第40話 おにいさん
頭によぎった暗い光景を振り払い、慌てて太鼓が鳴ったほうへと駆け出す。
見上げると、百鬼夜行のスタート地点である山の上の神社には、もう黒色の虫たちがかなり集まっていた。
提灯で彩られた山の入り口へと差し掛かる。でこぼこの道をぜえぜえといいながら走っていく。
だけどやっぱりすぐに足は動かなくなって、私は立ち止まって肩で息をした。
――ドン!
もう一度太鼓が打ち鳴らされる。
頭上にひとつの大きな人形が浮いていた。
手には灯りを持ち、色鮮やかな着物を着て、顔を布で隠している。
人形の後ろにはおだんごをたくさん乗せた乗り物が浮いていた。
「おお、今年の虫送りの人形も立派だな」
「華やかでいいわね!」
「これなら百鬼夜行も見事なものになりそうだ!」
山道で立ち止まっている人たちが口々に絵巻屋の人形をほめる。
いつもならすごく誇らしい気分になるのに、今はざわざわする嫌な感じにさえぎられてしまって落ち着かない。
ごおっと大きな音がして、何かが空を飛んでいく。
銀色できらきらして長くて恐ろしいモノ。
龍神だ。
龍神様が飛び立つと、絵巻屋の人形はずいっと空を進み始めた。
その後ろにぞわぞわと虫たちが続いていく。
形をとって歩いている人も入れば、不思議な形をしている黒色もあるし、ただのもやのまま進んでいる虫もいる。
でも同じなのは、みんな楽しそうに浮かれているということ。
よかった。さみしくなさそうだ。
そんな思いがすごくあるのに、なぜか胸に引っかかっている焦りが渦巻いている。
ダメだ。まだ行かせたらダメなんだ。
空を見上げる。ぞろぞろと行列は進んでいく。龍神様が迷子を出さないようにその周囲を飛んでいる。
その中の一人の顔を見て、私は目を見開いた。
「おにいさん」
やっぱりいた。
優しそうなたれ目のひと。
見覚えがある、私をしっかり見ていた目。
彼は前を向いたまま、人形のあとをついて空を歩いていってしまう。
「おにいさん……!」
思わず叫び、走り出し、行列に向かって手を伸ばして――私は山道から足を踏み外した。
「……あ」
浮遊感。体重を受け止めるものがなくなって、投げ出される体。下方には暗くて恐ろしい森。湿った土。
それがぐんぐん近づいてくる。
ざりざりっと何かが脳裏を通り過ぎた。
土の感触。
草が揺れる音。
遠くで何人もの人が叫んでいる。
せわしなく動き回る灯り。
私たちを探している。
私たちが逃げ出したから。
体温。
私の下にはおにいさんの体。
かばわれたんだ。
落ちたらひどいことになるから。
おにいさんの体から慌てて降りる。
「おにい、さん」
震える声で彼を呼ぶ。
肩を揺する。
手に血が付く。
かばわれたんだ。
私が死んでしまわないように。
おにいさんがゆっくり目を開ける。
山の下のほうを指さして、何かを言っている。
でもうまく聞こえない。
そんなことを聞きたくない。
何度も首を横に振る私に、お兄さんは笑いかけてきた。
「逃げるんだ」
びくりと体が震える。
「逃げて、逃げて、逃げのびれば……きっと君が本当に笑える場所に行けるよ」
おにいさんは笑っている。いつも通りふにゃっとした顔で。
どうして笑うの。
悲しかったら笑わなくていいって言ったのはおにいさんなのに。
おにいさんの手を握る。血がついている。
力が抜けていく。
どんどん冷たくなっていく。
もう握り返してくれない。
動かないおにいさんの手を握り締める。
おにいさん。
どうやって逃げればいいの。
私、走ったことなんてないんだよ。
足なんてもう動かないよ。
一人じゃ走れないよ。
おにいさん。
……おいていかないで。
「おや、駄目じゃないか。生贄のお嬢さん」
やわらかい感触に体を受け止められ、私は自分が何の上にいるのかを知る。
無数の蛇だ。絨毯のように私の下に広がっている。
「ほら、道に戻るよ。そっちは駄目だ」
どこかからうわばみの声がして、蛇が私の体に巻き付く。
引き戻される。百鬼夜行は遠ざかっていく。
「まって」
上がった息をなんとか吐き出し、必死で声を張り上げる。
「待って、おにいさん!」
私の声が暗い山に響き渡る。
行列に並んでいたおにいさんが少しだけこちらを振り返る。
遠くに私を見つけて、ふっと笑ったように見えた。
「……ぁ」
ごおっと音がして、百鬼夜行がさらに遠ざかる。
そして、そのまま彼らは常夜へと消えていった。
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