第32話 ハマグリの霧
財布を握りしめながら、私はぺたんと正座していた。
今日もおつかい任務だ。
だけど、目的地はあまり通ったことがない場所。常夜の近くにある『夢幻屋』へのおつかいだ。
「ほら、お嬢さん動かないでネー」
化身が私の前に浮かんで、私の髪をいじっている。
パチンと音がして、赤い花の髪留めで前髪が挟まれた。
ハイ、と手渡された鏡を見て――私は半目になった。
とても斜めだ。前髪もあっちこっちに跳ねてしまっていて、どう見ても収まっていない。
なんというか、とても言いづらいがお世辞にも整っている出来とは言えない。
「…………」
「うーん……」
無言で手鏡とにらめっこしていると、化身はもごもごとうなった。
「も、もうチョット練習しておくネェ」
アハハーと笑いながら化身が距離をとる。
その時、ちょうど絵巻屋が私たちの前を通りがかった。
「……箸を刺したもやしか何かですか」
「なっ、そこまで言わなくてもいいじゃネェカヨ!」
オーバーリアクションに抗議する化身をいなしながら、絵巻屋は私をじっと見下ろし、むすっとした顔のまま私の髪から髪留めを取った。
「あっ」
「貸してみなさい」
絵巻屋はいったん私から離れ、棚から木の櫛を取って戻ってきた。
花が彫ってあるつやつやとした櫛だ。
「動かないで」
私の髪に手をかけ、絵巻屋は櫛を通し始める。
ぱさぱさした髪に櫛が入るたびに、鏡の中の私の髪は潤っていくような気がした。
絵巻屋の男性の指がするすると私の髪を撫でて、流れるような形に整えていく。
長い前髪をまとめ、耳のほうに流し、くるりとひねった後に髪留めでパチンと留める。
ほんの十数秒で私の髪は、まるでお姫様のようにきれいになっていた。
「上手ます!」
「さんざん師匠に結わされましたからね……」
絵巻屋は軽くため息を吐いて立ち上がった。
「自分でもできるようになるように」
「!」
私もつられて立ち上がり、ぴょんっと絵巻屋に主張した。
「教えてほしいますっ」
「……また今度気が向いたら教えてあげますよ」
そのまますたすたと去っていってしまう絵巻屋を尊敬の目で見つめる。
こんなこともできるなんて、絵巻屋は本当にすごい。
するとそんな私に化身がすすすっと近づいてきた。
「お嬢さんお嬢さん」
「ます?」
「アイツの手首見てみナ」
言われるままに絵巻屋の右手を見る。
「!」
そこには、私が逆にプレゼントしたあのブレスレットがつけられていた。
私はおなかの中からぐーっと感情が上がってくるのを感じて、絵巻屋にとててっと歩み寄ろうとした。
しかし化身はそんな私を引き留める。
「待った待った!」
「?」
「気づかないふりをしときなッテ。照れ屋さんなんだよアイツは」
ふむ。照れ屋さんなのか。
私はこくっと頷いた。
「秘密ます」
「そうだネェ」
化身と私は顔を見合わせる。化身は布の向こう側でにっひっひと笑った。
「何をしているんですか。早くおつかいを済ませてしまいなさい」
「!」
絵巻屋に呼ばれ、私はぱたぱたと畳から降りる。
そのまま出ていこうとする私に化身は声をかけてくる。
「お金は持ったかイ? 遠鳴子ハ?」
「持ったます」
「今日はちょっと危ない場所だから寄り道しないでネ」
「はいます」
「怪しい人が近づいてきたら迷わず鳴らすんだよ?」
「ます」
「どんどん過保護になってますねアナタ……」
あきれ切った声が文机のほうから聞こえてくる。
私は玄関を出て、ひらひらと手を振った。
「いってきますます」
「ハァイ、いってらっしゃい」
*
見慣れない街をてこてこと歩いていく。
前に一度来たときのように、通りはどんどん薄暗くなっていく。
人通りも減っていき、化身がこちらを心配するのも納得だった。
つい最近まではこうやって心配されると逆に不安になっていたけれど、今はむしろふわふわした気分になる。
化身が私のために考えてくれているのも、絵巻屋がさりげなく私のことを想ってくれているのも、胸の中がとてもあたたかくなるのだ。
内心むふふと思いながら、軽やかに通りを下っていく。
徐々にあたりに霧が漂い始め、私は財布と防犯ブザーをきゅっと握りしめた。
大丈夫だ。このまままっすぐ行けばお店に行けるはずだから。
「………」
静かだ。響いているのは私の足音だけだ。
私はとことこ歩いていた足をだんだん速め、早歩きで前へ前へと進んでいった。
「!」
やがて、霧の向こうに明かりが見えた。『夢幻屋』の提灯だ。
私はほとんど走るようにしてお店の中に駆けこむ。そして、はぁはぁと息を吐いた。
「おや、絵巻屋さんのお弟子さん。こんにちは」
「お店のおじいさん」
「タバコのおつかいだね? 今出してあげるからね」
おじいさんは店員さんに声をかける。店員さんはしずしずとタバコを探しに行ってくれた。
「お金ます」
「はい、ありがとう」
私からお金を受け取ったおじいさんはそれを数え、それから店の外に目をやった。
「ハマグリさん、かなり起きてるねえ」
「ハマグリさん?」
前にも化身が言っていた名前に私は首をかしげる。
おじいさんはやさしい目を私に向けた。
「この霧を出している古いモノだよ。近づきそうになったら避けて通るんだよ」
「あぶない人ます?」
「ちょっとだけね」
おじいさんの言葉に私は気合を入れる。
そんなにあぶない人なら、すぐに防犯ブザーを鳴らさなければ。
「今日はたぶん、これからさらに霧が濃くなるからね。まっすぐ迷わないように帰るんだよ」
「はいます」
霧タバコを手渡され、私は店を後にする。
玄関を出たところで振り返り、ぺこりと頭を下げると、私は足早に霧の中を戻り始めた。
てくてくと元来た道を間違えないように戻っていく。
とはいっても、この道はほとんど一本道だ。変に脇道に入らなければ、迷わずに帰ることができるだろう。
「………」
だけど、周囲の霧はどんどん濃くなっていった。
ついさっきまでは十歩先ぐらいは見えていたのに、今ではすぐそこまでぼやけている。
これはまずい。
本能的にそう察した私は、慌てて歩調を速めた。
とことこ、とことこ。
歩けば歩くほど霧は濃くなっていった。もう足元すら白色に覆われつつある。
この霧はなんなのだろう。ハマグリさんというのが近くにいるのだろうか。
そう思った瞬間、霧の向こうからやけに通る声が響いた。
「この霧はモノの存在を固定させる霧」
びくっと肩を震わせて立ち止まる。
「消えかけたモノも、不安定なモノも、この霧の中ならば存在できる」
男のような、女のような、どこか不安になる声だった。
逃げ出そうと思ったが、その声が聞こえてきたのは帰る方向だ。
どうしようかと思いながら、私はその声に返事をした。
「アナタがハマグリさんますか?」
私の声が、誰もいない通りに反響する。
少しの沈黙の後、ハマグリさんの声が返ってきた。
「問う」
その声に、足が縫い付けられたかのように動けなくなる。
腹の底から震えがこみあげてくる。
「絵巻屋とは、人でも、モノでも、神でもない存在」
ハマグリさんの声がぞわぞわと背筋をなでる。
私は、淡々と告げられる言葉の意味を必死で考えた。
人でもモノでも神でもない。どういうことだろう。
この異界にいる人たちはみんなモノのはずで、だけど――そういえば、絵巻屋と化身だけは、絵をつけていなかった。
それって、どういうこと?
霧がごうっと私に吹き付ける。私の足が震えだす。
「お前は、それに耐えられるのか?」
私はじっと霧を見つめ、その向こう側にいる何かに深く頭を下げた。
「ごめんなさい。帰らないとます」
すると、私の足は急に動くようになった。
私は自由になった足を動かして、転がるように走り出す。
めちゃくちゃに走ったので、何度か壁にぶつかってしまった。
霧を吸い込む。
飲み込む。
自分がはっきりする。
影踏み鬼のときにかいだあの香のように、自分の輪郭が確かにわかるようになる。
きっと、ハマグリさんが言う、霧の中で不安定なモノが存在するというのはこういうことなのだ。
だったらどうして、絵巻屋はいつも霧タバコを吸っているのか。
……わからない。
想像はつくけれど、わかりたくない。
まだ、見たくない。
はぁ、はぁ、と息を切らせて立ち止まる。
あたりは霧ばかりで、自分がどこに立っているのかもわからない。
ふと手を持ち上げて、防犯ブザーを握っていることに気が付く。
そうだ。これを使えばよかったんだ。
今になってそう気づいて、私はぎゅっと防犯ブザーを握りしめた。
「………」
転ばないように慎重に、歩みを進める。
もう手が見えるのかすらわからないほどの霧だ。
そのままよたよたと歩いていくと、石段のようなところに行きついた。
手探りをすると、そのまま下に下っていけるらしい。
私はとりあえずそこに腰かけることにした。
「もわもわます……」
白ばかりの視界を見ながら、私は息を吐きだす。
そして、手元の防犯ブザーを握りしめた。
これを引くべきだろうか。でも、こんなことで呼んでもいいんだろうか。
今回のこれはどう考えても私のせいだ。
勝手に走り出して、勝手に迷って。
こんなことのために二人を呼び出してもいいのか。
「邪魔したくないます……」
小さくつぶやきながら縮こまる。
迷惑をかけたくない。お仕事の邪魔をしたくない。
私は二人の役に立ちたいのに、こんなところを見られるのは、とても、いやだ。
ぎゅっと震える体を小さくして丸くなる。
その時、足元にちらっと黒い何かが動いたのが見えた。
「?」
見下ろすと、私の足の影に隠れるように、小さなもやのようなものが座っていた。
最初はただの動物か何かだと思ったが、その小さな目にじっと見つめられているうちに、それがただの人のように思えて私は思わず尋ねていた。
「……誰ます?」
すると、黒色は私の目を見ながら、大きな口をぱくぱくと動かした。
――なま、え
途方に暮れているような声だった。
まるで今の私のようだ。とてもさみしそうで、悲しそうだ。
だから私は、さらにその子に声をかけていた。
「名前がないます?」
――なま、なまえ
「もしかして、名前がほしいます?」
――なまえ、なまえっ
黒色は嬉しそうに揺れている。細くて小さな手もゆらゆらとうごめいている。
私の中に、この子の役に立ちたい思いがむくむくと湧き上がってきた。
私は服の中から手探りで筆を取り出すと、絵巻屋がいつもしているように名前を書こうとして――ぴたりと手を止めた。
「まだ文字書けないます……」
せめて教本を真似できればなんとかなるかもしれない。
そう思って懐から教本を引っ張り出したその時、今までおとなしかった黒色が突然私に手を伸ばしてきた。
「!?」
教本が手から弾き飛ばされ、地面へと落ちる。
黒色は素早くそちらに滑っていくと、教本があるであろうところで動きを止めた。
そして、まるで風船を膨らませるかのように勢いよく、ぼこぼこと泡を立てながら膨張し――あっという間に黒色は、私の背丈の三倍はありそうな化け物へと姿を変えた。
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