綾汰現る

(落ち着け、自分。こんなのは想定していたことじゃないの)


 胸を撫でながら、ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせようとする。百歩譲って、弟の話が出るのはまだ許せる。大丈夫、これ以上、話が広がらなければ――


「そういや、上条も、たしか友禅の修行してたよな」


 雑誌を見せてきた同窓生の一言で、藍子の顔から笑みが消えた。


 かろうじて口元はまだ緩んでいるものの、目はすわっている。そんな目で、同窓生を真っ向からジッと見つめ、抑揚のない声で、藍子は端的に言い放った。


「やめてもらっていい? その話」


 さすがに空気が変わったのを察したのだろう。相手は「お、おう」と動揺しながら、雑誌を鞄の中に戻した。


 他のみんなも二度と友禅の話には触れようとしなかった。


 きつい物言いだったかな、と藍子は反省したが、これ以上友禅の話をされたら、もっと場の雰囲気を悪くしていたかもしれない。仕方のないことだと、自分に言い聞かせた。


 とりあえず頭の中を切り換えよう、旧友達と楽しくお酒を飲もう。そう思って、藍子はサワーのジョッキを手に取り、グイッとあおった。


「奇遇だね、藍子さん。飲み会?」


 聞き覚えのある声が背後から飛んできて、藍子は思わずサワーをブフッと噴き出した。

 濡れた口元をぬぐい、後ろを振り返る。


「な、な、なんで⁉ ここにいるの⁉」


 まさかの、弟の綾汰が、そこに立っていた。


「僕もここで飲み会なんだよ」


 ニコニコと笑いながら、綾汰は事情を説明する。


 どういう偶然だ。神様はそんなにも自分を苦しめたいのか。すっかりパニックになった藍子は、振り返ったまま身を硬直させていた。


「おおお、友禅王子だ!」


 誰かが声を上げたことで、場はざわめき始めた。


 さっきまで話題にしていた、雑誌に載っている友禅作家本人が、いきなり現れたのだ。騒ぎになるのも当然だ。


「ねえねえ、ここ空いてますよ! 少し、座っていってくださいよ!」


 鼻息荒く、美鈴が自分の隣の座布団をバンバンと叩いた。


「じゃあ、ちょっとだけ」


 綾汰は座敷に上がると、軽やかな所作で、行儀よく正座した。掘りごたつであるにもかかわらず、足を崩さない。

 その、いかにも伝統産業に携わる作家らしい振る舞いに、藍子の旧友達は嘆息を漏らした。

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