第50話 公爵令息、妻に陥落する(ナゼルバート視点)
ナゼルバートはワイバーンのジェニの上で取っ手を握りながら思考停止した。
「しゅき!」
それは、目の前のアニエスから発せられた破壊力抜群の言葉。
好きと告げようとして噛んでしまったのだろう。控えめに言ってめちゃくちゃ可愛かった。
頭の中でアニエスの「しゅき!」が何度も繰り返される。こんなときでなければ力強く抱きしめてキスして、その後はどうにかなっていたかもしれない。
だが今は紳士的な対応を心がけるべきだと、ナゼルバートは己に言い聞かせる。
同時にジェニの回転が止まった。
「ナゼル様、き、聞こえましたか?」
消え入りそうな声で問うアニエスの背中は不安そうだ。
そういえば彼女は以前から、自分に何かを伝えようとしていた。
そのたびに邪魔が入ったけれど、もしかして……
頭の中で再び「しゅき!」という可愛い声が響く。
そういうことかと理解した瞬間、ナゼルバートはアニエスが今まで以上に愛おしくてたまらなくなった。
「アニエス、ちゃんと聞こえたよ。俺と同じ思いでいてくれたんだね。とても嬉しい」
応えるとアニエスは耳を真っ赤にしていた。表情が見たくてたまらないけれど、今は安全飛行を優先しなければならず残念だ。
しばらくジェニの回転に付き合いながら、屋敷の方角へ向きを変える。
中心街まで戻ってきたので回転の練習は中断し、普通の飛行に切り替えた。
賢いジェニは自ら屋敷の庭に向かって飛んでいく。
「もう取っ手から手綱に持ち替えて大丈夫だよ、アニエス」
「はい、先生」
ナゼルバートは再び湧き上がる衝動と戦う。「しゅき」だけにとどまらず、アニエスの「先生」呼びにもぐっときてしまう自分は一体。
「ねえ、アニエス、こっちを向いて?」
「え、はい?」
くるりと振り返った彼女はナゼルバートを見て、予想通りみるみるうちに赤くなっていく。可愛すぎでは?
我慢できず、ナゼルバートはぷっくりとした桃色の唇をついばんだ。
「ふ、ん、むぅ」
手綱を握ったままのアニエスは目を閉じて甘い声を発している。
ジェニは上に乗る二人を気にせず、徐々に降下して屋敷の庭へ降り立った。
この日の騎乗訓練は終了だ。
名残惜しいような、安全な地上でアニエスを構い倒したいような相反する気持ちを抱きながら、ナゼルバートは先にジェニから離れて地面に着地する。そして振り返り……
「アニエス、飛び込んでおいで」
いつものようにアニエスに向けて両手を広げれば、彼女はさらに赤くなった顔で躊躇し始める。
「ひ、一人で降りられますっ!」
けれど、アニエスは飛び降りる選択しかできない。
なぜなら着地地点にはナゼルバートが立っており、彼女が一人で降りる邪魔になっているからだ。
血色の良い頬を膨らませたアニエスは、しばらく自力でなんとかしようと奮闘したが、やがて観念してジェニの背中からナゼルバートに向けてジャンプした。
天使のような妻をしっかり抱き留め、ナゼルバートは満足する。
彼女に出会うまで、自分にこんな強情な一面があるとは知らなかった。
「お疲れさま。アニエスはとても騎乗が上手だね、騎士団の新人でもこうはいかないよ」
「本当ですか?」
「騎乗において大切なのは技術はもちろん、騎獣との信頼関係だからね」
「なら、ジェニのおかげですね」
庭を歩こうとしたアニエスはふらふらした足取りになっている。騎乗に慣れないうちは誰もが通る道だ。初めてスートレナへ来たときも、彼女はふらついていた。
ナゼルバートはアニエスを抱きかかえて屋敷に運ぶ。
中に入るとケリーが待っていた。
「ケリー、アニエスをよろしく」
ひとまずアニエスを部屋までつれていき、侍女のケリーに預ける。
長時間動いたため、ナゼルバート自身も体を拭いたり着替えたりしなければならない。
「アニエス、またあとでね?」
「は、はい。ナゼル様、ありがとうございました」
入れ替わりで、ケリーがアニエスに話しかける。
「アニエス様、筋肉痛になるといけませんから、先にマッサージをしましょう。横に寝てください」
相変わらずケリーはアニエスを気に入っているようで、彼女に対してはとても過保護だった。
扉を閉めると、中からアニエスとケリーの会話が聞こえてくる。
「アニエス様、全身が凝っております。本の読み過ぎでは?」
「そうかも。早く領地のことを覚えたくて……」
「無理はいけません、ほどほどにしてくださいね。こちらもほぐしておきましょう」
「ん、んん……は~ん、気持ちいい~」
無防備なアニエスの声を扉越しに聞いて、ナゼルバートはちょっとだけドキドキした。
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