第546話 母の判断

 沼は内村夫妻所有のWRX-STIの後部座席に収まると隣に座る杉田さんに尋ねた。

「あの、私に財布を届けるために何か大事な用事が出来なかったのですか?」

 沼は先ほどの会話を聞いて気になっていたのだが、杉田さんは温厚な笑顔を浮かべて沼に答える。

「私は癌の手術を受けることになっているの。手術などの高額な医療費を支払う必要がある時は、一定以上の自己負担金を支払った時にその一部を還付してくれる制度があるの。還付金が支払われるのはしばらく後なのだけど事前に申請しておけば、還付を受けるのではなくて手術時に上限額以上は支払わないで済ませることもできるので、私それを申請しようとしていたの」

 沼は冷や汗が出る思いで彼女に尋ねる。

「無茶苦茶大事な用事だったのではありませんか。私のために申請が遅れて手術を受けられなかったりしたらどうしよう」

 生真面目な沼が落ち着かない気分になっていることに気づいたのか杉田さんは沼に改めて説明した。

「大丈夫よ。手術の日程はかなり先なので申請手続きには余裕があるし、申請しなくても還付金が支払われるのが遅くなるだけだから大勢に影響はないのよ」

 表情から沼が少し安心したことが分かったのか杉田さんは微笑を浮かべるが、ふと表情を暗くしてつぶやいた。

「とりあえず一度目の手術は受けるけれど、再発したらそれ以上の治療は諦めようかと思っているの」

「え?どうしてですか?」

 沼が尋ねると、杉田さんは寂しそうに微笑する。

「私は癌治療対応の生命保険に入っているので生前給付と言って、癌が発見された場合は生きているうちに保険金を受け取ることが出来るのだけど、手術で癌細胞を取り切れなくて転移を繰り返すようになったら給付された保険金を治療のために使い切るかもしれない。そうなったら、残された息子のために残してあげられるお金が減ってしまうから、再発したときは治療を中断しようかと思っているの。転移してしまった癌はほとんどが治らないと聞いたことがあるから」

 沼が何と答えたらよいかわからずに黙っていると助手席に座っている山葉が後部座席にいる杉田さんに振り返った。

「実は私もつい最近子宮頸癌の手術を受けたばかりなのです。癌の存在が分かった時にお腹の中に子供がいたので、出産するまでは癌の治療をしないと宣言したので、家族や周囲の人達にものすごく心配をかけてしまったようです。結局皆に諫められて手術を受けたのですがそうしてよかったと思っています。お金のことよりも息子さんと一緒にいてあげられるように治療に力を入れた方が良いと思いますよ」

 杉田さんは驚いたように山葉に問い返す。

「まあ、あなたも癌に罹っていたのね。私と違って若いのだから治療されてよかったと思うわ」

 杉田さんは自分が治療するとは言わないので、沼は気がかりだった。

「治療をあきらめてでもお金を残したいと考えるのは、息子さんが引きこもり的な生活をされているからですね」

 山葉が真剣な表情で尋ねると、杉田さんも沈んだ表情で答える。

「そうですよ。もしも私が死んだら息子が生きていくために使えるのは私の貯金だけになってしまう、私たちが住んでいるのは分譲マンションでローンも終わっているけれど、共益費や管理組合の積立金で毎月結構なお金が出て行くの。それに上下水道料金に電気代、食費も必要なので人一人が何もしないで生きていくためにはお金はいくらあっても足りないのよ」

 沼は杉田さんの暗い表情を見て、口を開いた。

「息子さんは働く能力がないのではありませんよね?息子さんに杉田さんの状態を話して頑張って働いてもらえば杉田さんは安心して治療に専念できるのではありませんか」

 沼は自分が当たり前の正論を言っているものの、それが出来ないのにはそれなりの理由があるに違いないと考えている。

「そうね。息子が頑張ってくれればいいのだけれど、息子なりに頑張っても無理だったからこそ今の状態になっているのだからどうにもならないわ」

 杉田さんが渋滞した車の列を見ながらため息をついたのを見て山葉は考え込むそぶりを見せた。

「立ち入ったことを聞いて申し訳ないのですが息子さんはうつ病か何かを患っていたのですか?」

 山葉が尋ねると、杉田さんは暗い表情で説明する。

「ええ、鬱気味だったので医師に相談して投薬を受けたら症状は改善したのですが、それまで鬱気味で勤務状態が悪かったのと、治療の間しばらく休まざるを得なかったので会社は辞めてしまったのです。アルバイトで働こうとしたのですが大勢の人がいる場所に行くとお腹が痛くなると言って次第に家に引きこもりがちになってしまったのです」

 山葉は杉田さんの表情を見ながら遠慮がちな雰囲気で言った。

「息子さんに会ってみないと何とも言えませんが、生霊の件もその症状と関連があるかもしれません。差し当たってわたしに出来るのは生霊を封じる祈祷のようですね」

 山葉は生霊を退治したら、息子さんの引きこもりが治る公算があるように話すので、沼は彼女の祈祷にそこまでの効果があるのだろうかと不安になっていた。

 その時、沼の耳には異様の声が響いた。

 明らかに人の声ではないのだが、くぐもった雄叫びがWRX-STIの天井の辺りから響き、それは心なしか悲しい叫びのように聞こえる。

 そして、WRX-STIのフロントウインドを大きな影がよぎり、エンジンフードの上から跳躍すると渋滞した車列の上を飛び移りながら進んでいくのが見えた。

 運転していた徹は不意に出現した影に驚いてブレーキを踏んだが、渋滞していたためあまりスピードは出ておらず、乗車していた一同はほんの少し衝撃を感じた程度だった。

「すいません。大丈夫でしたか山葉さん」

 沼の耳に徹が奥さんの山葉を気遣っている声が響く。

 彼は年上の奥さんを未だに「さん」付けで呼ぶほど敬愛しており、自分が不用意にブレーキを踏んだことで妊娠中の奥さんの身体に障ったのではないかと心配しているのだ。

「私は大丈夫だ。それよりも問題の生霊が先に行ってしまったが、まるで私たちの会話を聞いていたこのような動きだ。やはりあれは杉田さんの息子さんに起源がある存在にちがいない」

 山葉は生霊が姿を消した道路の前方を見据えており、同乗している四人の中で一人だけ霊視能力を持たない杉田さんは山葉と徹が交わしている会話の意味が理解できず不思議そうな表情で二人を見ていた。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る