第八十六話『とある春の日より』
少し時が経って、桜の
「志東さん、お餅もう飽きたよぉ」
「しょうがないじゃないですか、上の階の人に死ぬほど餅貰ったんですから」
「うぅえぇ」
門松なんて置いてあるのは、ここのアパートか行きつけの喫茶店くらいだ。それすらも、もうしまわれてる時期なのに、僕達はお正月の餅に縛られている。
「食べたら、今日も店に行ってからギルドに行きましょうか」
「そ、そうだ、きなこに、きなこに醤油をかければ新しい味に……」
震えた声で迷走するモルは置いておいて、僕は一足先に着替えておくことにした。
「今日も、仕事はなさそうだなぁ」
ため息混じりに、そう呟いた。
冬の仕事以降から、仕事がめっきり減ったのだ。
なのでここ最近は、お金を稼ぐためにギルドで冒険者として活動している……。
ん、あれ、ボタンが、固いな。
「……よし」
冒険者の仕事はそこそこ儲かる、武器や服を新調できる具合には儲けさせてもらっている。
近々ギルドが建設している大型の施設ができるらしく、冒険者間でも賑わいを見せている。
その塔は街の高台に建てられていて、外を歩いていると、天にも届くほどの塔が毎回目について気になる。
「志東さん、はい、あーん」
「その手には乗らないですよ」
「うぅ、ひどい、志東さん、私の気持ち受けとってくれないんだ」
醤油に浸ったきな粉餅を、押し付ける気持ちとな。
悲しそうな素振りを見せていたにも関わらず、嘘だったかのようにモルは天真爛漫に笑っている。
「意外と美味しいから!ほら、騙されたと思って騙されてみて!」
「じゃあ、一口だけ」
「はい、あーん!」
1口と言いながら、食べかけのを丸ごと口に入れられてしまった。なんとか、咀嚼して、飲み込んだ。
味は、ううん、なるほど。
なんというか、こう。
「喉が渇く味ですね」
「でしょー」
そんな、平々凡々な午前だった。
〇
「どうぞですです」
「あの、ウルくん、ツケって今どれくらい……」
「えっと、2の、3の……、こんな感じですです」
「うわあ」
紅茶を嗜むマリアナといちごミルクパフェを愛でるモルをよそに、僕はウルくんに突き付けられた手帳を見て肩を落とした。
手帳には、きっちり代金がメモされている。
「あの、1時間で紅茶100杯以上飲んでるの、なんですかこれ」
「喉が渇いてね、ついつい」
「紅茶って飲みすぎると貧血になるらしいですよ」
ついついってレベルの話じゃない気がする、1時間に100杯ってことは36秒に1杯を飲んでる計算になるのか。
わんこ蕎麦じゃないんだから。
「まぁまぁ、人のお金で飲む紅茶ほど歯止めの利かないものはないじゃないか」
「血も涙もあったもんじゃありませんね」
「志東さん、志東さん」
モルが上機嫌に僕を呼んだ、尚も愉快そうにマリアナは笑っている。
僕は癒しを求めて、モルに頼る事にした、
「なんですか」
「血も涙もないって、貧血だけに?」
してやったり、といった感じでキメ顔を見せるモル。それとは対照的にマリアナの笑いは止まった、僕の顔もきっと神妙な面持ちになっている事だろう。
一瞬フリーズしたものの、すぐに自分の仕事に黙々と戻るウルくんは尊敬に値する。
「……ズズズー」
「……」
マリアナに紅茶は音を立てて飲まない方がいいことを、教えるべきだろうか。
音を立てていいのは例えば蕎麦とか……って、なんだろう、今日はやたら蕎麦が出てくるな。
「え!?私のせいなの?この空気!」
気まずい空気に押しつぶされそうになって、モルは狼狽える。
「上手い具合に殴りますよ」
「うまいぐあい?」
とりあえずこういう時は、適当に終わらせるに限る。
モルはピンときていないようだが、僕の経験則に間違いはない。
さて、それはそうとしてそこに置いておくとして。
「それで、仕事の方は」
「あぁ、その話なんだけどね、しばらくは君に仕事は回ってきそうにないよ」
「どうしてなんでしょうか」
「さあ?まあ、春休みだと思えばいいさ」
店の外を歩く通行人も、少しづつ増えてきた気がする。
窓から差し込む日差しが、並んだグラスをキラキラと輝かせている。
静かだった街が、少しずつ賑やかに彩られている。
「春休み、ですか」
せっかくなら、ほかのギルドがある街に出稼ぎにでも行こうかな。旅行ってことなら、モルも喜ぶだろうし。
せっかくなら、景色がいい所とか。
「え、志東さん、ひとくちいる?」
僕に見られている事に気が付いたモルが嫌そうな顔で、フォークに刺されたイチゴを差し出した。
差し出されたイチゴは、とても甘そうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます