第552話 木槌の破壊力
目の前に飛び出した異形の者を見て僕は対処に迷っていた。
大きな木槌を持っているとはいえ、体の大きさと比較して大きすぎるため、それを武器として使えるとは思えなかったからだ。
しかし、異形の者は茶色の髪の毛をなびかせて、僕の足元を風のように駆け抜けた。
僕は一瞬その姿を見失って慌てて背後を振り返ったが、僕の目に映ったのは異形の者がその体と比較して大きすぎる木槌を振りまわしつつ、大きく跳躍した姿だった。
そして、異形の者が全身の力を使って加速した木槌の先端は歩道で彫像のように凝固していた中年の男性の身体を捉えた。
男性は歩いている姿勢で動きを止めていたが、木槌で強打されたて陶器のように細かいかけらとなって飛び散り、最初に立っていた歩道上から車道の上へと飛散していく。
僕は視覚効果に騙されて陶器の像が壊されたような認識で見ていたが、やがてその男性と先ほどすれ違ったことを思い出した。
細かいかけらとなって車道上に飛散した男性が無事でいられるとは思えなかった。
僕は、中年の男性を木槌で破壊した異形の者が地面に着地して走り始めるのを見て、無意識のうちに後を追っていた。
「待て!」
僕は取り押さえるつもりで木槌を持った異形の者を追うが、それは飛ぶような速さで逃げていく。
異形の者との差が開いていくのを感じた時、唐突に周囲の世界に音が戻っていた。
歩道を行き交う人々が普段の動きに戻るのと同時に、僕は異形の者の姿を見失っていた。
僕は自分が追っていたのは霊的な存在で霊視能力がない人間には見ることすらできないに違いないと気付き、追跡を断念したが背後から自動車の急ブレーキの音と鈍い衝撃音が立て続けに響く。
そして少し間をおいて女性の悲鳴がひびき、辺りは喧騒に包まれ始めた。
僕は気乗りがしない思いで人だかりがしている辺りに戻ったが、そこに居る人たちは自分たちが交通事故の現場に遭遇したと思っており、義務感の強い人たちが警察や消防署への緊急通報を始めていた。
道路上には車道上に異物を認めて急ブレーキをかけたミニバンとそこに追突した数台の乗用車が連なって止まっており車列の三台目の下あたりに血だまりが出来ていた。
霊や妖が支配する時空ではほとんどの人は時間が止まったように動きを止めているが、その状態では物質は普段と異なる位相に変化しているのかもしれない。
僕が目撃した異形の者はその状態にある人間を力業で破壊できる能力の持ち主なのだ。
破壊された人体は通常の時空に戻った際に本来の形に戻ることは無く、バラバラになった体の主要部分と微細な肉片が血の海に浮かぶ状態となったようだ。
追突した車列の先頭にいたドライバーは交通事故の被害者が道路上に横たわっているのをさらに轢いてしまったという認識のようで、青ざめた顔で現場に佇んでいる。
僕は彼自身には何の落ち度もないのに災厄に巻き込まれたことを知っているが、それを合理的に説明する方法がないため、その場を離れるしかなかった。
僕は大学院の研究室に入ると、居合わせた栗田准教授に新年の挨拶をしてから届いたばかりの本を受け取った。
栗田准教授は僕の顔を見て心配そうに尋ねる。
「内村君、顔色が悪いが体調を崩しているのではないよね」
僕は昨年の夏ごろ妖に取り憑かれてしばらくの間ゼミを休んだ時期があり、栗田准教授はその件も考慮しながら心配しているようだ。
「いえ、ここに来る途中であまり見たくないものを目にしてしまったためです。ご心配かけてすいません」
栗田准教授にはいずれキャンパス近くで起きた交通事故の件も耳に入るはずであり、僕が目にした出来事を話したら無用に恐怖心をあおる結果になるかもしれなかった。
僕は詳細を話さないことにしたのだが、栗田准教授はそれとなく状況を察した様子だ。
「君は見たくなくても、人には見えないものが見えるから苦労があるのだね。一般に理解できない問題ならば、理解できる奥さんとはしっかりと意思疎通をしたほうがいいよ」
「はいそうします」
栗田准教授はやはり昨年の事件を心配している様子であり、僕は素直に答えるしかなかった。
研究室を後にして、再び「交通事故現場」に戻ると、現場には規制線が張られ一般の人間は近寄ることが出来なくなっており、僕は通りを渡ってドラッグストアのサンチョパンサで莉咲用のおむつを買って帰ることにした。
下北沢に戻り、カフェ青葉の裏口からバックヤードに入った時にはすでに夕刻になっていた。
おむつの入った大きな袋を抱えて厨房の前を通ると、店舗のフロアから戻って来た祥さんと鉢合わせする形となった。
「ウッチーさんおかえりなさい。莉咲ちゃんのおむつ会に出かけていたのですか」
「研究室に本を取りに行ったのだけど、山葉さんから出かけるついでにおむつを買って来いと指令を受けたんだよ。今日は手伝えなくて申し訳なかったけれど忙しくなかった?」
祥さんは正規スタッフとしてカフェ青葉の運営に欠くべからざる存在となっているが、僕の言葉を聞くと肩をすくめてみせた。
「年末までは客足も増えていたけれど新型コロナウイルスのクサイ株の感染が増えたおかげで微妙な状況ですね。カフェ青葉は昼間の営業が強いのですけど、夕方の営業はもともと弱いので今の状況では私は暇を持て余しています」
祥さんは夕方の営業強化のためにアルコール類の販売と営業時間の延長を提案していたのだが、巷で感染症が蔓延している状態では夢物語となってしまった感がある。
せめてもの救いは営業時間の短縮によって協力金が給付されることだと思えた。
「私は感染リスク防止のために山葉さんにはあまり接触しないようにしているのです。お店は心配ないから双子ちゃんが生まれるまで体に気を付けてくださいと伝えてください」
「ありがとう」
僕は感謝の念をつたえる言葉がもっとない物かともどかしい思いをしながら祥さんに礼を言ってカフェの二階にある居住スペースに戻った。
リビングでは山葉さんと裕子さんが食事の準備をしており、莉咲は僕の姿を見つけて駆け寄ってくる。
おむつの袋と、文献が入ったカバンを床に置くと僕は莉咲を抱き上げた。
「パアパ」
「ただいま莉咲」
最近は二語文も話すようになった莉咲を抱えて僕は山葉さんに今日見た出来事を話すことにした。
山葉さんは最初、料理に気を取られている様子だったが、僕の話を聞くうちに料理の手が止まり、ゆっくりと僕に顔を向けた。
「ウッチー、その狩衣姿の陰陽師じみた男が高い能力を持つ妖じみた存在を使役しているとしたら由々しき問題だ」
僕は山葉さんの心の平穏を乱してしまったような気がして話をしたことを後悔しかけたが、何事も彼女と情報を共有していくことが大事なのだと自分に言い聞かせていた。
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