第8話

 ――醜いわたしの本音。

 吐き出した言葉を消し去ることはもうできない。


「傷痕として永遠に、揺るがぬものになれる。フォシアにとって……ヴィートにとって。わたしはただ、そうなりたかったの」


 最後の言葉まで吐き出したとき、胸のつかえがとれたような感覚と同時に、言ってしまったという後悔が襲ってきた。


 ――誰よりもヴィートには知られたくなかった、あまりにも身勝手で卑怯な自分。

 フォシアのために犠牲になったんじゃない。そうすることで、自分という存在を刻みつけたかった。誰にも何にも奪われずにすむように。

 抱え続けた不安から逃げるために利用したとさえ言えるのかもしれない。


「……身勝手だな」


 ヴィートの短い言葉に、わたしの臆病な心が震えた。顔を上げられない。


「置き去りにされた者が、美しい思い出としてずっと持っていてくれるとでも? フォシアに……俺に、抱えきれないほどの傷を与えてなお生きていけというのか」


 厳しい声だった。頭から降るようなその声は、わたしのずるさを糾弾する。

 ごめんなさい、と謝ることしかできない。否、そんな謝罪の言葉さえ卑怯に聞こえるかもしれない。

 気詰まりな沈黙が部屋に充満する。

 今度こそヴィートに呆れられたかもしれない。ずるい女だと軽蔑されたのかもしれない。


「――紳士ぶって待つことなんてするもんじゃないってことか」


 ふいに、ヴィートがそう言って沈黙を破った。

 わたしは弾かれたように目を上げる。視線が絡み合う。

 ヴィートの真っ直ぐな眼差しに体を射抜かれる。彼はそのまま近づいてきて、わたしの腕をつかんだ。


「帰るぞ」


 抗いがたい力で寝台から引き上げられ、部屋からも出される。

 わたしの心臓はとたんにうるさく鳴り始め、それよりももっと騒がしく心が乱れた。待って、とかろうじてつぶやいた声がかすれた。


(どうしよう)


 決意して、神殿へ向かうつもりだった。未練や執着を断ち切る必要があったから。なのに一番会いたくない人が現れ、予想もしなかった言葉を投げかけられて、平常心などとっくになくなっている。


 バーナード氏との約束がある――坂の上をのぼっていかなくてはフォシアを守ってもらえない。

 なのにヴィートの手を強く振り払えない。彼の気持ちを知ったいま、この手を自分から離すことは永遠にできないような気がしてしまう。


 ――だって、ずっとこんなふうに手を引かれたかったのだ。

 ずっとこんなふうに、ヴィートに求められたかった。


 ヴィート、と抗議のつもりで呼んだ声すら、脆く制止にもならない。それどころか甘えさえ帯びているようだ。

 振り向かないまま、わたしの元婚約者は言った。


「待たない。婚約なんてものももういい。帰ったらすぐに結婚する」


 力強く、ヴィートは断言する。

 わたしは震えた。それは甘く後ろめたいさざなみのようなものだった。


 ヴィートと結婚する。

 諦めた、目を背けていた夢。希望。なんのためらいもなくそれに飛び込んで行けたら、両手で抱きしめられたらどんなにいいだろう。


 ――だが、それに酔いしれるわけにはいかない。

 とけかかってしまった理性の力を総動員して、なんとか足に力を入れて踏み止まろうとする。


「待って! わたしがここで行かなかったら、フォシアが――」

「方法なら他にもある。バーナードが要求してきたのは、清らかな身のご令嬢ということだろう。ルキアやフォシアでなくともいい。あるいはバーナード氏の力を借りなければそんなことをしなくてもいい」


 ほとんど即答する勢いでヴィートは言った。

 わたしは言葉を失った。あまりにも単純明快な、それゆえに現実には無理と思える答えだった。バーナード氏の要求だけ見ればそうだし、そもそもバーナードの力を借りないのならというのも尤もだ。――でも後者は現実的ではない。


 わたしの憂いと悲観を感じ取ってか、あるいは気づいて無視したのか、ヴィートはつかんだ手を緩めてくれない。


 けれどヴィートは嘘をついたことも、約束を破ったこともない。言葉少なにうなずいたり首を振ったりして意思表示をしていた少年の面影がよぎる。言葉のかわりに、彼は行動で示した――。


 わたしの手を引いて前をゆく彼の背を、焦がれるように見つめながら、かろうじて声を絞り出す。


「……フォシアが助からなければ、わたしは誰とも結婚できないわ」


 それは自分への戒めであり、最後の理性だった。このままヴィートと共に歩みたい――でもそのために妹の苦難を見過ごすことはできない。

 わたしを無条件に信頼する妹。常に比較されて落ち込むことがあっても、フォシアの向けてくる無垢な信頼があったから、わたしはまだ嫉妬に狂わずにいられる。

 フォシアを見捨てることなど決してあってはならない。


「わかってる」


 ヴィートはまた、端的に言った。わたしの心の声に応えてくれたみたいだった。諭すわけでも釈明するわけでもなく。

 そうして決然と続けた。


「俺はルキアをになんかさせない。絶対に」


 それはいままでに聞いたことのないほど強い宣言だった。

 つかむ手は強く、道を決して過たぬもののようにわたしを導く。

 わたしはなぜか困惑と疑いよりも先に――大きな安堵を感じて、気づけばヴィートの手を握り返していた。




 ――結果からいえば、わたしはヴィートのことを思った以上に知らなかったようだ。

 口下手だと思っていた彼が実は素晴らしい弁舌の持ち主であり、成長したのはその外見のみならず、人脈も同じであった。言葉が足らなかったのは元婚約者に対してだけで、しかもわたしなど目ではないくらいに友人が多かった。


 ヴィートの態度と弁舌が思いも寄らぬところで効果を発揮し、人を動かすというのも後になって知った。人が動けば大きな連鎖を巻き起こす。

 ――栄華を誇ったエイブラの失脚の発端をつくったのはヴィートであり、ヴィートにそこまでさせたのがひとりの女であったことなど、きっと歴史のどこにも記されないだろう。


 わたしは自分の子供に、あなたのお父様は昔とても口下手だったのよと教えてやるつもりだ。そしてお母様もそうだったのよと。

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