第60話 落下
頭が痛い。吐き気がする。体はもうとっくに限界を訴えかけていた。それを無視して、濡れた布を絞り切るように、限界のその向こうまであたしの全てを絞り切る。
それでようやく、姉さまと同等の勝負に持ち込める。
やっと、同じ景色を見ることができた。ずっと、ずっとずっとずっと。姉さまと初めて同じレースにでた時から夢描いていた光景。前方に広がる、どこまでも続く空。誰の背中にも邪魔されず。世界の全てが目の前にある。姉さまがずっと見てきた光景だ。
それを今、あたしは姉さまと一緒に見ている。それが何よりも嬉しかった。
気持ちが高揚する。限界すらも忘れさせてくれるほどに。
楽しい……! こんなにも飛ぶことが、姉さまとのレースが楽しいなんて!
ミナリーが教えてくれた感情が、心の奥底から溢れだしてくる。姉さまと競い合える喜びが、ミナリーが見てくれているという安心感が、あたしに限界以上の力を与えてくれる。
「負けませんよ、アリシア‼」
こんなにも対抗心をむき出しにしてくれる姉さまを、あたしは初めて見た。姉さまの背中が先へ行く。魔力の流れはこっちが握っているはずなのに、それすらも姉さまは容易く打ち破ってくる。
やっぱり、姉さまは天才だ。そして、物凄く負けず嫌いだ。……そりゃそうよね、あたしの姉さまなんだもの! 姉さまの背中を見て育ったあたしが負けず嫌いなのだ。姉さまが負けず嫌いじゃないわけがない。
「あたしだって……‼」
姉さまに追いつく。……ううん、追い越す‼ もう、姉さまの背中を追っていただけの頃のあたしじゃない。その先へ進むって決めたんだ!
全神経を、集中。気持ちだけで前に進むな。頭で考えることを放棄するな。熱い気持ちを持ち続けて、頭は冷静に。目に見える全て、耳に聞こえる全て、肌に感じる全てを読み解け。大丈夫……今のあたしなら、手に取るように全てがわかる。
だから、気づいた。
「あ、れ……?」
何よ、これ。空気が乱されている……? 魔力の流れが読みづらい。まるで何かに邪魔されているようだ。
姉さまとは、違う。
もっと大きな……何かが居る……?
『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッッ‼‼‼』
耳をつんざくほどの大音量で、何かの咆哮が轟いた。
「逃げて、アリシア‼」
「――ッ!」
ミナリーの声。
振り返ったあたしの視界に映ったのは、後方斜め下からこっちに向かって高速で飛来する巨大な影。それが何なのか、一瞬のことに判断はつかなかった。
「姉さまッ‼」
ただ、あたしは咄嗟に隣を飛ぶ姉さまの箒を思いきり蹴り飛ばして、
「ッ⁉ アリシ――」
驚いた顔の姉さまがバランスを崩して箒ごと大きく脇へそれていく。
直後、何かがあたしの箒に激突した。
「かっ――はっ……⁉」
そのあまりの衝撃の強さに、あたしは紙くずのように吹っ飛ばされる。あれだけ強く握っていたはずのハンドルは手から離れ、衝撃緩和術式が発動していたにも関わらず乗っていた箒そのものがバラバラに砕け散っていた。
一瞬の浮遊感。直後、体が落ち始める。
まずい……!
レースに落下はつきものだ。でも、それは箒に乗っている前提の話。箒の衝撃緩和術式は、落下から搭乗者を守ってくれる。じゃあ、箒から手を放してしまったら……?
「か、ぜ……⁉」
声を上手く出せない。痛い……! 全身が、焼けるように痛い。箒が何かと激突した時のダメージ……? 衝撃緩和術式でも、防ぎきれないなんて……。
「か……〈風よ〉……!」
何とか、かろうじて、気休め程度の風の魔術を発動させる。だめだ、頭がボーっとして、意識が遠のく。満足に魔術のイメージを構築できない。これじゃ、魔術は十分な力を発揮しない。
湖面が近づく。間に合わない……。
衝撃が全身に打ち付け、視界が黒く染まった。
不思議と痛みはなかった。ただ、体の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような、嫌な感触だけが残る。胸から空気が強制的に吐き出され、代わりに大量の水が入り込む。
……あたしは、死ぬの?
光が、どんどん遠くなっていく。湖の奥底へ、沈んでいるのだ。
自分自身の力じゃもう、どうしようもない。戻りたくても、戻れない。
嫌だ……。せっかく、姉さまに追いつけたのに。ようやく、姉さまと向き合えそうだったのに。
嫌だ。ミナリーと出会って、ミナリーと仲良くなれて。あたしは、ミナリーに……。
いやだ、しにたく……ない。いやだ、いやだよ……。
たすけ、て……。だれか、だれ、か……。
ねえさま……。
みな、りー…………。
いしきがとおくなっていく。もう、なにもかんじない。なにもみえない。
くらくて、つめたくて、やみがあたしをおおっていく。
これが、しぬってことなんだ。
ごめん、みなりー。あたし、もう…………………………。
「アリシアぁああああああああああああああああああああああああああああッッッ‼‼‼」
意識が途切れる寸前にあたしが見たのは、こっちに向かって必死の形相で手を伸ばす、大好きな親友の幻影だった。
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