第十三章
平成二年六月某日、夕方から降り出した雨は夜になって激しく降り注ぎ、その雨の音が一家のうめく断末魔の声を掻き消した。
「大人しく言うことを聞け」
低く声を抑えた坊主頭の男の手には、今先ほど四人の人間を刺し殺したばかりの包丁が握られていた。
テルユキは別の二人の男に取り押さえられ、口にはタオルが詰められて言葉を発することも身動きすることも許されない。ただ目の前で自分の祖父母と母親が次々と刺されて血を噴き出しながら死んでいく姿を見ているしかなかった。
「言うことを聞けば妹だけは助けてやる。いいな」
妹のミユキは、テルユキと同じく二人の男に取り押さえられ、口の中にタオルを入れられたまま、真っ青な顔をしている。そして坊主頭の持っている包丁とは別の刃物を喉に突きつけられたミユキは、今にも祖父母や両親と同様に滅多刺しにされて殺されそうな状況だ。
テルユキは、居間の隅で電灯もつけずに雨が激しく屋根を打ちつける音が聞こえる真っ暗な夜中の三時に、僅かに光る小さな懐中電灯で顔を照らされていた。
部屋の中には血を流し死体となって横たわる四人とテルユキ、ミユキの他に、包丁を持った坊主頭の男を含め、六人の男がいた。男達は明らかに堅気の人間ではない風貌をしている。
「いいか。朝八時過ぎにお前は近くにある幼稚園でこの親子三人を刺し殺せ。凶器は俺の今持っているこの包丁だ」
坊主頭の男は、手袋をはめた右手に血に染まった包丁をかざしながら、左手で写真をテルユキに見せた。そこには女の人と小さな男の子、背中にはもっと小さな女の子が背負われている姿が写っている。写真の背景や子供の来ている服装などから朝、幼稚園に子供を送り届けている所を撮ったものらしい。
「よ~く、この三人の顔を覚えろ。間違えるな。もし間違えたりしたらお前の妹の命はないぞ。滅多刺しにするだけじゃねえからな」
坊主頭の男がそう言うと、ミユキを取り押さえていた男の一人がミユキの右胸を強く揉んだ。
「ヒッ!」
と引きつった声を喉から絞り出したミユキの顔からはさらに血の気が引いていった。声を出せないテルユキは、必死に泣きながら首を横に振って、止めてくれという仕草をすると、男はミユキの胸から手を放した。
「言うことをちゃんと聞けば助けてやる。いいか。この親子を間違いなく覚えろ。朝になったら、車で幼稚園の近くまで俺達が送って行ってやる。そしてこの三人が幼稚園に来たら間違いなく刺し殺せ。その後は適当にあと二、三人を切りつけて殺す。それは近くにいる子供でも大人でも誰でもいい。そうすればお前の妹は助けてやる。お前はその場に駆けつけてきた警官が来るまでその場で待っていろ。警察に捕まっても何も話すな。そうすれば精神科に通っているお前ならば心神喪失者として結果的に罪には問われない。じきに釈放される。そうすればお前達兄妹は無事生き残ることができる」
坊主頭の男は、朝が来て夜が明けるまで延々と同じことをテルユキに繰り返し伝えた。
写真で三人の親子をずっと見せ続けられ、しっかり親子の顔を覚えさせられたテルユキは、朦朧とする意識の中、気がつくと車の中に押し込まれていた。もう朝になっていたのだ。
バンのような車の後部座席にテルユキと三人の男が座っていた。運転席にはもう一人男が座っている。雨はまだ強く降り続いている。エンジンも止まった車の窓は曇っていて、さらに強い雨でほとんど外が見えなかった。
車の中でも坊主頭の男は三人の親子を殺す話とその写真を見せることを繰り返した。
ミユキは他の男二人とテルユキの家で待機しているということだ。テルユキが無事目的を達成するのを確認したらミユキは解放される約束になっている。
運転席に座っていた男が無線の様なもので何かを聞いている。そして坊主頭の男に話しかけた。
「兄貴、女が子供を連れてこっちへ向かっていて、予定では後五分で到着します。しかし娘は背中に背負っていないようです」
「何? 何故だ? 毎日三人で幼稚園に来ていたんじゃないのか?」
「報告ではマンションの入り口で娘が騒いだため、他のマンションの住人が娘だけ預かったようです」
それを聞いた坊主頭の男は少し考えた後、ふん、と鼻を鳴らし
「榎木以外、三人皆殺しの予定だったが娘は命拾いしたようだな。まあ良い。二人殺しておけば十分だ」そう言ってテルユキに顔を向けた。
「おい。狙って殺すのは女とその息子の二人だ。一人減った分、他に殺す奴をもう一人増やしとけ」
時計で時間を計っていた男が、時間です、と小さく叫んだ。
「よし、行け! 可愛い妹を殺されたくなければ言う通りするんだ! ちゃんとここで見ているからな!」
そう叫んだ坊主頭の男の合図で車のスライドドアが開けられ、手に包丁を握らされたテルユキは外に放り出された。
「うわあ~!」
テルユキは雨に濡れながら必死になって包丁を振り回し、幼稚園の入口に向かって走った。
― 女と子供を殺さなければミユキが殺される! ミユキを助けなければ!
― 女と子供を殺さなければミユキが殺される! ミユキを助けなければ!
テルユキは心の中で呪文のようにそう繰り返しながら走った。
― いた! あの女と子供だ!
テルユキは激しく降る雨で顔も濡れ、目に雨が入って視界がぼんやりとしていたが、何度も繰り返して見せられた女と子供の姿だけは、はっきりと見えた。
「うわあ~!」
包丁を振り回しながら、テルユキは子供の手を握り、子供を守って逃げようとしながらも足がすくんで動けなくなったその女に包丁を振り下ろした。
最初の一振りが女の左肩から胸にかけて深く食い込んだ。
「ギャッ!」と叫んだ女は、血を噴き出しながら倒れた。
そのはずみで刺さっていた包丁が女から外れた。
テルユキはすかさず女が抱きかかえようとしていた子供の胸を突き刺した。
刺された子供は小さく何か言葉を発していたが、強い雨音にかき消されてほとんど何も聞こえなかった。そして子供もその場に仰向けに倒れた。
― 殺さなければ! ミユキが殺される!
テルユキは倒れた女に三度、子供に三度、再び女に二度、子供に二度、包丁で首筋や腹など柔らかく刺しやすい部分を何度も突き立てた。
― もうさすがに死んだだろう。次は他に二、三人殺さなければ! いやもっとか?
テルユキは女と子供を何度も突き刺す間に、最初に感じていた恐怖というものを忘れていた。血を噴き出して倒れていく人の姿を見て、人を殺すという恐れがその時快感へと切り替わったのかもしれない。切りつけた人間の帰り血にまみれても、土砂降りの雨によって洗い流されるからなのか、テルユキには雨も帰り血も全く気にならなくなっていた。
テルユキは、近くにいたまだ逃げ遅れている女に二刺し、子供に一刺し。次には園内に入り、子供をかばっている女の先生の胸に一刺し、近くにいた子供に包丁を振りかぶって切りつけた。
その時、男の叫び声が聞こえたかと思うと、テルユキは背中に強い衝撃を受けた。その衝撃でテルユキは思わず地面に倒れたが、極度の興奮で手が硬直していたため、握っていた包丁は離さなかった。何事が起ったのか判らないままテルユキは起き上がり、叫びながら包丁を振り回した。
「うわあ~!」
すると目の前には見知らぬ男の人がいてテルユキの邪魔をしようとしている。
― 失敗したらミユキが殺される! 殺さなければ!
テルユキはそう思い、刃物をかわすその男にもう一度刃物を振り下ろした。
今度は男の右手を切り裂くことができた。男はその場で膝をつきしゃがんだ様に見えた。迷わず、もう一度包丁を振り下ろし男の首筋に叩きつけた。
何度か人を刺している間に人の首筋や腹などは柔らかく切りつけやすいことが判ったため、咄嗟にそうしただけだった。
切りつけた男の首筋から血が噴き出した瞬間、背中に熱い衝撃が走った。その衝撃と痛みと熱さで思わず背中を反った。さらに今度は腰に再びすさまじい衝撃と激痛が走り、テルユキは倒れた。
最初は何が起こったのか理解できなかった。意識が薄らぐ中、テルユキは警察の制服を着た男が走り寄ってきていたことが判ると、力が抜けた。
― やっと終わった。目的は達成できた。これでミユキは救われる。
テルユキは安心してその場で眼を瞑った。
血にまみれたテルユキの体を雨が激しく叩きつけている。
園庭にできた雨と血だまりの中に顔を半分埋めながら、テルユキはミユキと二人で新しい人生を始めることを夢見ながら、そこで永遠の眠りについた。
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