8:27 Medusa B ─メデューサB─
「──? 私はどうなって……?」
大蛇の風穴の最深部。
ふと我に返ればミールが立っていたのは暗闇に包まれた空洞の入り口。彼女は周囲をゆっくりと見渡し、
「……! ヤミちゃん!」
「……ん、んんっ?」
「ヤミちゃん、大丈夫なのヤミちゃん!」
「ミ、ミール様? こ、ここはどこでしょうか?」
倒れているヤミの姿を中央の足場に見つけ急いで駆け寄る。そして何度か呼びかけるとゆっくりとヤミが瞼を開く。ミールはヤミが目を覚ましたことで胸を撫で下ろしていると、
「きゃっ……?!」
突如上空から落下してきた物体。ミールは驚きながらもその物体へ視線を向ける。
「……」
「──転生者様ッ!!」
それは物体ではなく人間。もっと言えば転生者のアレクシア。関節があらぬ方向へ捻じ曲げられ使い物にならない右腕。喰い千切られたのか足首から先を欠損した右脚。まるでボロ雑巾のように肉体を弄ばれていた。
「転生者様! しっかり、しっかりしてくださいッ!!」
ミールの呼びかけにアレクシアが応じる気配はない。気を失っているのか、それとも既に息を引き取っているのか。それすらも見極めがつかぬほどミールは焦燥感に駆られていた。
「キャッキャッ! コワれたシャボン玉に声を掛けてもムダだよ──ミールオネエちゃん?」
「……っ!」
「ひ、ひぃいいぃいッ!?!」
そんなミールの目前まで迫ってきたのはメデューサの顔。ヤミは悲鳴を上げ、ミールは息を呑んで刺突用の片手剣を左手に構え、その矛先を巨大な顔に向けたが、
「あなたは、あの時の……」
「ミ、ミール様……?」
メデューサだと認識した途端、ミールは青ざめた顔で後退りをしてしまう。その顔は恐怖とは異なる自責の念に満ちたもの。
「キャキャッ、オボえててくれたんだ! ワタシ、とってもウレしいよ!」
「メデューサ……」
「そうだよね、ミールオネエちゃん! ずーっと前からコワレる
「壊れる、前から?」
その発言にヤミは唖然とした様子でそう呟く。ミールは思わず左手に握りしめた細剣を下ろし一歩ずつ距離を取ろうとするが、メデューサは逆に巨大な顔を近づけ始めた。
「そうそう、タイセツなタイセツな──カゾクを裏切って」
「……っ!」
言葉を喉に詰まらせ、目を見開いたミール。メデューサは敢えて悪意を込めながらも続けてこう語る。
「キャッキャッ、ミールオネエちゃんはホントに優しかったよね! 外から来たニンゲンのオンナノコを匿って、オシロの中にこっそり入れちゃうんだもん! ……そのオンナノコが二ノ眷属のワタシだってこともシラズにね」
「それはっ……」
「でもでも! ミールオネエちゃんのおかげですぐにオシロはコワセタし、ゴハンもいっぱいタベれたんだよ! ……ミールオネエちゃんの、
ミールは距離と言葉で詰められ、左手の細剣を手放してしまう。空洞に虚しく響くのは金属が地面と衝突する耳障りな音。
「ミールオネエちゃん、ワタシに言ってくれたもんね! 『私があなたの素敵なお姉ちゃんです』って!」
「……」
「んーっと、後はなんだっけ? 『私は姉様や兄様と違って素敵な才能がない』だったっけ?」
ミールの脳裏を過るのは故郷で過ごしていた記憶。最初に聞こえてきたのは騎士団の談笑室で騎士たちが交わしていた会話。
『なぁ知ってるか? スノウ様が村に襲撃してきた伯爵を灰に変えたらしいぞ。まだ十二歳の子供なのに凄まじい強さだよな』
『勿論知ってるさ。父親のサウル様もさぞ誇らしげだったし。俺はそれよりも平民の税を減らす提案をしてくれた……クレス様を尊敬するよ』
『あぁ聞いた聞いた! クレス様は母親のイルマ様みたいに俺らのこと考えてくれるよな!』
『例えるなら……スノウ様は道を切り開く剣、クレス様は全体を見渡せる頭脳って感じか』
長女のスノウは常日頃から吸血鬼に対する戦果を上げ続け、次男のクレスは国全体を大きく見据えながら、民衆にとってより良い方角の体制を唱え続けていた。ならば三女のミールはどうだったのか。
『ミール様については……なんか特別な話を聞いたか?』
『いーや、特には聞いてないな。ほんとにスノウ様やクレス様の妹なのかってぐらいには』
『まぁ仕方ないだろ。ミール様って、なんかこう飛びぬけた才能がないんだしさ』
平凡、凡才、普通。
栄光あるアーネット家の血を継いだ者たちが言われてはならない言葉。それらが相応しいに尽きるほどに平凡だった。
『敢えて才能として上げるなら可愛らしい笑顔ぐらいじゃないか?』
『確かに言われてみれば……。あの笑顔を見ると少し元気が出るし』
『けど笑顔が才能って、両親のサウル様たちはどう思ってるんだろうな』
彼女が評価されるのは『素敵な笑顔』だけ。幼少期から突き付けられていたその事実が、ミールの心を酷く沈ませていた。
『姉様のように強く、兄様のように賢く……。私はあの二人の良いところを受け継がなければなりません』
それでも自分には何か才能がある。そう信じて長女のスノウのように強くなろうと鍛錬を積み重ね、毎晩毎晩学業に励み続け、芸術に長けているのではないかと試行錯誤を繰り返した。
『スノウ様ぁあぁーー!!
『きゃーっ! クレス様ぁあぁーー! こっちに手を振ってくださぁーーい!』
月に一度だけ披露される街中での行進。その際に馬車に乗った雪月花の三人と国を統治するサウルとイルマが民衆の前に姿を見せるのだが、
『ほら見てあそこ、ミールお嬢様よ』
『あらあら、ほんとよく笑ってられるわねぇ。優秀なお二人の傍にいて恥ずかしくないのかしら』
『きっとアーネット家としての自覚が足りないのよ。そうじゃなきゃ、あんなニコニコ笑ってられないわ』
『……』
スノウとクレスが優秀過ぎるという擁護の声も上がっている中で、三女のミールを良く思わない声も決して少なくはなかった。
『ミール? 体調でも悪いのか?』
『あっ、いえ、そういうわけではありません。ちょっと考え事をしていただけです』
『ならいいが……。あまり無理はするなよ』
それでもミールは笑顔を絶やすわけにはいかなかったのだ。何故なら彼女にはそれしか取り柄がないのだから。
『支持率はスノウとクレスが同一で……ミールはあまり奮えていないか。スノウとクレスはともかく、私たちがこの座を譲り渡した後のミールが不安だな』
『ええそうね。いつかは一国を統治できる皇女になってほしいけど……』
『課題となるのは皇女になった後だ。このままでは人々が付いてこない。せめて飛び抜けた才を開花してくれればいいのだが……』
しかし笑顔という取り柄だけでは人々が付いては来ない。ミールは両親の会話を盗み聞きしたことで、日々の努力はより濃いモノへと変わっていった。
『聞いたか? 噂では長女のスノウ様が僅差で支持率を勝ち取って、この国の次期皇女になるらしいぜ』
『そっか、私はクレス様を支持してたんだけどなぁ……。あれ、じゃあミール様はどうだったの?』
『そりゃあお前、言わなくても分かるだろ。勝負にならなかったって』
支持率の割合は長女から『五対四対一』という並び。努力を続けようが支持率は変わらぬまま、時間だけが過ぎていくばかりだった。
(あぁ私は──何もなかったのですね)
そこでミールは現実を突きつけられる。
努力を続けて才能を手に入れるのではなく、才能ある者が努力をしてその才能を開花させるのだと。最初からすべて──持つ者は決まっているのだと。
ミールはすべてを投げ出したい衝動にかられ、何も考えずにただ城内を歩き続けた日。
『ぐすっ……うっうぅうぅっ……』
『……? この声は……』
聞こえてくるのはすすり泣く少女の声。ミールは中庭の裏へと回り顔だけ覗かせてみると、そこにはしゃがみ込んだ使用人がいた。
『あら、こんなところで何をしているんですか?』
『ひっ、ひぃいいぃいっ!? ミ、ミミ、ミール様ぁあぁッ!?!』
『驚かないでください♪ 私はお化けじゃありませんよ♪』
ミールはその使用人を放っておけず、深呼吸をすると笑顔を作って声を掛ける。取り柄だと言われた空元気の笑顔で。
『それよりも……どうして泣いているの?』
『わ、私……ブ、ブレイン家の使用人として、ここにいるのに……。ぜ、全然人と話せないし、仕事も上手くできないし、ず、ずっと独りで、どうしたらいいのか、分からなくてっ……』
『あら、素敵な新入りさんだったのね♪』
『す、素敵なんかじゃありませんっ……! す、素敵っていうのは、私のお姉ちゃんたちみたいな……そんな人たちのことですっ……!』
ミールは彼女の「私のお姉ちゃん」という言葉が引っ掛かり、傍にしゃがみ込むと涙袋をやや膨れさせた泣き顔を覗き込む。
『あなたにはご姉妹がいるの?』
『は、はい、そうです……。わ、私なんかとは違って仕事もできるし、ひ、人と上手く喋れるし……と、とにかく私なんかよりも、素敵なんですっ……! それに比べて、私は全然ダメな妹で──』
『……』
『も、もももっ、申し訳ありませんミール様っ! わ、私の話なんかでお時間を取ってしまい……!』
自分と似ている境遇。普段から笑顔を崩さないミールが気難しい顔を浮かべたことで、その使用人は顔面蒼白になりながら何度も頭を下げる。
『ねぇ、あなたのお名前を教えてくれる?』
『わ、私は、
『ヤミちゃん、良ければ私とお友達になりましょ』
『へっ?』
臆病な使用人から名前を聞いたミールは手を差し出し、微笑みながら優しく声を掛けた。ヤミは呆気にとられた様子でミールの顔と手を交互に何度も見る。
『お、おおっ、お友達なんて、お、畏れ多いですよぉっ! わ、私とミール様は、た、たたっ、立場が違うんですからぁ!』
『いいえ同じですよ♪ 私もヤミちゃんと同じ三女ですから♪』
『で、ででっ、ですがそれはその……』
『ねっ、いいでしょヤミちゃん? 私とお友達になりましょ』
ミールは食い気味に詰め寄ればヤミの手を両手で優しく包み込む。温もりと笑顔と心が洗われる透き通った声。ヤミはついに押し負けて視線を逸らしながらこくんっと一度だけ頷く。
『ふふふっ♪ これでヤミちゃんは私にとって素敵なお友達です♪』
『へっ? わ、私が素敵、なんですか?』
『はい、とっても素敵ですよ♪ ほら自信を持ってください♪』
才能がない、必要とされない。
三女としての気持ちがよく理解できたミールは、ヤミには自分のようになってほしくないと手を差し伸べる。
(……私はアーネット家に相応しくありません。だったらみんなと平等な立場で接して、一人一人の才能が開花するように手を差し伸べましょう)
自分に才能がない事実を突きつけられたならば、せめて誰かの才能を救えるような慈悲深さを持てばいい。手を差し伸べることを心掛ければいい。彼女はそう考えを改めた。
「キャキャッ、メイドのオネエちゃんは知らなかったでしょ? ミールオネエちゃんがァ、タイセツなオシロをコワした元凶だって」
「う、うそですよね、ミール様?」
「……」
「ミ、ミール様ぁッ! な、なんとか、なんとか言ってくださいよぉっ!」
だがその結果、彼女は吸血鬼との戦争が始まる朝方。城内へ誰にも立ち入らせてはならないと忠告されていたにも関わらず、家族を失い泣き喚いていた少女を、誰にも伝えずこっそりと城の中へ招き入れた。
その正体が──二ノ眷属メデューサであることも知らずに。
「才能がないのに、ヘンにヤサしさだけを持ってたから……いーっぱいヒトがシャボン玉みたいにコワれて、いーっぱいカナしいことが起きちゃったんだよ?」
「違うっ、違いますっ……!」
「ミールオネエちゃん、アセッちゃったもんね? 自分のせいで取り返しのつかないことになったから『どうにかしなきゃ! どうにかしなきゃ!』って……! だからシャボン玉をいっぱい連れてここに来たんでしょ?」
「ミール様……」
ミールは自身の罪を拭う為に日々焦燥感に駆られていた。雪月花の間に更なる亀裂を生んでしまった茶会の件があってからは精神的に疲弊し、正常な判断すら下せない域まで達していたのだ。
「ほらほら、笑顔はドウシチャッタのミールオネエちゃん! いつもみたいに笑ってよ! ミールオネエちゃんの一つしかないイイところでしょ?」
「私はっ、私はっ……」
「あっ、そーだミールオネエちゃん! ちゃんとミンナにごめんなさいしたの? 『私のせいでオシロとニンゲンをいっぱいコワしてごめんなさい』って! ごめんなさいできないニンゲンって、ゼンゼンステキじゃないよね──」
「もうやめてくださいッ!!」
そう大声を上げるのはヤミ。両膝を突いて頭を抱えるミールが何の反論もできずにただ地面を見つめる最中、彼女はメデューサの岩の顔に懐から取り出した小さなナイフを突き立てる。
「これ以上ッ、ミール様を傷つけるのはッ……私が、私が許しませんッ!」
「キャキャッ! どうしたのメイドのオネエちゃん? コワすのはワタシじゃなくて、
「最低じゃ、げほっ、最低じゃありませんッ!! ミール様は、ミール様はとても素敵な方なんですッ!!」
小さなナイフはメデューサに岩肌に僅かな切り傷が付くだけ。しかしヤミは非力な腕力で何度も何度もナイフを振り下ろす。
「はぁッげふッ、私は、私は知っています! 皆さんの為にミール様が夜遅くまで学業に励んでいることッ! 皆さんの為に毎朝剣術の鍛錬を積んでいることッ! ミール様が一番辛いはずなのに、ずっと笑顔で居てくれること!」
「ヤミちゃんっ……」
「そんな努力家で尊敬できる方に──素敵以外の言葉なんて、ないじゃないですかぁッ!?!」
立ち向かう勇気を振り絞りつつ声を荒げてメデューサに怒声をぶつける。ミールは震えた声でヤミの名を呼ぶ。
「キャキャッ! ウルサイよメイドのオネエちゃん!」
「きゃあぁぁああぁッ?!!」
「ヤミちゃん──くッ、この蛇は……?!」
メデューサはヤミに対して苛立ったのか、頭から生やした岩蛇で身体を拘束する。ミールはすぐさま立ち上がろうとするが、足元から生えてきた小型の岩蛇が両足に巻き付き立ち上がれない。
「ひぃぎッ……ミール様ッ……逃げて、くださッ……」
「やめてメデューサ! ヤミちゃんは、ヤミちゃんは関係ないの!」
「キャキャッ、カンケイない? フーン、カンケイないんだ?」
メデューサは手を伸ばそうとするミールを嘲笑いつつ、ゆっくりと拘束したヤミを見上げると、
「じゃあ──コワレテもいっか」
「ひあ"ッあ"ぁあ"ぁあぁああッ……!!」
「やめてぇえぇえぇーーッ!!」
玩具を弄ぶようにヤミのか細い肉体を締め上げる。ミールは悲痛な叫び声を上げ、届くはずのない手を伸ばそうとし……。
────────────────────
「……見飽きた光景だ」
私は気が付けば黒に塗りつぶされた空間に立っていた。以前に何度か訪れたことのある空間に私は溜息をつく。
「私は詰んだのか。それとも死に損なったか」
周囲を見渡すが何も見えない。視界が無駄になるほど黒く、聴覚が無駄になるほど無音で、ただ肌寒いと感じるだけの空間。私は立ち止まっていても何も始まらないと方角も定められぬまま歩を進めていく。
(……メデューサとやらを始末しきれなかったな)
気に障るメデューサの顔は何度も粉々に破壊した。だが全くと言っていいほど損傷を与えられない。シメナ海峡のスキュラのように、魔女の馬小屋のスフィンクスのように核となる部分を探し出さなければ始末は不可能。
パリンッ──
「……?」
と考えながら歩いていれば背後から花瓶が割れた音が響く。私は立ち止まるとその場で振り返った。
「黒い薔薇の残骸か」
一メートル先に見えたのは一輪の黒い薔薇。散らした黒の花弁と花瓶の破片。アダールランバで黒薔の茶会に招かれる前、本棚の裏で見かけた薔薇の残骸を彷彿とさせる。
「とても嘆かわしい姿ですね──ヒュブリス」
じっと見つめていると聞き覚えのある声と鐘の鳴る音が私の耳まで届く。暗闇の奥から歩を進めてくる人影。私はその人物を目にすると眉を顰めた。
「……貴様はカムパナか?」
「ええ、命の奪い合いをした以来でしょうか」
小さな鐘で飾られた司祭服、目元を隠す黒い帯、僅かに見える灰色の髪。視線の先に現れたのは私がネクロポリスで引導を渡したはずの──黒薔薇の使徒
「何故ここにいる?」
「それは貴女へ
「……『嘲笑しに来た』の間違いだろう」
「あぁヒュブリス。どこまでも疑り深いその人間性、一度自分自身を見つめ直すべきでしょう」
カムパナは私の返答に呆れるように黒薔薇の残骸の隣まで歩み寄った。私は幻覚なのかとカムパナの姿を見据えながら警戒する。
「しかし憐憫か嘲笑かなど……。そのような重箱の隅をつつくような議題は取り下げましょうか」
「なら報復か?」
「ヒュブリス、貴女は理解しているはずでしょう。私が動術の構えを解いていると」
言われてみればカムパナは静動を解いている。その証拠として司祭服に付いた小さな鐘が、身体の動きに合わせて音を鳴らしていた。益々姿を現した意味が分からず、私は口を閉ざしてしまう。
「構える必要はありません。私は貴女と懇談会を開きたいだけです」
「……」
「さぁ座ってくださいヒュブリス。あの時のように椅子は蹴り飛ばしません」
前触れもなく椅子と机が現れ、席に着いたカムパナは手招きをする。私は警戒しつつもカムパナの向かい側の席へと腰を下ろした。
「……それはそうとしてヒュブリス。貴女の程の転生者が眷属に後れを取っているようですが?」
「説教……いや、貴様の辞書から引き出すとするなら『
「ふふっ、それも悪くはありませんね。しかし貴方の見当違いでしょう。何故なら私は貴女に手を貸しに来たのですから」
「……何だと? なぜ貴様が私に手を貸す?」
机の下に落ちていた黒薔薇の花弁を一枚だけ拾い上げ、こちらへと顔を向けてくるカムパナ。私は尚更理解が及ばず、小首を傾げてしまう。
「貴女は黒薔薇の使徒となりました。ここで命を散らすのは黒薔薇十字団の、マニア様への冒涜。それだけはあってはならないでしょう?」
「だが今更どうする? 貴様は既に詰んでいるだろう」
「ふふっ、ええ私は詰みました。しかしそれは私自身の話です」
「……どういう意味だ?」
カムパナは拾い上げた黒薔薇の花弁をひらひらと机の上に落とす。
「貴女は十番目の黒薔薇の使徒。私から力を継承しました」
「力だと?」
「マニア様から与えられた狂愛の一つ──鐘の呪印を」
鐘の呪印。
脳裏を過るのは肉体の再生、伯爵を優に超える身体能力、そして転々とする空間移動。カムパナは淡々とそう述べる。
「……貴様の成れの果てを見た私が手を出すとでも?」
「ふふっ、これは強制ではなく提案。ですがここで命を散らしても良いのですか?」
「何が……」
「貴女の恩師であるテレシアが──この時代に転生していたとしても」
下らないと吐き捨てつつ視線を逸らしていたが、その一言ですぐにカムパナの顔へと視線を戻した。
「……何だと?」
「ヒュブリス、貴女はテレシアの生死を見誤っています。テレシアは未だ転生者として生き長らえているのです──」
「戯言を喚くな。私はこの手で、吸血鬼共に魂を売ったテレシアに、心臓に、銀の杭を突き刺した。私が、テレシアの最期を一番よく分かっている」
私は勢いよく立ち上がると世迷言を吐き続けるカムパナの胸倉を掴み上げ、黒い帯で隠された目元を睨みつける。だがカムパナは一切動じる様子がない。
「吸血鬼共になれば資格を失い、二度とこの世に生まれることがない。それが転生者だ。貴様は私を小突こうとしているのか?」
「ではヒュブリス、貴女にも来世はありませんね」
「何……?」
「貴女の肉体は転生者でありながら吸血鬼でもあります。ここで命を散らした貴女に──果たして来世の保証はあるでしょうか?」
一言一句、正確に聞き取れるよう耳元で囁くカムパナ。私は掴んでいた胸倉を無意識のうちに離し、再び椅子に腰を下ろす。確かに私の肉体は吸血鬼の血が流れている。来世がある保証は、カムパナの言葉通りどこにもない。
「利口で狡猾な貴女であれば、この場で選ぶべき拓は明白でしょう」
「……」
「保証もない来世に縋るか、血反吐を吐いて今生にしがみつくか……。しかしヒュブリス、リスクに見合うものは来世にありませんよ」
全く見えぬゼロからの来世。希望だけ見えぬ地獄の今生。視界に映るものは今生の方が多い。
「……気に食わんが、そうらしいな」
「ふふっ、私たちも噛み合ってきましたね」
「抜かせ」
選ぶべきは地獄のような今生だろう。私は選択するとカムパナにそう吐き捨てた後、席を立ちしばらく俯いてこう尋ねた。
「貴様が口にしたテレシアの話、あれは真実か?」
「ええ、貴女に虚言を吐く意味はもうありませんから」
「……」
「ですがこれだけは覚えておいた方がいいでしょう──『事実は何時でも真実の敵となる』と」
問いかけに対して忠告にも似た返答をしこちらを見上げるカムパナ。やや首を傾げたことで小さな鐘の音色が周囲に響き渡る。
「さぁヒュブリス。愚かな吸血鬼の手駒へ、栄光ある黒薔薇の使徒として粛清を」
「……黒薔薇の使徒とやらになった覚えはない」
「ふふっ、それもいいでしょう。やはり貴女は何も変わりません」
私が席に着いたカムパナに背を向ければ、周囲を包み込んでいた暗闇が晴れていく。そこはとても見覚えのある、懐かしさすら感じる、行きつけの酒場。
「最期にこの酒場で、またあの時のように話すことができましたね──
「……? 何故その名を知って……」
背後から聞こえる布がほどける音。私はゆっくりとその場を振り返る。
「──
黒い帯に隠されていた目元が露になれば、私に向けられるのは慈悲深さが宿る灰色の瞳。そこに座っていたのは転生者の──旧友のレリアだった。
「マリア、貴女はありのままの自分を貫き通してください」
「──! 待てレリア、なぜお前はっ……!」
カムパナの正体が旧友のレリア。何故その道を辿ってしまったのか聞こうとするがレリアは霧の奥へと消えていく。
まだ未熟だった頃、互いに酒場で待ち合わせをし愚痴を語り合った記憶。転生者の旧友として切磋琢磨し合った記憶……いや、幸福だった思い出。
「そしていつか、聞かせてください。貴女が築き上げた『吸血鬼が消えた世界』の話を」
「レリア、私はお前をっ……」
突き付けられる事実。それは私が自らの手で殺した相手が旧友だった。込み上げる罪の意識を綺麗に洗うように、ただレリアは微笑む。
「それまでこの酒場でずっと待っています」
「待て、私はまだお前に何も話せて……」
「今度は私が──貴女を待ち続けますから」
そして最期の言葉が私の耳元まで届くと視界は眩い光に、意識は白い霧の中へと包み込まれた。
────────────────────
「キャキャッ!?!」
悲痛な叫び声を上げたミールが手を伸ばした途端、仮面を付けた女の頭部がメデューサの後頭部を破壊する。岩蛇から解放されたヤミは地上へと転がった。
「……」
「転生者様……?」
座り込んだミールの隣に立つのは左手で仮面を押さえるアレクシア。満身創痍だった肉体はいつの間にか完治している状態。
「うっ、げほっげほっ……」
「ヤミちゃん!」
ミールは拘束が解けた今が好機だと転がっていたヤミの元まで駆け寄る。後頭部を破壊されたメデューサは俯いているアレクシアに目を細めた。
「ナンでオネエちゃんイキてるの? さっきコワれちゃったでしょ?」
「……」
「キャキャッ、でもいっか! またコワせばいいんだもん!」
メデューサは無数の岩の蛇でアレクシアを取り囲むと一斉に突進させる。しかしアレクシアは何も答えず、顔に付けていた仮面を解除するだけ。
「転生者様ッ!」
「キャッ! もうコワれちゃったかな?」
響き渡るのは激しい衝突音と岩石の破片。メデューサはしてやったりの顔だったが、
「アレレ? オネエちゃんいない?」
無数の岩の蛇を退かすがそこには誰もいない。メデューサは周囲をぐるぐると見渡すが、ミールは既にアレクシアの姿を捉えていた。
「いつの間に、転生者様はあの上へ……?」
アレクシアが立っていた位置はメデューサの後頭部の上。ミールは唖然としてたが、メデューサは未だに見つけられず周囲をきょろきょろと見渡していた。
「キャッキャッ! オネエちゃんカクレンボしたいの?」
「あの茨模様は……」
転生者の紋章が刻まれた左脚を根源に、足首から腰辺りまでの肌に浮き出るのは黒薔薇の模様。カムパナが披露した黒薔薇の開花にも近い模様だった。
(転生者様は、黒薔薇の使徒……?)
無言で左脚の紋章に左手をかざすアレクシア。そこから具現化して徐々に突き出してくるのは、小さな銀の鐘が二つ付いた日本刀の
瞬く間に
「……この鐘の音は」
「キャキャッ、オネエちゃんミーつけた! ワタシのアタマにノッてたんだ──」
一気に引き抜けば、辺りに響くのは刀の
アレクシアは喜んでいるメデューサの後頭部を冷めた眼差しで見下し、
「貴様に死刻を告げる」
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