第八章 焼けるような恋心

第41話 写見の視界

 暗い、暗い、山。


 土と草のにおいがひどい。


 寒い。


 息をしたくない。


 誰もいない。


 誰も手を引いてくれない。


 足が動かない。


 倒れる。


 押さえ込まれる。


 引きずられる。


 目の前におそろしいものがある。


 目がある。


 いやだ。


 逃げたい。


 もう見たくない。


 彼と向き合いたくない……!






「――お嬢さん!」


 聞き覚えのある声がして、パチッと目が開く。


 一気に視界が明るくなって、自分が店で昼寝をしてしまっていたということを思い出した。


「大丈夫カイ? ものすごくうなされてたケド……」


 化身が情けなく眉を下げながら私の顔を覗き込んでくる。


「今、起きる、ます」


 私は気持ち悪くて吐きそうなのをこらえて起き上がった。


 ぐらっと体が傾き、化身に肩を支えられる。


「ひどい顔色ダヨ。おなかでも痛いのカイ?」


 少し迷った後、首を横に振る。


 大丈夫。これは風邪とかじゃないから。言わなくて大丈夫だから。


「お嬢さん」


 化身に呼ばれて、びくっと肩が震える。


 だけど、化身は私の手を両手で包み込んでぎゅっと握り込んできた。


「ホラ。化身お兄ちゃんに話してごらン」


 ちらりと目を上げる。化身は心配そうな顔でこちらを見ていた。


 ひんやりしているはずの彼の手がほんのりと温かい。


「ちょっとだけ」


 ぽつりと声を吐き出す。


「ちょっとだけ、死ぬ前のこと、思い出したます」


 死ぬ前。


 声にしてしまうと、途方もなく恐ろしいことのように思えた。


 しめった森のにおいが鼻の奥にある。


「百鬼夜行に知ってるおにいさんがいたます」


 あの目を覚えている。


 へにゃっと笑うあの目を覚えている。


 指先に軽く力がこもる。


「私が呼んだら、振り返って笑って、常夜に行っちゃったます」


 あの笑顔。


 こちらを見て、安心していたような気がした。


 でもそうじゃない。


 私は『待って』と言ったのに。


「また置いていかれたます……」


 化身の手にしがみつきながらちょっと背を丸める。


 お腹がぐるぐるする。


 いやだ。


 色々なものが混ざり合って、その感情だけが残る。


「……虫の顔が見えたのカイ?」


 びっくりしたようなその声を不思議に思いながら、私はこくりとうなずく。


 虫たちの顔。


 お菓子やおもちゃを持って、お祭りの喧噪の中に駆け込んでいった子供たちを思い出して、胸が少しだけ軽くなる。


「……でも、お祭りは楽しんでくれててよかったます。みんな楽しそうだったます」


 ぽつ、ぽつ、と私は言う。


 化身はしばらく沈黙した後、おそるおそる尋ねてきた。


「お嬢さん。……何を思い出したか聞いてもいいカイ?」


 私は口をぎゅっと結んだあと、ゆるゆると首を横に振る。


 もしはっきり言葉にしてしまったら、あの匂いを、あの冷たさを、本当にしなくてはいけない気がして。


 目を閉じたら押し寄せてくるあの光景から逃げ出そうと、さらにきつく目を閉じる。


 その時、私の隣にぼすっと音がして誰かが座った。


 目を開ける。黒い羽織の裾が見える。


「……絵巻屋?」


 見上げると、私のすぐ隣に絵巻屋は腰を下ろしていた。


 表情はいつも通りむっすりしていて、仏頂面だ。


 化身はそんな絵巻屋にちらっと目くばせをしたようだった。


 化身は私からそっと離れていく。


 その代わりに、私は軽く肩を引き寄せられた。


 絵巻屋の体にぼすっと頭の横が当たる。


 きょとんと目を見開いていると、化身は私の頭に優しく触れてきた。


「もう一回寝ちゃいなヨ」


 化身はゆっくり、何度も私の頭を撫でてくる。


「きっと今度は怖い夢は見ないからサ」


 つられるように目を閉じる。


 頬に触れているのは絵巻屋の体だ。


 冷たくない。温かい体温がすぐ隣にある。


「あったかい……」


 優しい温度に体重を預け、体の力を抜く。


 お腹のぐるぐるが引いていく。


 冷たい森のにおいが遠ざかる。


 そのままふっと意識が飛び――次に戻って来たときには、私は温かい何かの上にいた。


「うー……」


 ふわふわする意識のまま、小さくうなる。


 ここはどこだろう。お布団にしてはごつごつしているし、ずっと暖かい気もする。


 ころんと寝返りを打とうとして何かに止められた。


 次いで、大きなため息が聞こえてくる。


「――写見」


 降ってきた声に、ぴくっとまぶたが震える。


 ゆっくりと目を開く。ぼやけていた視界が次第にはっきりしてくる。


「そろそろ起きなさい。重いですよ」


 そう言いながらこちらを見下ろしてくる絵巻屋の顔に、私は慌てて飛び起きた。


 体を起こし、きょろきょろとあたりを見回す。


 日はもう傾いてしまっていて、店の外からは赤い陽光が差し込んでいる。


「寝てたます……?」


「ええ。気持ちよさそうに寝ていましたよ。すやすやと」


 ぶっきらぼうに絵巻屋が言う。


 ハッとなって後ろに座る絵巻屋の足の上を見ると、服にべっとりとよだれがついていた。


「……!」


 その時になって絵巻屋の膝の上で寝こけてしまったことと、よだれを派手にこぼしてしまったことに気づいて、私はしゅんと肩を落とす。


「ごめんなさいます……」


 絵巻屋はちょっと黙った後、特大のため息を吐いて立ち上がった。


 そして、立ち去り際に私の頭をぽんっとひと撫でして、店の奥へと行ってしまった。


 私は撫でられた頭を押さえてぽかんとする。


 化身がすいっと飛んできて目の前に降りてきた。


「お嬢さん、大丈夫カイ?」


 私はぱちぱちと目をしばたかせた後、自分の手を見た。


 眠る前にあった気持ち悪さはもうどこにもない。


 残っているのはふわふわした温かさだけだ。


「二人ともありがとうます」


 ぺこっと頭を下げる。


 化身はへにゃっと笑い、奥の部屋で私に背を向けて座る絵巻屋の肩もひくりと震えた気がした。





 数日後の朝、店の奥の部屋で、私と絵巻屋は向かい合っていた。


 絵巻屋は私の前にことんと小瓶を置く。


「写見。これが何に見えますか」


 私の手にも収まるような小さなそれを拾い上げ、目の前に持ち上げる。


 その中には、黒色の小さな生き物が蠢いていた。


「小さいねずみさんます」


 ねずみは瓶の中を狭そうにぐるぐると駆けまわっている。


 私はしゅんっと肩を落とした。


「可哀想ます。出してあげてほしいます」


「……そうですね、すみません。これは後で常夜の近くに帰しておきます」


 私の手から小瓶を受け取り、絵巻屋は怖い顔を作る。


 私は思わず背を正した。


「写見。……アナタは虫がはっきり見えるのですね」


 思わぬことを問われ、私はきょとんと尋ね返す。


「絵巻屋たちは見えていなかったますか?」


「ええ。私たちだけではなく、この異界のどこにもそこまではっきりと虫を見ることができるモノはいませんよ」


 ぱちぱちと目をしばたかせる。


 だってこんなにはっきりと形を取っているのに。


「『影踏み鬼』の一件のときも誰にも見えないアヤシを見つけられていましたね」


「あの子、寂しそうに立ってたます。遊んでほしそうだったます」


 こくりとうなずきながら答える。


 絵巻屋はそんな私をじっと見た後、眉を寄せた。


「与えた名前によってアナタの性質が強められているのかもしれません」


「名前に?」


 よくわからず首をかしげる。


「アナタの名前は『写見』。カタチを『見』て、モノを『写』すと書いて『写見』です」


 ちょっと考えてから問い返す。


「見るのが得意な名前ということますか」


 絵巻屋は頷く。


「私が、名前の通りになっているますか」


 写見。絵巻屋のつけたこの名前の通りに。


 それはなんだかほわほわして、嬉しいような気がした。


「……いえ、それとも」


 言葉を濁し、絵巻屋は顎に指を置く。


「どうしたます?」


「……ああ、いえ」


 絵巻屋はちらりと私を見た。


「アナタは最初から、アヤシたちが見られることを求める存在だったのではないかと思ったのですが……」


 言われた意味が分からず首をかしげる。


 絵巻屋はすぐに軽く頭を振った。


「いえ、忘れてください。そんな体質があるなんて聞いたことがありませんので」


「?」


 いまいちわからないまま会話が終わってしまい、私は首を傾げたままになってしまう。


 そんな時、店のほうからすいっと化身が飛んできた。


「二人ともお客さんだヨォ」


「わかりました」


「ます!」


 返事をして、絵巻屋のあとにつづいて店に出ていく。


 そこで待っていたのは男のお客様だった。


「朝からすみません、絵巻屋さん」


 お客様はつるつるの頭を触りながら、軽く頭を下げた。


「多分……アヤシが出たようなので、一緒に来ていただけませんか?」

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