第38話 乳母

「大丈夫よね……?」

「大丈夫。少ししか口にしておりませんし、殿下を残したままベスタが逝くわけがありませんもの」


 サーリアがそう言うと、返事を期待していなかったのか、驚いたようにヴィスティがこちらを見上げる。


「そうよね」


 ヴィスティは自分自身に言い聞かせるように、小さく言う。そして。


「どうして……?」


 短く、つぶやく。その言葉にサーリアが応えられるはずもなかった。


「誰か」


 サーリアが、黙ってベスタのいる寝所を見つめ続けている侍女たちに声を掛けると、一人が振り向いた。


「お呼びでしょうか」

「陛下を、こちらに。ベスタが倒れたと」


 侍女はそれを聞くと、頭を垂れ、退室していく。

 その背中を見送りながら、サーリアは思った。

 彼になにができるだろう?


 今までのことから言って、たとえセレスが疑わしいとはいっても、内々に処理されてしまう可能性が高い。

 白を切り通せば、それが通る。彼女はそれを知っている。だから、こんなわかりやすいやり方ができるのだ。


 セレスが知らないだなんて、嘘。いただき物だなんて、嘘。

 確信はできる。でも、問い詰められるだけの証拠がない。いや、あったとしても揉み消されてしまうだろう。


 ヴィスティは腕の中で涙を零し続けている。医師はいつまでたっても部屋から出てこない。

 サーリアには、腕の中の小さな温もりがありがたく思えた。もしヴィスティがいなければ、自分自身を保っていられるか、自信がない。

 ふいに腕の中でヴィスティが動いた。


「お父さま!」


 ヴィスティはサーリアの腕の中から離れると、一目散に父の元に駆け寄って、しがみついて声をあげて泣いた。


「……なんだ、これは」


 部屋の中の様子を一瞥して、レーヴィスは呆然として言った。

 侍女たちがベスタの吐血した跡を片付けていたが、床についた血は中々取れず苦労している。

 ヴィスティのドレスは鮮血で汚れていて、彼女は父の足にしがみついて泣いている。

 他の侍女たちは、王が入室しているというのに寝所のほうを見つめたまま動かない。


「ベスタが倒れたと聞いたが……」


 彼が侍女から聞いて想像した光景とは、ずいぶんとかけ離れているのだろう。なにがなんだかわからない様子だった。


「……ええ」

「私じゃないの、信じて、お父さま!」


 しがみついたままのヴィスティがそう泣き叫ぶ。彼は娘の顔を怪訝な顔をして見た。


「私じゃないって、どういうことだ」

「私は知らなかったの、本当よ!」

「なにがあった。ちゃんと説明しろ」

「私は知らない!」


 多少強い口調で言ったのが裏目に出たのか、ヴィスティは知らない、と口にするだけで説明できそうになかった。

 レーヴィスは救いを求めるように、サーリアに目を向けてきた。


「私の……」

「え?」

「私のせいですわ」


 サーリアはつぶやくようにそう言うと、そのまま口をつぐんで目を伏せた。


          ◇


 それでもなんとか侍女たちから話を聞きだすと、レーヴィスはしばらく絶句したまま立ちすくむ。

 しがみついたまま、涙が枯れるのではないかと思うほど泣き続ける娘の肩に手を置いた。

 それからヴィスティを侍女に預けると、寝所のほうに向かって歩き出す。


「陛下、今は」


 侍女たちに止められたが、彼は構わず寝所の扉を開けた。


「ベスタ」

「……まあ、陛下」


 ベッドの上に横になっているベスタが、こちらを見て微笑んだ。

 だが、ぱっと見てわかるほどに、顔色が悪い。


「大丈夫か」

「心配をお掛けして申し訳ありません。わざわざ来ていただいて……」


 荒い息の下で、そんなことを言う。

 レーヴィスはベッドの傍に寄り、枕元近くでしゃがみ込んだ。

 そして手を伸ばし、ベスタの手を取ってぎゅっと握る。


「なんだってしてやる。必ず助ける。だから、気を強く持て」

「……はい」


 そう言って、弱々しく手を握り返してくる。

 その手のあまりの力のなさに、決心する。


 絶対に許さない。

 慈悲など必要ない。

 死んだほうがましだと思うまで、苦しんでもらわねばならない。


「殿下……」


 ベスタの声がして、はっとして顔を上げる。

 すると彼女は握った手と逆側の手をこちらに伸ばしてきて、そしてレーヴィスの頭にその手を置いた。


「レーヴィス殿下? なにを怒っていらっしゃるのです」

「……ベスタ」

「王太子であらせられるのですから、もっと落ち着かれませんと」


 そう言ってにっこりと笑った。

 記憶の混濁。血の気が引いた。


「ねえやはちゃあんと見てますよ? 殿下が良き王になれますように」

「ああ、大丈夫だ。ありがとう……ねえや」


 もう一度手を握り直して、そしてそっとベッドの上に腕を横たえた。

 立ち上がると、傍に控える医師に問う。


「毒物か」

「はい、間違いなく」

「無味無臭の?」


 ベスタがその辺りを警戒せずに食べ物を口にするとは思えなかった。

 無味無臭の毒など、滅多にない。

 とすると。


「そのようです。おそらくは、オルラーフ産の」


 医師のその言葉に、ため息をつく。


「わかった。十分だ。あとは頼む」

「御意」


 医師が礼をするのを見届け、もう一度ベッドに振り返る。

 血に濡れた服。荒い息。玉のような汗。

 すまない、と思う。


 すまない、落ち着くなど、到底無理な話だ。

 レーヴィスは身を翻すと、寝所を後にした。

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