綾汰と母

 五歳の時に父が再婚し、新しい家に連れてこられた時、見慣れない天井、見知らぬ土地、急に増えた家族……という環境の変化について来られず、綾汰はいつも緊張状態にあった。


 体が憶えている、安らぎの世界。生まれてから物心つくまでずっと育っていた環境。そこに戻りたい、と思っていたのかもしれない。


 そんな風に晴れない気持ちの日々を過ごしていたが、ある日、母が友禅作りをしている現場に立ち会った。


 なぜ、その現場にいたのか、綾汰は憶えていない。そこが工房だったのか、自宅だったのかも定かではない。


 母は彩色をしていた。


 窓の外では、雪が降っていた。きっと時季は冬だ。白雪舞う金沢の町を背にして、生地の上に梅の絵を描いている。母が筆を動かす度に、パッと赤い梅の花が一つ、また一つと咲いてゆく。


 まるで、母の筆が舞うことで、新たな生命が誕生しているかのようだった。


 その様が面白くて、夢中になって、綾汰は彩色作業を眺め続けていた。


『綾汰もやってみる?』


 笑顔で、母は問いかけてきた。


 興味津々だった綾汰は、喜んで、母に近寄った。そこで、筆を渡された。


『姿勢はどんな形でもいいわ。でも、筆の置き方はちゃんと、こうやって立てて、横向きに寝っ転がらないようにするの』


 母は、綾汰を自分の膝の上に座らせると、後ろから手を添えて、筆遣いの指導をしてくれた。


『梅の花びらを見て。先端の色が薄くなっているでしょう? この斜めになっている筆を使うの。ほら』


 写実性を増すための技法、「先ぼかし」まで、母は教えてくれた。


 今から思えば、この時彩色していたものは、売り物ではなく、展示会用の作品だったのかもしれない。さすがに売り物に、五歳の子供の手を加えさせるわけにはいかない。とはいえ、展示会用の作品だって、そんなことは許されないが、変わり者で評判だった母だから、そんなことをしたとしても不思議ではない。


 なぜ、母が自分に彩色体験をさせてくれたのか、綾汰には理由はわからない。


 けれども、新しい家で精神的な壁を作っていた綾汰のことを、心配してくれていたのは、なんとなく想像はつく。


 あの時、母が最もやりやすい距離の縮め方は、友禅作りを通して仲を深める、という方法だったのだろう。


 事実、綾汰は、あの日を境に、母のことを母として慕うようになっていった。


 たった一年ほどの短い時間ではあったけど、母の愛、を綾汰は教えてもらった。あのかけがえのない母との日々があったからこそ、友禅作家になるための七年間の修行も耐え抜けたのだと、綾汰は思っている。


 諸刃の剣で、母に自分の成長した姿を見てもらいたい、という叶わぬ想いで、狂おしいほどの寂しさを感じてはいるが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る