第35話 生きる糧
仲間が苦しんでいる姿を見るのは初めてではない。
これまで幾多の戦いを共に経験してきた。その度に誰かが――と言っても、とりわけ多かったのは大剣を背負ったあの
だが今回は違う。
魔族相手に戦った挙げ句の名誉の負傷ではない。同じ人間、それも同じ国の人間によって大切な仲間が傷つけられたのだ。
こんな事があっていいものなのか、とクラルスは心が痛む。しかし自分の心の痛みなど、どうでもいい事。今は彼女の命を繋ぎ止める事に集中しなければならない。
そうしてクラルスは、懸命に死から抗おうとしている彼女に向かって言葉をかける。
「アルキュミー……! 気を保って、しっかりして下さい!」
「う、うぅ…………クラ、ルス…………」
呼吸が荒い。声を出すのがやっとなのだろう。
だが止血の為に手を当てていた腹部からの出血は治まりつつあった。紺碧のローブには目新しい赤い滲みが広がってはいるが、なんとか一命を取りとめたと言っていいだろう。
クラルスが使用した聖位魔法――
なんとか危機は脱した。そんなほんの少しの安堵とは裏腹に、クラルスは自分の不甲斐なさに表情を暗くする。
今ここで治癒魔法が使う事が出来たなら、彼女の苦しみをすぐに癒やす事が出来たのに――そんな思いがクラルスの表情に表れた。
聖位魔法に属する治癒魔法は、聖殿でしか行使できない。それは聖殿の持つ聖なる魔力を媒介にして、治癒魔法を行使するからである。
聖女と呼ばれる者であれば聖殿の加護がなくても治癒魔法を使えると聞くが、クラルスはただの神官だ。たとえ天賦の才を持っていたとしても、今の彼女ではそれは叶わない。
今この場でクラルスに出来る事は、ただアルキュミーの生命力に委ねて回復を祈る事しか出来なかった。
アルキュミーは刺された腹部を襲う痛みに耐え、言葉を振り絞る。虚ろになりかけた視界はおそらくクラルスに向けられている。
「ル、クルースは…………無事、な……の…………?」
この期に及んで自分の身体より
「ええ。彼は……ルクルースは、無事ですよ」
「そう…………よかった」
アルキュミーはそこまで言って、安心したのか眠るように気を失った。目を閉じた彼女の顔を見つめ、クラルスは小さく息を吐く。
私に出来る事はこれだけだ、と無念さを表すように唇をきゅっと噛み締めた。
* * *
テネブリスは自身が抱く感情に困惑していた。
それは、沸々と湧き上がる静かな怒り。だが何故なのかがわからない。
魔王に挑まんとする愚行に対して?
自身の目的の邪魔をした事に対して?
それとも――
(ふん、何もかも……鬱陶しい!)
意識を現実に戻したテネブリスは、黒装束――イドラから繰り出される息もつかせぬ素早い刺突を、退魔の剣を使ってかろうじて凌ぐ。
退魔の剣――文字通り魔族に対しては凄まじい切れ味を発揮するが、相手が人間となると話は別だ。ただの漆黒に染まった
相手の得意とする土俵で、わざわざハンデを背負ったまま戦うなど愚かな行為だ。だが、そんな状況からなかなか脱する事ができない自分に苛立ち、舌を鳴らす。
(ちっ、人間にしては中々やる……!)
反撃の隙を与えぬ怒涛の連撃に、テネブリスは次第に防御が追いつかなくなる。ついには、
(へっ、勇者と言っても案外大した事ないな……王国で見せたあの迫力は、ただのこけおどしか?)
イドラはテネブリスの剣戟の稚拙さに口元を緩ませる。これまで見てきたテネブリスの戦い振りを考えると、まだ実力を全て出し切っていない事はわかる。だが実際に相対してみると、想像以上に剣の扱いが拙かった。接近戦の熟練者であるイドラからしてみれば、まるで大人と子供。それほどの実力差だった。
(いかんいかん、この調子だとうっかり殺してしまいそうだ……ここで殺してしまっては陛下の命令に背く事になってしまう。今までの監視が水の泡だ)
誅殺部隊とって尾行や監視などお手の物。だがイドラには更に、暗殺者としての恐るべき
自身の魔力を周囲の風景と同化させ、存在を認識させなくする。目に視えないのはおろか、魔力の認識すら阻害するその能力を駆使して、様々な標的を裏で殺してきたのだ。
イドラは仮面の下に不敵な笑みを浮かべ、
すると、まるで最初から存在しなかったかのように黒装束の姿が消失する。
(消えた……!? ちっ!)
怒涛の剣戟が止んだと思えば、突如として姿が消える。舐められたような行動に、テネブリスは不快感をあらわにした。
だが、あの鬱陶しい剣戟が止んだのはテネブリスにとっては好機。この隙に、即座に魔法を詠唱する。
「人位魔法――
目に視えずとも、周囲にいるのは明らか。故に、対象を指定する魔法ではなく、範囲魔法を選んだ。
テネブリスの周囲十メートル以内にいる者は、体感時間を三分の一にまで遅延される。初手にこの魔法を使ったのは、範囲魔法である事以外にも理由がある。それはこの後に使用する魔法――その長ったらしい詠唱を確実に行うためだ。
「
イドラの目には、動きの止まったテネブリスの姿が映っていた。
敵の姿を見失い、もはやどうする事もできなくなって立ち尽くしているのだろう、としか思えなかった。どこから見ても隙だらけの様子に、イドラは破顔する。
(ひひっ、さて……どこから痛めつけてやろうか。まずは腕? それとも足? そうだ、あの女と同じように腹でもいいなぁ!)
手に握る
(ん……? 景色が、遅い……? それとも俺が早すぎるのか……? いや、待てよ……何か言ってるぞ…………? ダメだ、遅すぎて何を言ってるのか聞き取れん。一体、なん――――――)
そこでイドラの自我は途絶えた。彼が最期に見たのは、テネブリスの凍てつくような残酷な笑みだった。
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