第3話

 ヴィートが、うなるようにこぼす。

 わたしは思わず息を止めた。


「……そうなんだな。いつも、そうだ。わけのわからない冤罪を被ってまですべてを捨てようとしてるのは、フォシアのためだ」


 ――かつ、と小さな音がした。

 その音に弾かれて、わたしは顔を上げる。ヴィートの目と合う。

 鋭く、けれどまっすぐにわたしを見つめてくる目だ。


 かつ、と音をたて、ヴィートがもう一歩踏み出す――彼の靴が地を踏んでたてる音。わたしのほうへ、坂を下りてくる。


 彼の体から常にもまして威圧感が放たれているようで、わたしは無意識のうちに一歩後じさった。

 まるで――断罪されるのをおそれる咎人のように。


 ヴィートの双眸は、声は、明らかにわたしを非難している。

 それでも、彼の怒りに怯んだ心が、少しずつ反発を覚えていく。

 


「……なぜ、そんなことを聞くの」


 強ばっていた舌で、なんとかそう言葉を絞り出した。

 ああ、そうだ。なぜヴィートはこんなところにいるのだろう。


「わたしのことが嫌いだと――そう言ったじゃない」


 そう口にしたとき、声がかすかに震えた。

 ――口論になった最中でその言葉を投げつけられたとき、一瞬頭の中が真っ白になったほどだった。


 わたしはヴィートに嫌われてしまった――ヴィートの心はフォシアに傾いたのかもしれないと、耐えがたい痛みの中でそう思ったのに。

 その痛みが、わたしをここまで運ぶ大きな力の一つにもなっていたのに。


 ヴィートは顔を歪め、慌てるでもなく答えた。


「嫌いだ。その……フォシアを何よりも優先するところが」


 わたしは一瞬、耳を疑った。思わずヴィートの顔を見ると、戯れの気配も冷笑の兆しもなかった。張り詰めたものが伝わってくるほど、険しくも真摯な顔をしていた。

 かつ、とまた彼の靴が音をたてる。距離が詰められる。


「――それでも俺は、フォシアを大切にするところはルキアの良さだと思っていた。ルキアが優しいのは俺もよく知っている。妹を大切にする姉というのは、美徳でありこそすれ非難すべきものじゃない。だから、嫉妬を感じるなどというのは恥ずべきことだと、ずっと自分に言い聞かせてきた」


 再びかすかな音。彼が更に距離を詰めてくる。

 わたしは動けなくなっていた。ヴィートの目が、その言葉がわたしの体を呪縛する。

 ――嫉妬。誰が、誰に?

 はじめて聞かされたその言葉が、大きな鐘のように頭の中で反響する。混乱する。


 気づけば、自分の婚約者であった人が間近に迫っていた。


「だが、間違いだったらしい」


 ヴィートの唇がかすかに歪む。冷笑よりもなお鋭い笑み。

 わたしは自分がかすかに怯えていることに気づいた。

 ――こんなヴィートは知らない。


「俺は、ルキアにとってフォシアの半分ほどもないのか。ルキアの中で、俺はこれほど簡単に切り捨てられる存在でしなかったのか」

「! そんなこと……っ」


 投げかけられた言葉が胸を貫き、とっさにわたしはそう反論した。

 ――ヴィートがこんなふうに思っていたなんて。

 けれどわたしの言い訳を遮るように、ヴィートは言葉を被せた。


「いっそ本当に嫌いになってしまえたらどんなに楽だろうな。俺をあっさり捨てて神殿に入ろうとするルキアなんて。待っても結局振り向いてすらくれないと突きつけられただけだというのに」


 とんだ道化だ、とヴィートは自嘲する。

 怒鳴るでもない、皮肉まじりの静かな糾弾はわたしから言葉を奪った。ぎゅっと胸が締め付けられて、言葉が出てこない。


 ヴィートをこんなふうに傷つけてしまっていたなんて。

 絞められたように感じる喉を必死に叱咤して、ごめんなさい、と震える言葉をこぼした。

 ――それでも、とっさに脳裏に浮かぶのはヴィートとフォシアの仲睦まじげな姿だった。

 世間が、噂にするほどの。


「でも……あなたはフォシアと仲が良さそうに見えたから。その、わたしよりよほど相性がいいのではないかと思って」

「……だから俺を捨てたと?」

「ち、違うわ! ただ、二人が一緒にいるほうが幸せになるのなら……」


 その先の言葉は濁すしかなかった。ヴィートを捨てるだなんてありえない。だがそれならばなぜと言われたら、自分が恥ずかしく思えてくる。

 ――わたしは、二人に嫉妬していた。


 ヴィートはまた唇の端を鋭くつりあげた。誰ともなく嘲るような表情だった。


「それで身を引こうとしたと? ……ますます俺は道化だな。フォシアと接する機会が多かったのは、ルキアという共通点があったからだ。俺は、ルキアの好みや考えをフォシアにたずねることが多かった。時に……フォシアに、少しルキアと距離を置いてくれとも言った。そうでもしなければ、ルキアは俺に振り向かないから」


 わたしはまた、何度目かわからぬ衝撃を受けた。

 ――ああ、まさか。

 胸の底で重くわだかまっていたものが、一気に解けていく。


「フォシアにとって、俺は唯一の異性の友人だという。実際、フォシアから親愛以上のものを向けられたことはないし、俺は他の男のような目でフォシアを見ていない。そして互いにルキアという共通項がある。いずれ義兄になるのが楽しみだと言われたし、俺も、フォシアはほとんど妹のように思っている」


 ――それに、とヴィートは一拍の間を置いて、続けた。


「……フォシアに良くしたほうが、ルキアから好感を持たれるだろう? もっとも、それが逆効果になったみたいだが」


 ヴィートは唇の端をつり上げる。

 びく、とわたしの肩は勝手に揺れた。

 いまこの瞬間に、胸に去来したものをどう表現したらいいのだろう。


 ――フォシアを利用されたことへの怒り? あるいは、ヴィートがそこまで自分を想ってくれたことへの暗い喜び?


 黙りこむわたしをどう捉えたのか、ヴィートの口元からあの鋭い笑みが消えた。



 ふいにその言葉が耳に飛び込んで、わたしは息を止めた。

 ――かつて他ならぬ自分が彼に投げかけた言葉。

 なのにいま、まるで、いまのわたしを咎めるような響きだった。


「……言葉にしろと、ルキアはずっと言っていたな。こんな本音を言葉にしてしまえば嫌われると思っていた。だが、黙っていても意味をなさないのだから、もういい。俺は、ルキアほど善良でも慈悲深くもない」

「! ち、ちが……っ」


 ――俺は、ルキアほど善良でも慈悲深くもない。

 その言葉が、ふいに横頬をたたいた。ヴィートにそんなつもりはないのだろう。だが強烈な皮肉を浴びせられたようでかっと頬が熱くなる。


 かつ、とまたあの音。

 それが最後の一歩だった。

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