捜査したが、結局見つからなかった。

 この手記の内容から、警察が湖のほとりにある茶店の主人に写真を見せて質問したところ、確かに彼だと言い、話した内容も手記のものと一致したが、主人はそれ以上のことは何も知らなかった。

 ここはかつて自殺の名所であり、幽霊の噂も絶えなかった場所であるが、この手記に書かれている内容はあまりに非現実的だというので、結局、捜査は打ち切られてしまった。



 この失踪者の男性には、霊感があったものと思われる。おそらく彼がここへ来たときに、まだほとりに女性の悪霊が張りついていて、彼の持つ周波とつながり、壊されたはずの橋が幻となって現れたのだろう。彼はまんまとおびき寄せられ、危うく霊に殺されかかったが、すんでのところで逃げおおせた。そこまでは、手記に書かれている通りである。


 しかし、そのあとが分からない。いったん助かったあと、彼は別の日の朝早く、家族に何も告げずに自転車で家を出て、そのまま行方不明になっている。そこから先は手記に書かれていない。

 またT湖に行ったのかもしれないが、その痕跡はなく、茶店の主人もその後、彼を見ていないという。




 その日、いったいなにが起きたのだろうか。女性の悪霊が、橋でしたように、浮遊して男性を追っていったのだろうか。あるいは逆に、彼のほうが誘われて、霊を追いかけたのだろうか。いずれにしろ、これ以上考えても憶測の域を出まい。

 ただ、はっきりしていることは、もし、まだ女性の霊があの湖のほとりにいるのならば、いつか必ず、またこの男性のような犠牲者が出る、という事実である。





 あなたがもし、どこかの湖のほとりで、湖上を横切る奇妙な橋を見つけても、渡らないほうがいいだろう。そこには怨念たぎる異界のものがいて、刃物を振り上げ、追いかけてくるかもしれない。(終)

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